「日中戦争全史・上」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記
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昭和12年7月11日、「北支事変」と命名
事態を「北支事変」と命名し、近衛内閣は「重大決意」を発表した。
満州国および華北の治安維持のため、そして中国に反省を促すため華北に派兵するという強硬な声明を発表した。
盧溝橋事件は、局地の軍事衝突事件から本格的な日中戦争へと拡大することになった。
7月29日、「通州事件」
通州保安部隊、約3.000人が反乱を起こし居留民223人を殺した。
日本人117人、朝鮮人(慰安所関係)106人。
『東京日日新聞』は、「通州の大虐殺」として日本国民の敵気心・憎悪心を扇動した。
この段階において軍中央は、呼称通り華北に限定していた。
8月9日、大山事件
海軍の上海派遣隊の大山中尉が中国陣地内で射殺された。
日本国内は、新聞の報道ぶりから憤激のるつばとなった。
昭和12年8月10日、第二次上海事変開始まえ
海軍は大山事件翌日、上海攻撃を決め、上海市長に最後通牒をだした。
海軍軍令部は現地の第三艦隊に「武力の進出に関する制限をなくす」と指示。
空襲の渡洋爆撃の目標は、第一に南京とした。
8月15日、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)声明」
「帝国は隠忍に隠忍を重ね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的に処理せんと企図し、・・・・
しかるに南京政府は挑戦的態度を露骨にし、上海に於いては我に向かって・・・
帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」
8月15の南京渡洋爆撃
長崎県大村から96式陸攻が20機南京爆撃し、済州島へ帰還。(10機撃墜)
台北から14機が南昌爆撃。
空母加賀から16機が蘇州爆撃。12機が南京爆撃。16機が広徳爆撃。(8機撃墜)
大きな損失をもたらしたが、海軍省は「世界航空戦史上未曽有の渡洋爆撃であると喧伝した。
8月21日、第二次国共合作
蒋介石は中ソ不可侵条約を結び、ソ連からは戦闘機などの軍事援助が供与されるようになった。
共産党の紅軍を八路軍に改編し、第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が成立した。
上海地域
蒋介石は欧米列強の利権が絡む上海に、日本軍の主力をひきつけて消耗戦を強いて、日本の「一激論」を挫折させ、この間に米英の武力干渉、国際連盟などの対日制裁、ソ連の対日戦争をうながす戦略をたてた。
日本の上海派遣軍は8月23日上海近郊へ上陸したが、強固な防衛陣地とはげしい抵抗をうけ、戦果を拡大できず長期化した。
参謀本部は作戦重点を華北から上海に移した。
戦線は膠着し、日本軍の苦戦はつづいた。
昭和12年8月24日、中国海上封鎖作戦
海外から中国への援助物資(援蒋)を阻止するため中国沿岸封鎖部隊を編成し、揚子江以南の海湾を封鎖を強行した。
9月2日、「支那事変」と改める
「北支事変」から「支那事変」と呼称を決定、日中全面戦争の宣言である。
9月4日、天皇勅語
「中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。
朕これを憾みとす。
中華民国の反省を促してすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。
・・・」
9月11日、日比谷公会堂の大演説会
日比谷公会堂で政府主催の「国民精神総動員大演説会」が開かれ、近衛首相が演説を行った。
「正義人道のため、特に東洋100年の大計のためにこれに一大鉄鎚を加えて戦意を喪失せしめ、しかるのちに支那の健全分子に活路を与え、手を握り東洋平和の恒久的組織を確立する。
この歴史的大事業を、我らの時代において解決できるのは、今日生をうけた我ら同時代の国民の光栄であり、喜んでこの任務を遂行すべきと思う」
ニュース映画やラジオ、新聞で大々的に報道され、挙国一致体制を構築せよというキャンペーンが展開されるようになった。
「一大鉄鎚を加え」れば簡単に屈服するかのような「中国一激論」が「暴支膺懲論」とセットになり国民の熱狂が高まり、
「南京に日章旗翻る日」はいつかと熱狂して支持する国民意識となっていった。
昭和12年9月10日、上海公大飛行場がが完成
南京の反復攻撃、
広東・漢口・南昌への爆撃を下命した。
海軍航空隊の南京爆撃は9月11日~25日まで、延べ291機が参加。
在南京の米英仏独伊の五か国代表は、駐日アメリカ大使をとおして爆撃攻撃の停止要求を提出した。
南京には、アメリカ伝道団各派が創立・運営する学校や病院、教会施設が集中しており、渡洋爆撃ですでに爆撃を受けていた。
日本軍がアメリカ人を南京から追い出そうとするものだと、大きな反発を引き起こした。
日本の海軍機による民間人の殺害は、8月9月の早い段階から報道された。
上海戦で共同租界へと非難する数千人の市民の群れに爆弾を投下した光景や、民間人の惨状が報道写真やニュース映画・雑誌などをとおしてアメリカ人に知られるようになり、非戦闘員を巻き込んだ日本軍の蛮行にたいする非難の声が上がりはじめていた。
南京空襲の惨状も、新聞記者やカメラマンなどによって世界に報道された。
昭和12年9月27日、国連総会で日本の非難決議
9月27日、国連総会でイギリスが日本の行動を非難する決議案を上程した。
翌日、全会一位で採択された。
国連決議を受けルーズベルト大統領、ハル国務長官も声明を発表。
