しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

西浜(ようすな)の漁業、里庄の大原焼、正頭(しょうとう)の杜氏

2020年05月31日 | 暮らし
岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記

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漁業
笠岡市西浜
明治18年ごろ、広島県幸崎町能地から打瀬網が導入された。
日生からは建網が入った。
打瀬網漁師は魚閑期に、塩飽諸島・燧灘・四国の各漁港・壱岐・対馬・南九州へ櫓漕船で行き生魚を買う「出買い」をした。
いっぽう、
この出魚を「カツギ」と称して魚籠を担いで、吉備高原の村々へ、何人かでリレー式に運んだ。
出買いは動力船の出現とともに衰微する。
カツギも陸上交通機関の発達により衰微する。
打瀬は明治24.25年ごろが最盛期で、昭和27年ごろ衰微していった。
網糸は昭和初期までは綿糸であった。
以後ラミーへ。
さらに絹糸へと変わってゆく。
建網漁師は夜の操業もあって、船に蒲団を持ち込んでいる。
旧5月5日の菖蒲の節句には、昼間にオシグランゴという勇壮な船漕ぎ競争をおこない、夜には東西の山を照らすヒッタカなどの祭りや、恵比寿講や、竜宮まつりなど、派手に行ってきた。
昭和26年当時、
打瀬網55軒、
建網35軒、
壷網28軒、
一本釣り25軒であった。
昭和52年末に全員廃業し陸に上がった。


大原焼
浅口郡里庄町里見字大原は伝統的な焼き物「焙烙(ほうろく)」で、素地のまま釉薬を用いないものである。
製造には轆轤(ろくろ)と竹べらがあればいい。
時代とともに、台所用品の要求によって手焙烙、土瓶、釜、土鍋、七輪を作るようになり、明治中期からは火鉢も製造し始めた。
最盛期は明治後期から大正で、
笠岡の富岡港まで車力で運搬し、
船に積んで岡山・広島・山口・四国・播州まで運んだ。
最盛期には20艘の大原船(帆船)がいた。
陸上では自転車行商、徒歩行商までいた。
第二次大戦中は窯場55戸、大原船2艘。
大戦後の物資不足の時代は、火鉢・炬燵が飛ぶように売れた。
昭和28年ごろから、燃料革命と家庭電化、金属台所用品の出回りにより減少。
昭和56年には2戸だけになっている。

備中杜氏
発祥地は笠岡市正頭(しょうとう)である。
備中杜氏の名を得るに至ったのは文化年間といわれている。
杜氏の出身地は笠岡市大島地区、浅口郡寄島町、倉敷市玉島黒崎が多く、
農漁民である。
冬季100日間稼ぎといい、農漁閑期を利用して、秋のとり入れがすむと、一人の杜氏が六・七人の蔵人を連れてゆく郷党的集団で、春の4月5月まで滞在する。
最盛期は大正7年の米騒動ごろから昭和初期である。
黒崎町の場合、香川あたりの酒造組合へ挨拶回りをするのが重要な職務の一つだった。
蔵人の賃金はかなりよかったが、労働はつらかったようだ。
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