「昭和史4」 研秀出版 平成7年発行より転記。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徐州会戦
昭和13年3月末から4月、北支方面軍の一部は、徐州東北30キロの台児荘で、中国軍に包囲され苦戦ののち転戦した。
中国側は大勝利と宣伝をおこなった。
軍中央は不拡大方針を捨て、徐州周辺地域の60個師団の中国野戦軍を撃滅を計画し、
4月下旬、徐州会戦を開始した。
北方から3個師団で徐州へ、1師団は龍海線・京漢線の遮断で南下、南方から3師団が北上、うち2師団は迂回して徐州へ。
おりからの麦秋の平原地帯を進撃した。
中国軍兵力は5倍あったが、砲火力、航空兵力の乏しさ、統制力の不足などで蒋介石は5月15日、徐州の放棄を決定。
中国軍は小部隊に分散し、南下した日本軍を徐州東方で阻止しながら、西南方へ脱出した。
日本軍は5月19日、徐州に入ったのち追撃に移ったが、中国軍は黄河の堤防を切り、河南省と安微省を水浸しにした。
こうして日本軍による包囲殲滅は不成功に終わり、津浦線打通の目的だけは達成した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徐州会戦
昭和13年3月末から4月、北支方面軍の一部は、徐州東北30キロの台児荘で、中国軍に包囲され苦戦ののち転戦した。
中国側は大勝利と宣伝をおこなった。
軍中央は不拡大方針を捨て、徐州周辺地域の60個師団の中国野戦軍を撃滅を計画し、
4月下旬、徐州会戦を開始した。
北方から3個師団で徐州へ、1師団は龍海線・京漢線の遮断で南下、南方から3師団が北上、うち2師団は迂回して徐州へ。
おりからの麦秋の平原地帯を進撃した。
中国軍兵力は5倍あったが、砲火力、航空兵力の乏しさ、統制力の不足などで蒋介石は5月15日、徐州の放棄を決定。
中国軍は小部隊に分散し、南下した日本軍を徐州東方で阻止しながら、西南方へ脱出した。
日本軍は5月19日、徐州に入ったのち追撃に移ったが、中国軍は黄河の堤防を切り、河南省と安微省を水浸しにした。
こうして日本軍による包囲殲滅は不成功に終わり、津浦線打通の目的だけは達成した。