しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た

2020年05月22日 | 昭和51年~64年
天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た

今もそうではあるが、当時(昭和50年前後)の岡山のバスターミナルといえば天満屋バスターミナルだった。
今とは勢いがまったく違っていて、表町そして天満屋が、岡山市の中央である中心地だった。
仕事で県庁に行くとき、休日に街へ行くときはバスターミナルでおり、帰りもそこから乗っていた。
人の流れが多いのでラジオ山陽のサテライトスタジオがあった。
ある日、サテライトスタジオの前を通っていたら舟木一夫がゲストで地元アナと会話をしていた。
その当時、
大歌手・舟木一夫は歌手人生のどん底の時代だった。
透明のガラス越しに見る本物の舟木一夫は、人気歌手でもアイドル歌手でもなく、顔の表情に覇気がまったくなかった。
つまり、立ち止まって見るほどの魅力がなかった。素通りした。
それから何年かして復活した。
復活して20余年経った。
よく復活したなあといつも感心する。
本人もそうだろうが、ファンも”舟木一夫”によって人生を楽しんでいる。復活ありがとう。


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岡山市の名所・本郷ビル

岡山市の営業所に赴任早々の頃、
上司である課長と同乗していると、車中の雑談の感じで、岡山市内の取引先や名所や便利な場所などをおしえてくれた。
そのうちの一つ、
「あれが本郷ビルだ」と本郷金物店を指さした。東山線の日銀の向かい側に三階建てのビルだった。
「はぁ?」
「本郷功次郎の実家よね」と。
本郷功次郎は岡山県を代表する映画スターだった。
必ず「岡山朝日高校出身」と紹介された。
大映映画『ああ江田島』でスターになった。
30代になると主役でなく渋い脇役が多かったが、存在感は亡くなるまで続いた。
2013年に亡くなったが、まだ74才だった。
なお本郷ビルは今は無く、その跡地ですら判明ができない程の昔話になってしまった。


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丸坊主

2020年05月22日 | 城見小・他校
丸坊主

城見保育園ができ、その入園ごろに丸坊主になった。
(それから高校3年生になる春まで、ずっと丸坊主だった)

城見小学生の2年か3年の時、学校の下に散髪屋ができた。
そこには大人と、子供の一部が客で入っていた。

ほとんどの子供はバリカンで刈り上げていた。
庭で箱に座り、近所の年上の子や兄弟に頼む子も多かった。
子供が刈ると、どうしても虎狩りになっていた。
そして刃が(よく切れなくて)髪にはさったまま止まり、バリカンを髪から抜いてやり直していた。
その時の子供の顔はそうとう歪んでいた。
それは日常の風景だった。

私は父親がバリカンで刈ってくれていた。
刈った後はカミソリで剃ってくれた。

高校生になって、床屋に行くようになった。
「にまいがり」といってクリクリ坊主でなく、ほんの少しイガグリ頭で、当然ながら父よりは刈った頭がきれいだった。
大門の駅東にいまもある床屋に行っていた。


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蛍取り

田植えが終わってしばらくした頃、いちばんの楽しみはホタル取りだった。
夕方が終える頃、箒と瓶を手にして水田のほとりに向かった。
蛍はどこにでもいたが、蛍の多い場所に行く。
場所は毎年決まっていた。
かまんどうから砂川の法に蛍は多くいた。

暗くなると、あちこちから子供の声が聞こえていた。
光のはホタルの他に、水ボタルと蛇がいた。
水ボタルは近寄ると水の中で光っているので止める。
むずかしいのは蛇だった。
うっかり蛇をにぎるとにゅるっとして背筋が寒くなっていた。

取った蛍は瓶にスギナを入れて明かりを楽しむか、蚊帳の中に入れて飛ばす。
蚊帳の中で光る蛍は、なんともいえない風情があった。
しかし、どちらにしても翌日には蛍は光らなかった。一夜の明りだった。


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