しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井戸平左衛門

2023年10月14日 | 銅像の人

場所・岡山県笠岡市笠岡

井戸平左衛門は、”芋代官様”と今も笠岡市民に敬われている。
薩摩芋の栽培は飢饉を救い、さらに人口増に寄与した(招いた)。
他にも、日本全国には多くの、”芋代官”や”芋大名”がいるのだろう。

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代官 井戸平左衛門の像

石見国大森代官として赴任して、享保17年(1732)から約1年間、笠岡代官を兼務した。
領民を飢饉から救うために、数々の善政を行った名代官として知られる。
この胸像は昭和30年に製作。白セメント製で、
かつて代官所があった笠岡小学校の校庭に建てられていたものである。


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井戸公園の説明版


井戸平左衛門正明第14代笠岡代官(1721)

さつま芋の栽培を広げて飢饉の窮乏から救った代官として有名。
享保18年5月(1722)幕府の許可を待たずに官庫の食糧を放出した責任をとって自刃、
また病死とも伝えられている。
墓は隣接の威徳寺にある。
平成2年4月14日井戸代官の縁により島根県大田市と友好都市縁組を結ふ。
     笠岡市都市計画課

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撮影日・2023年10月14日

 

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産婆さん

2023年10月14日 | 失われた仕事

茂平の同級生Aくんのお母さんが産婆をしていた。
Aくんのお母さんは、しゃんとした人だったので、他に
婦人会の会長や
茂平婦人消防団の団長などもされていた。
茂平の人は大人も子どもも、”産婆さん”と感謝を込めて呼んでいた。

産婆さんが、どれほど忙しかったかというと
管理人が生まれた時、茂平だけでも相前後してHくんとT子さんが生まれた。
産婆さん自身がゼロ歳児を育てながらの産婆業で、
しかもAくんの上にはお姉さんが二人いた。
ついでに言えば、当然ながら合間には農業もしていた。

城見小学校の同級生60余人、そのほぼすべてを産婆さんが取り上げた。
産婆さんの年齢は、管理人がお世話になった当時30歳前と思われる。
今から思えば、信じられない神業で、
母も当時のことを
「産婆さんほど忙しい人はおらなんだ」と、よく話していた。

 

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「鴨方町史」


産室 

昭和20年代までは、自家でお産をした。
産室はナンドであった。

ヒヤのある家はヒヤですることもあった。
脛をつき、お尻をあげた格好となる。

青竹を両手で持ち、握りつぶすほどりきんで産む。
座り産である。


お産

産気づくと産室へ入った。
産むときは恵方に向き、全身の力を振り絞ったのである。
子供は差し潮か満ち潮の時に生まれるのがよいといわれる。 

 

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「昭和の仕事」  澤宮優 弦書房 2010年発行

産婆(さんば)

明治32年に作られた産婆規則の試験に合格し、
分娩を助ける女性を言う。
木下恵介の代表作「二十四の瞳」には、
将来の夢という作文の時間に、
産婆になりたいというシーンがあった。
戦前の地方の女性にとって、
自立して生きることは、手に職をつけることで、
とくにこの時代に女性が携わることができる職種は限られていた。

 

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瓦師

2023年10月14日 | 失われた仕事

城見小学校の通学路は、橋本屋の前の踏切を渡るのが学校から指定されていたが、
5.6年生になると、帰り道はアメリカ屋の前の踏切をわたって帰ることがあった。
その訳は、アメリア屋寄りの瓦屋に遊びに行っていたから。
瓦屋での遊びは、仕事の邪魔にならないようにラジオを聴いた。
瓦屋は、仕事場にラジオを置いて相撲中継を流していた。
それを小学生たちも、
「今日も栃錦は勝つだろうか?若乃花は呼び戻しで勝つかな?」
それは当時の、日本人の多くが注目するところだった。

用之江の瓦屋は、すぐ近くの田んぼからの土を原料にして、
従業員2~3人で毎日瓦造りをしていた。

昭和30年、家を新築した時、
瓦は四国の菊間から船で茂平の港に着いた。その時の光景は今もよく覚えている。
では用之江の瓦屋の販路はどの方面だったのだろう?
長く城見の工場では、用之江の瓦屋が最大規模だったのだが。

 

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「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

瓦師


瓦師は粘土をこねて型を作り、窯で焼いて、鬼瓦・平瓦などを作った。
大河が近くを流れ、良質な粘土がとれるところに瓦工場が作られた。
戦前から昭和40年代にかけて、煙突小屋のある瓦工場はあちこちに見られた。

名古屋の三州瓦、兵庫の淡路瓦、島根の石州瓦が、
日本の三大瓦と呼ばれる。

立地条件として、交通の便もある。
すなわち港の存在も必要な要件であった。

 

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「新修倉敷市史第八巻」  倉敷市  1996年発行

瓦焼き
瓦の製作には、田の上土を取り除いて、その下にある粘土が使われる。
稲が刈り取られた後の冬の間に粘土を掘り起こしてきて、
その固まりを自宅の前庭に山のように積んで、一年間の使用分を蓄えておいた。
昔の個人的な小経営の瓦焼きは、一年間に四~五軒分ぐらいのものであった。

 


「だるまがま」と呼ばれる、両側にたき口のある土の窯に入れて焼かれた。
たき口には、松葉を入れ、煉瓦と板、さらに砂止めをしてふたをすると、
蒸すように焼くことができた。
しかし温度調整など、付きっ切りの作業で、重労働だった。
「だるま窯」は、小さな窯で一基あたり300~400枚の平瓦が焼けた。
窯の補修のために、交替用として自宅に二基用意されていた。
昭和35年頃、重油バーナーに変った。

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