一年で一番暑い夏休みの盆の前後ごろ、
茂平にも「アイスキャンデー屋」が来ていた。
笛をピーピー吹きながら、自転車に旗をなびかせてやってきた。
あの音が楽しかった、というか親に期待したい時だった。
アイスキャンデー屋が来る2~3回に1回ほど、親がアイスキャンデーの金をくれた。
おじさんが自転車を停める頃は、もう客(子ども)が先におじさんを待っていた。
夏休みなので、親戚を訪ねている見慣れない子がきていて、大阪弁や東京弁を生で聞くことがあった。
言葉の他に、服装や、しぐさが茂平の子とは全く違っていた。
その時は、茂平はほんとに日本の地の果てかと、みじめに思った。
自転車の荷台に四角な木箱を置いていて、その中にアイスキャンデーが入っていた。
お金を出して食べるおやつ類は、どれも、なにも、みなおいしかったが
夏のアイスキャンデーは特においしかった。
粗末な氷の冷蔵庫の箱から出してくれるアイスキャンデーは、
その時、すでに溶けかけていた。
吸いながら食べた。
甘くて色粉がいっぱいのアイスキャンデーだった。
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「昭和の消えた仕事図鑑」 澤宮優 原書房 2016年発行
アイスキャンデー屋
自転車の荷台に木箱が置かれ、
蓋を開けると、基盤の目状の枠の中に棒付きのアイスキャンデーがはいっていた。
アイスキャンデーは夏の風物詩であった。
午後1時から3時までの間に、アイスキャンデー屋がやってくる。
粗悪な色素・香料が使われ、
雑菌の入った水で作られていたので腹をこわすこともあった。
売り子は麦藁帽子を被った中年以上の年配の男女が多く、
季節仕事でもあり
収入も安く、専業は多くなかった。
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「失われゆく仕事の図鑑」 永井良和他 グラフィック社 2020年発行
アイスキャンデー売り
自転車の荷台に大きな木箱を乗せ、のぼりを立てて、チリンチリン。
昭和の夏の風物詩、アイスキャンディ売りの全盛期は、
実はそれほど長くない。
当時のアイスキャンディは、
ズルチンやサッカリンのどの人工甘味料、または果汁で味付けした水を試験管のような器具に入れ、割りばしを差し込んで凍らせたものだ。
多くは赤や青であざやかに着色されていた。
1950年代後半から強力なライバルが登場する。
雪印、森永、協同乳業などの大手メーカーがアイスクリームや水菓の大量生産を始めたのだ。
駄菓子店や食料品店には冷蔵庫が普及し、
カップアイスや棒アイス、シャーペットなどが安定的に供給できるようになった。
喫茶店ではソフトクリームが新商品として流行した
こうしたライバルの台頭を受けてアイスキャンディ売りは規模を縮小していく。
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