しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

カラーテレビ出現

2020年05月04日 | 暮らし
昭和35年、
カラー放送は昭和35年(1960)に始まった。
しかし家には白黒テレビすらなかった。

昭和37年、
家にテレビが入った。(当然白黒テレビ)
その2年後に東京リンピックがあった。

昭和45年ごろ、
呉に住む、姉夫婦の家にはカラーテレビがあった。「柔道一直線」を見ていた。
その頃、ボクシングのモハメッド・アリvsジョー・フレージャーの無敗同士の試合をどうしても見たく、食堂へ行って見た。カラー放送で見た。

昭和46年、(新入社員)
労組の要求事項に「社員寮のテレビをカラーテレビ化」があった。

昭和48年、(独身社員)
個人でカラーテレビを買った。12~14万円したような記憶がある。
放送の半分くらいが白黒で、半分くらいがカラー放送だった。

それから2~3年後、ほぼすべての番組がカラーとなり、新聞の番組案内から「カラー放送」という表示が消えた。


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カラー映画・総天然色出現

2020年05月04日 | 暮らし
小学生になった頃、映画は全盛期を迎えようとしていたが
映画はすべて白黒映画だった。

昭和26年(1951年)「カルメン故郷に帰る」が邦画の第一作だが、
自分が初めて見たカラー映画は洋画だったような気がする。
昭和32年前後、
小学校からバスで笠映(その後スーパー和信)か、その近くの映画館に入り洋画を見た。それがカラー映画だった。スクリーンの海や魚を覚えている。

昭和33年ごろ(映画人口最大時)、
カラーと白黒がはんはん。
東映の「一心太助」「新伍十番勝負」シリーズはカラーだった。
新東宝「明治天皇と日露大戦争」はカラーだった。

昭和36年(1961)大映が70mm「釈迦」を上映した。
この頃から、ほぼすべての映画がカラー映画になった。

高校生の時
入るのは、大和座とセントラル劇場と中央劇場で、
見た映画が白黒だった・・・という記憶は一度もない。

白黒映画だが一部カラー映画というのもあった
昭和42年3月、
高校の卒業式も終わった春に「ピンク映画」を見に福山の映画館に入った。
2本立てだったが、どちらも白黒映画だった。
途中で数回、カラー映画になった。
それは男女がからむシーンで、スクリーンはカラーに、音楽も突然それらしいものに変わった。
映画の時間を1時間30分とすれば、カラー場面が数回あり、併せても15分程度だったような気がする。
追記・映画ポスター見て、期待するほどには面白くなかった。






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トーキー出現

2020年05月04日 | 暮らし
祖父とほぼ同世代の川端康成の小説「伊豆の踊子」は、
青年と踊子が”活動”をいっしょに見るあこがれを書いている。
祖父は明治・大正・昭和・平成と生きたが、死ぬまで映画は『活動』と呼んでいた。
映画はやはり”活動”という方がわくわく感がある。
踊子も、そして祖父も父も無声映画からトーキーへの転換を体験している。


昭和史3 大衆と文化(戦前)研秀出版 平成7年発行より転記。

・・・・・・・・・・・・・・・

トーキーの出現は、
美男美女のスターであっても、地方なまりをもっている俳優はスターの座を追われた。
これまで活動大写真の劇場に欠くことのできなかった弁士と楽士の生活基盤をうばった。
弁士は活弁とも呼ばれ、
徳川夢声、大辻司郎など、昭和6年に関東地方でだけでも1.000人以上が数えられた。
トーキー時代を迎え、音もなく敗退していった。
撮影機材・録音機材、演出の技法も変わっていった。

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映画・用心棒の羅生門

2020年05月04日 | 城見小・他校
映画の全盛期、茂平の集会所で映画の上映があった。
上映日の2~3日前に映画ポスターを貼りだしていた。場所は青木の大池詰所、農協の園芸所、吉本商店の三か所。
初めは福山から来ているという噂だったが、金浦座が来ていた。

月に1~2回程度、映画は二本立てで「時代劇」と「現代劇」。
婦人は家事が終わってから来るので、一本目が時代劇で二本目が現代劇だった。
男の子は時代劇だけが目的で、現代劇は不要だった。不要なら帰ればよいのだが、夜道を一人は怖いので二本目終了までいた。
映画上映日の翌日は、学校帰りに集会場に寄っていた。
必ず切れたフィルムが何個が落ちていた。それを手にして、目の前に見るのが楽しみだった。


ある時「用心棒」が上映された。
見に行った。
監督は黒澤明、用心棒は三船敏郎、悪い方は仲代達也。
この映画は大ヒットして有名だった。(当時田舎に来るのは約1年か、それ以上経ってから、それが”常識”だった)
やや不満だったのは、白黒映画であること、東映のように白塗りの剣士でないことだった。
しかし、個性的な名優が多く出演し、子供にも飽きることがない面白さがあった。

悪い方(当時のチャンバラは良い方と悪い方があった)に、
仲代達也や加藤大介と並び、またそれ以上にインパクトがある大男がいた。
あの大男は「大内山じゃろうか?」、
「額や顎はそっくり」「大男で痩身」、でも少し違いうような・・・・?

その翌日から、茂平の子どもは映画の名シーンであるピストルを包丁でやっつけたことよりも、あれは誰だろう、大内山とは違うのかの話が何度も出た。
(映画ポスターと映画の出演者名に大内山は無かった)

それから数十年後、インターネットが普及してようやく謎が解けた。大内山でなく、羅生門綱五郎という元相撲取りの役者だった。

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