「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編 河出書房新社 2007年発行
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(歩兵10連隊が越えた大別山)
武漢攻略
「漢口をとれば中原(ちゅうげん)を制したことになり、中国を支配できる」
というのが、参謀本部の考えであった。
首都を落とせば蒋介石は降伏すると勝手に決めていた。
日中戦争に入りすでに6個師団を作り、さらに
陸軍は新しい師団を次々に10個も完成した。
中国戦線に61万人を派遣した。
出征部隊に補給する、兵器・弾薬・食糧・衣類・諸雑貨・医薬品を滞らせないため軍需工場を増やした。
産業構造を、権力によって無理やりかえた。
若い男が少なくなると、女性も老人も動員しなければ、人出が足りない。
1938年4月1日、
国家総動員法が公布された。
約50万が武漢作戦に参加した。
とりわけ、
大別山脈(700~800m)の北側を回って、京漢線沿いの信陽に出、そこから武漢を目指す第二軍は、
戦場まで大変な距離を移動しなければならなかった。
第二軍は蘆州周辺への集中を命じられたが、移動そのものが戦争のようなものだ。
第10師団
蘆州を8月20日過ぎ、六安を占領したのが26日。
西進し固始(こし)を占領、最初の難関・光州を攻撃した。
戦闘二日目に中国軍は退却。
信陽付近の戦い
第10師団は広州占領のあと、信陽へ進撃したが、途中の羅山で激しい抵抗を受けた。
羅山を抜くのに約5日間かかった(10月2日)。
占領後も警備のため一個連隊(39連隊)を残した。
第10師団が付近の中国軍と交戦しながら、信陽を占領したのは10月12日である。
漢口の占領
第11軍の第6師団が10月26日、漢口を占領した。
中国軍は漢口・武昌・漢陽ともに市街地では戦いを避け撤退した。
当時の漢口は人口80万人だった。
武漢三鎮合わせて、150万人。上海に次ぐ大都会だった。
1938年11月3日、
漢口市街を陸海軍の部隊が行進した。
その日は明治節で、天長節に次ぐ国をあげての慶祝日だった。
・・・
大作戦一段落
盧溝橋事件以来一年半で、武漢・広東作戦が終了した。
領土の占領。
中国全土の47%を占領。
地味豊かな穀倉地帯、資源豊かな工業地帯。
占領地人口。
約4億。その4割。
「東亜新秩序の建設」12月22日
近衛首相、「日本の戦争目的は東亜永遠の平和である」。
蒋介石、「独立の国家を滅亡させ、別に奴隷的中国をつくりあげ、子々孫々、日本に支配されることを意味する」12月26日。
・・・
情勢の大変化
日本軍による天津のイギリス租界封鎖をきっかけに、米英との関係悪化が深刻になった。
ノモンハンの敗北で、ソ連に対して極度な緊張持続を強いられた。
独ソがポーランド侵入、英仏と独が戦争状態。
日本の兵力補充が限界に近づきつつあった。
・・・・・・・・・
1940年の戦い
5月18日から9月4日まで、
重慶へ無差別大空襲を実施した。
8月ころから共産軍の大反攻が始まった。それに対して反撃し「三光」(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし)と呼ばれた。
中国で目的がはっきりしないまま戦っているうちに、ナチスドイツが西ヨーロッパを席巻した。
フランスとオランダの降伏により、空白地帯化した植民地へ介入しようとした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(歩兵10連隊が越えた大別山)
武漢攻略
「漢口をとれば中原(ちゅうげん)を制したことになり、中国を支配できる」
というのが、参謀本部の考えであった。
首都を落とせば蒋介石は降伏すると勝手に決めていた。
日中戦争に入りすでに6個師団を作り、さらに
陸軍は新しい師団を次々に10個も完成した。
中国戦線に61万人を派遣した。
出征部隊に補給する、兵器・弾薬・食糧・衣類・諸雑貨・医薬品を滞らせないため軍需工場を増やした。
産業構造を、権力によって無理やりかえた。
若い男が少なくなると、女性も老人も動員しなければ、人出が足りない。
1938年4月1日、
国家総動員法が公布された。
約50万が武漢作戦に参加した。
とりわけ、
大別山脈(700~800m)の北側を回って、京漢線沿いの信陽に出、そこから武漢を目指す第二軍は、
戦場まで大変な距離を移動しなければならなかった。
第二軍は蘆州周辺への集中を命じられたが、移動そのものが戦争のようなものだ。
第10師団
蘆州を8月20日過ぎ、六安を占領したのが26日。
西進し固始(こし)を占領、最初の難関・光州を攻撃した。
戦闘二日目に中国軍は退却。
信陽付近の戦い
第10師団は広州占領のあと、信陽へ進撃したが、途中の羅山で激しい抵抗を受けた。
羅山を抜くのに約5日間かかった(10月2日)。
占領後も警備のため一個連隊(39連隊)を残した。
第10師団が付近の中国軍と交戦しながら、信陽を占領したのは10月12日である。
漢口の占領
第11軍の第6師団が10月26日、漢口を占領した。
中国軍は漢口・武昌・漢陽ともに市街地では戦いを避け撤退した。
当時の漢口は人口80万人だった。
武漢三鎮合わせて、150万人。上海に次ぐ大都会だった。
1938年11月3日、
漢口市街を陸海軍の部隊が行進した。
その日は明治節で、天長節に次ぐ国をあげての慶祝日だった。
・・・
大作戦一段落
盧溝橋事件以来一年半で、武漢・広東作戦が終了した。
領土の占領。
中国全土の47%を占領。
地味豊かな穀倉地帯、資源豊かな工業地帯。
占領地人口。
約4億。その4割。
「東亜新秩序の建設」12月22日
近衛首相、「日本の戦争目的は東亜永遠の平和である」。
蒋介石、「独立の国家を滅亡させ、別に奴隷的中国をつくりあげ、子々孫々、日本に支配されることを意味する」12月26日。
・・・
情勢の大変化
日本軍による天津のイギリス租界封鎖をきっかけに、米英との関係悪化が深刻になった。
ノモンハンの敗北で、ソ連に対して極度な緊張持続を強いられた。
独ソがポーランド侵入、英仏と独が戦争状態。
日本の兵力補充が限界に近づきつつあった。
・・・・・・・・・
1940年の戦い
5月18日から9月4日まで、
重慶へ無差別大空襲を実施した。
8月ころから共産軍の大反攻が始まった。それに対して反撃し「三光」(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし)と呼ばれた。
中国で目的がはっきりしないまま戦っているうちに、ナチスドイツが西ヨーロッパを席巻した。
フランスとオランダの降伏により、空白地帯化した植民地へ介入しようとした。