しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占守島  1945.8.18~23

2020年05月27日 | 占守島の戦い
「一九四五占守島の真実」  相原秀起著 PHP新書 2017年発行  より転記する



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第五方面司令官樋口季一郎は、ソ連軍が千島列島を占領した後、北海道まで攻め込むに違いないと察し、
91師団に対して「断乎、反撃に転じ、上陸を粉砕せよ」と命じた。
8月18日早朝より戦が始まった。

大本営が指示した自衛戦闘終了の刻限は18日、午後4時。
戦闘の最中、午後1時、長島大尉が停戦交渉に出発。
午後4時を迎え、各部隊は積極的な戦闘を中止した。
午後6時50分、池田連隊長敵中に突入。

19日朝、長島とソ連大佐の停戦交渉始まる。
午後3時、竹田浜で始まる。
72旅団長・杉野巌と参謀長の柳岡武らを派遣した。
杉野が口火を切って、現在、両軍が対峙している現状ラインで停戦することを提案した。
ソ連軍は停戦と同時の即時武装解除、さらに日本軍戦車を後退させる要求をしてきた。
杉野らはソ連側の要求を受け入れることにして、堤師団長のもとに戻ってきた。
しかし、
堤は停戦については承知するが、即時武装解除は認めなかった。
満洲の関東軍が即時武装解除の結果の、居留民の悲劇を恐れた。
このため、
柳岡と長島は翌20日、再びソ連軍と再交渉することとなった。
ソ連側は日本の背信行為と受け取った。

20日、
再び竹田浜へ柳岡と長島が目指した。
ソ連軍に監禁された。
午後7時、
旅団や戦車隊に明21日午前6時総攻撃の命令をした。
大本営から「即時停戦と武装解除」が届いた。

21日、
堤はソ連軍将校に停戦と即時武装解除に応じることを伝え、
午前6時直前
「攻撃止め!攻撃止め!」。

22日正午、
堤は長島や通訳とともに占守島沖合に停泊するソ連警備艦「キーロフ」に赴き、降伏文書に調印した。
武装解除は
占守島の中央部の三好野飛行場で行われる事が決まった。

23日、
弾薬・兵器・トラック・小銃などが集められ山積みにされた。
正午前、占守島防衛の指揮を執っていた73旅団の杉野巌少将が現地に到着、
約1万3千人の将兵が並ぶ中、蒼白な面持ちで入場して、全将兵に最後の別れの閲兵を行った。
全将兵が南西の皇居を排して君が代を斉唱した。
続いてソ連軍指揮官のグネチコ少将らが入場、杉野旅団長と握手をして武装解除は終わった。
この日、
モスクワのスターリンは「日本人捕虜50万人をソ連に移送し強制労働に従事させよ」と指令を出した。

武装解除後、
占守島の戦車兵・小田は島に上陸してきたソ連軍重戦車を見て衝撃を受けた。
「あの日にこんなものが上陸してこなくてよかった」とほっとした。
主力の97式中戦車でもまったくかなわないことは一目みればわかった。
その砲身はまるで高射砲のようだ。
「こちらはせいぜい6トン軽戦車、相手は30トンくらい。これじゃあ相手にならない。早く戦争が終わって良かった」。
この戦車に日本軍戦車の砲弾が命中しても簡単に跳ね返されただろうと思った。


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学校帰りの森陰で② オート三輪に乗って帰る

2020年05月27日 | 城見小・他校
学校帰りはオート三輪で

福山の青果市場から茂平の園芸所に農家の果物を集めに来ていた。
空荷のオート三輪できて、果物を積んで帰っていた。
学校帰りに、そのオート三輪に遭遇することがよくあった。
その時は三輪の後ろから4~5人で押してあげる。
そして用之江と茂平の境の峠のうえで、
運転手氏がお礼に乗せてくれる。
三輪は下りの道を荷台に小学生を乗せて茂平園芸所に着いた。そこで小学生はおりた。
その一連の行為のことは、良いこと・悪いこと、違反・違法、安全・保険とかまったく思ったこともなく、
ただ子供には面白かったし。三輪の荷台は気持ちがよかった。
しかし、
空荷で坂道がしんどかった三輪車は、荷物を積んでよく登るものだと不思議な気がしていたが、
今思いだしても不思議だ。

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蒸気機関車の車輪

踏切は無人で、当時は事故をおこすと、怪我は自分持ちで相手(国鉄)には補償が必要だった。
そうゆう事情があるので、踏切は慎重に慎重にわたっていた。
遠くから汽車が見えたり音がすると、通り過ぎるのを待っていた。
国鉄さまさまだった。
いいことは汽車が間近で見えることだった。
特に蒸気機関車の、車輪と音と汽笛と蒸気と煙は迫力があった。
大きな車輪だった。
人間よりも大きかった。
働く人も汗が噴き出ていた。
スコップに石炭をすくって真っ赤に燃え上がる釜に投げ込んでいた。それを一心に繰り返していた。
車輪はいつも動いていたが、
静止した車輪を見れるのが大門駅だった。止まった車輪も大きかった。
その頃の学校の図画で描くのは、たいてい蒸気機関車だった。

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アメリカ屋前の踏切

踏切を渡らないと学校には行けなかった。帰りも同じ道を帰っていた。
茂平から用之江への踏切は三つあり、
橋本屋の前の踏切が学校が決めた踏切だった。
しかし、
学校の”親呼び”で親が通るのはアメリカ屋の前の踏切だった。
それは理由が二つあり、
近道であること、アメリカ屋で買い物をしてかえることだった。
アメリカ屋の踏切は低い場所にあり、左右の確認をすることが不十分になりやすかった。
子供には危ない踏切だった。
この踏切は今もあり、昔と違うのは遮断機があることだけ。
今でも、やはり、他の踏切以上に注意がいるように思う。

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