広田外相は、「行動は自衛であり、違反しない。甚だ遺憾である」と声明した。
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昭和12年7月11日、「北支事変」と命名
事態を「北支事変」と命名し、近衛内閣は「重大決意」を発表した。
満州国および華北の治安維持のため、そして中国に反省を促すため華北に派兵するという強硬な声明を発表した。
盧溝橋事件は、局地の軍事衝突事件から本格的な日中戦争へと拡大することになった。
7月29日、「通州事件」
通州保安部隊、約3.000人が反乱を起こし居留民223人を殺した。
日本人117人、朝鮮人(慰安所関係)106人。
『東京日日新聞』は、「通州の大虐殺」として日本国民の敵気心・憎悪心を扇動した。
この段階において軍中央は、呼称通り華北に限定していた。
8月9日、大山事件
海軍の上海派遣隊の大山中尉が中国陣地内で射殺された。
日本国内は、新聞の報道ぶりから憤激のるつばとなった。
昭和12年8月10日、第二次上海事変開始まえ
海軍は大山事件翌日、上海攻撃を決め、上海市長に最後通牒をだした。
海軍軍令部は現地の第三艦隊に「武力の進出に関する制限をなくす」と指示。
空襲の渡洋爆撃の目標は、第一に南京とした。
8月15日、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)声明」
「帝国は隠忍に隠忍を重ね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的に処理せんと企図し、・・・・
しかるに南京政府は挑戦的態度を露骨にし、上海に於いては我に向かって・・・
帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。」
8月15の南京渡洋爆撃
長崎県大村から96式陸攻が20機南京爆撃し、済州島へ帰還。(10機撃墜)
台北から14機が南昌爆撃。
空母加賀から16機が蘇州爆撃。12機が南京爆撃。16機が広徳爆撃。(8機撃墜)
大きな損失をもたらしたが、海軍省は「世界航空戦史上未曽有の渡洋爆撃であると喧伝した。
8月21日、第二次国共合作
蒋介石は中ソ不可侵条約を結び、ソ連からは戦闘機などの軍事援助が供与されるようになった。
共産党の紅軍を八路軍に改編し、第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が成立した。
上海地域
蒋介石は欧米列強の利権が絡む上海に、日本軍の主力をひきつけて消耗戦を強いて、日本の「一激論」を挫折させ、この間に米英の武力干渉、国際連盟などの対日制裁、ソ連の対日戦争をうながす戦略をたてた。
日本の上海派遣軍は8月23日上海近郊へ上陸したが、強固な防衛陣地とはげしい抵抗をうけ、戦果を拡大できず長期化した。
参謀本部は作戦重点を華北から上海に移した。
戦線は膠着し、日本軍の苦戦はつづいた。
昭和12年8月24日、中国海上封鎖作戦
海外から中国への援助物資(援蒋)を阻止するため中国沿岸封鎖部隊を編成し、揚子江以南の海湾を封鎖を強行した。
9月2日、「支那事変」と改める
「北支事変」から「支那事変」と呼称を決定、日中全面戦争の宣言である。
9月4日、天皇勅語
「中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。
朕これを憾みとす。
中華民国の反省を促してすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。
・・・」
9月11日、日比谷公会堂の大演説会
日比谷公会堂で政府主催の「国民精神総動員大演説会」が開かれ、近衛首相が演説を行った。
「正義人道のため、特に東洋100年の大計のためにこれに一大鉄鎚を加えて戦意を喪失せしめ、しかるのちに支那の健全分子に活路を与え、手を握り東洋平和の恒久的組織を確立する。
この歴史的大事業を、我らの時代において解決できるのは、今日生をうけた我ら同時代の国民の光栄であり、喜んでこの任務を遂行すべきと思う」
ニュース映画やラジオ、新聞で大々的に報道され、挙国一致体制を構築せよというキャンペーンが展開されるようになった。
「一大鉄鎚を加え」れば簡単に屈服するかのような「中国一激論」が「暴支膺懲論」とセットになり国民の熱狂が高まり、
「南京に日章旗翻る日」はいつかと熱狂して支持する国民意識となっていった。
昭和12年9月10日、上海公大飛行場がが完成
南京の反復攻撃、
広東・漢口・南昌への爆撃を下命した。
海軍航空隊の南京爆撃は9月11日~25日まで、延べ291機が参加。
在南京の米英仏独伊の五か国代表は、駐日アメリカ大使をとおして爆撃攻撃の停止要求を提出した。
南京には、アメリカ伝道団各派が創立・運営する学校や病院、教会施設が集中しており、渡洋爆撃ですでに爆撃を受けていた。
日本軍がアメリカ人を南京から追い出そうとするものだと、大きな反発を引き起こした。
日本の海軍機による民間人の殺害は、8月9月の早い段階から報道された。
上海戦で共同租界へと非難する数千人の市民の群れに爆弾を投下した光景や、民間人の惨状が報道写真やニュース映画・雑誌などをとおしてアメリカ人に知られるようになり、非戦闘員を巻き込んだ日本軍の蛮行にたいする非難の声が上がりはじめていた。
南京空襲の惨状も、新聞記者やカメラマンなどによって世界に報道された。
昭和12年9月27日、国連総会で日本の非難決議
9月27日、国連総会でイギリスが日本の行動を非難する決議案を上程した。
翌日、全会一位で採択された。
国連決議を受けルーズベルト大統領、ハル国務長官も声明を発表。
広田外相は、「行動は自衛であり、違反しない。甚だ遺憾である」と声明した。