この本↓には、港の繁栄の必須条件の一つとして”茶屋”を述べてあるが、
たしかに、古い港町には必ずのように遊廓跡がある。
危険と長旅と男性だけの世界なので、そうゆうことになるのか。
そういえば戦時中にも聯隊のいるところ、従軍慰安婦がいた。何かと共通している。
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「瀬戸内の民俗史」 沖浦和光 岩波新書 1998年発行
おちょろ船
沖乗り航路を突っ走る大型帆船が増えてくると、どうしても芸予諸島の島々に風待ち・潮待ち港が必要になってきた。
海岸沿いをはしる「地乗り」航路は安全だが、日数がかかった。
「沖乗り」を通れば、二倍近く速くなる。
元禄期のころから北前船の数が急増した。
文化年間に御手洗港に波止が完成した。
近世の瀬戸内では、各地から船と人が集まる港の繁栄を維持するうえで、
どうしても必要なのは問屋・茶屋・芝居小屋の三点セットだった。
御手洗で茶屋を置くことが公認されたのは享保年間で、若胡子屋が一番古い。
明和5年(1768)の御手洗の人口は543人のうち94人が遊女だった。
「おちょろ船」は、遊女たちを乗せた小さな舟であった。
小船で物を売っていて、ついでに春をひさいだ。
「おちょろ」の相手は、陸上がりするだけのゼニのない下級の船乗りだった。
遊女屋の「おいらん」とは格が違った。
(明治維新後は「おいらん」と「おちょろ」の区別がしだいになくなり、
女たちの多くは船に乗って商売するようになった)
5人ほどがおちょろ船に乗り、船につくと縄ばしごで全員「顔見世」に上がる。
食事の世話から、洗濯、つくろい物までなんでもやる。
まさに「一夜妻」である。
客があっても無くても、真夜中の12時までは海上にいなければならぬ。
7時間も海上で客待ちせねばならぬのだから過酷な重労働である。
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櫓音頭
豊田郡豊町
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御手洗をヨ素通りすればヨ
あの妓祈るか風変はるヨー
〽
御手洗女郎衆の髪の毛は強い
のぼりくだりの船つなぐ
〽
ちょろは出てゆく鷗は帰る
色の港に灯りはうつる
〽
おちょろ船からあの妓が招く
招きゃ船頭さんの手がゆるむ
「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
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撮影日・2007年7月28日 (広島県 大崎下島・御手洗)