しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

武漢攻略戦(第10師団) 蘆州~光州~信陽~大別山~漢口) 1938年

2020年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編 河出書房新社 2007年発行

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(歩兵10連隊が越えた大別山)

武漢攻略


「漢口をとれば中原(ちゅうげん)を制したことになり、中国を支配できる」
というのが、参謀本部の考えであった。
首都を落とせば蒋介石は降伏すると勝手に決めていた。
日中戦争に入りすでに6個師団を作り、さらに
陸軍は新しい師団を次々に10個も完成した。
中国戦線に61万人を派遣した。

出征部隊に補給する、兵器・弾薬・食糧・衣類・諸雑貨・医薬品を滞らせないため軍需工場を増やした。
産業構造を、権力によって無理やりかえた。
若い男が少なくなると、女性も老人も動員しなければ、人出が足りない。
1938年4月1日、
国家総動員法が公布された。

約50万が武漢作戦に参加した。
とりわけ、
大別山脈(700~800m)の北側を回って、京漢線沿いの信陽に出、そこから武漢を目指す第二軍は、
戦場まで大変な距離を移動しなければならなかった。
第二軍は蘆州周辺への集中を命じられたが、移動そのものが戦争のようなものだ。

第10師団
蘆州を8月20日過ぎ、六安を占領したのが26日。
西進し固始(こし)を占領、最初の難関・光州を攻撃した。
戦闘二日目に中国軍は退却。

信陽付近の戦い
第10師団は広州占領のあと、信陽へ進撃したが、途中の羅山で激しい抵抗を受けた。
羅山を抜くのに約5日間かかった(10月2日)。
占領後も警備のため一個連隊(39連隊)を残した。
第10師団が付近の中国軍と交戦しながら、信陽を占領したのは10月12日である。




漢口の占領
第11軍の第6師団が10月26日、漢口を占領した。
中国軍は漢口・武昌・漢陽ともに市街地では戦いを避け撤退した。
当時の漢口は人口80万人だった。
武漢三鎮合わせて、150万人。上海に次ぐ大都会だった。

1938年11月3日、
漢口市街を陸海軍の部隊が行進した。
その日は明治節で、天長節に次ぐ国をあげての慶祝日だった。

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大作戦一段落
盧溝橋事件以来一年半で、武漢・広東作戦が終了した。
領土の占領。
中国全土の47%を占領。
地味豊かな穀倉地帯、資源豊かな工業地帯。
占領地人口。
約4億。その4割。

「東亜新秩序の建設」12月22日
近衛首相、「日本の戦争目的は東亜永遠の平和である」。
蒋介石、「独立の国家を滅亡させ、別に奴隷的中国をつくりあげ、子々孫々、日本に支配されることを意味する」12月26日。

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情勢の大変化
日本軍による天津のイギリス租界封鎖をきっかけに、米英との関係悪化が深刻になった。
ノモンハンの敗北で、ソ連に対して極度な緊張持続を強いられた。
独ソがポーランド侵入、英仏と独が戦争状態。
日本の兵力補充が限界に近づきつつあった。

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1940年の戦い
5月18日から9月4日まで、
重慶へ無差別大空襲を実施した。
8月ころから共産軍の大反攻が始まった。それに対して反撃し「三光」(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし)と呼ばれた。

中国で目的がはっきりしないまま戦っているうちに、ナチスドイツが西ヨーロッパを席巻した。
フランスとオランダの降伏により、空白地帯化した植民地へ介入しようとした。

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芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る

2020年05月30日 | 平成元年~平成31年
芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る


(あべ静江 2003年11月2日・芳井ふるさと祭り)

今から20年ほど前、後月郡芳井町の文化祭を見に行った。
芳井の知人から毎年人気歌手を呼ぶのを聞いていた、前年は三田明だったそうだ。
当年は元美人歌手の”あべ静江”。
美人歌手は多かったけど、あべ静江もそれが突出した美人歌手だった。
芳井では、
会場の芳井中学校の校庭のステージで「まだ嫁入り前ですから・・・」と自己紹介をしたが、
既に大歳増の歌手だった。
でもじゅうぶん美人歌手だった。
超ミニスカートをはいて自慢の脚をぞんぶんに露出していた。
声はデビュー当時と変わらずいい声だった。
その後、
芳井町は井原市と合併し、芳井文化祭に有名歌手はこなくなった。

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鋼管まつりで、柏原よしえショーを見る

現在の令和天皇がまだ独身だった時、
定例の記者会見で「好きな歌手は柏原よしえ」と言った。
そのため、突然に柏原よしえは特別な歌手となった。
福山の鋼管まつりに、その「柏原よしえ」歌謡ショーがあった。
福山市ではバラ祭りと並ぶビッグイベントは、その年更に多くの人が集まった。
ステージで躍動しながら歌ったが、
人が多く、ゆっくりと歌を聴けなかったのが残念だった。



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里庄まつりで、岩崎良江ショーを見る

お盆に里庄中学校で里庄町の夏祭りがある。
毎年歌手が来るが、
ある年に「岩崎良江」が来た。
すでに50歳くらいだったが、そのスタイルが良かった。
まるでデビュー当時の少女時代と同じだった。
お声の方は?
デビュー時よりも良いように思った。
(もっともデビュー時代をそんなに知らないが)
歌手が、常に見た目を大事に体形管理しているのがよく感じられた。
 
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台児荘~徐州

2020年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編 河出書房新社 2007年発行

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台児荘の戦闘

1938年3月上旬、第二軍司令官・西尾寿造中将の再三の出撃要請を受け大本営が認めた。
実際に参加したのは歩兵三個連隊(岡山・松江・浜田)で、一万程度の兵力と思われる。
徐州の北東60キロほどに台児荘という小さな県城を攻撃した。
ところが、思いもかけず、大苦戦に陥った。
中国軍は10万で攻撃し、歩兵10連隊(岡山)と63連隊(松江)は、師団長の制止を振り切り、独断で台児荘を離脱した(4.月6日)。
中国軍は「勝った!」と判断。
中国は国をあげた大騒ぎとなった。
この局地戦で日本兵2.000人以上が戦死した。


徐州作戦の開始

「徐州周辺に中国軍40万人も集まってくれた、包囲殲滅のチャンス」と決まった。
結論なく作戦は開始された。
数十万を擁する日本軍の統制なき作戦が中国軍には幸いした。
5月の初めから各部隊は進撃を開始した。
北上してきた第13師団(仙台)が徐州を占領した。
中国軍が退却したあとで、無血占領。
両者が遭遇することがなかった。
うやむやのうちに打ち切りとなった
それでも、徐州の占領に始まって、津浦線(天津~南京)の沿線を占領確保した。
蒋介石は政府機関を漢口から重慶へ移転を始め、
日本軍は漢口への進行が決まっていた。
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