しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「雨月物語」吉備津の釜  (岡山県吉備津神社)

2024年04月29日 | 旅と文学

吉備津神社の、廻廊の側に「御竈殿」がある。
独立した建物で、湯気が内から外に漏れている。

この湯気は”鳴釜神事”のもので、
釜から沸いた水蒸気で、釜に音が鳴り、それで吉兆を占っている。

戦国時代には、既に「備中の吉備津宮に鳴釜」があると有名だったそうだ。
令和時代の今日も、毎日この神事は行われ、神の祈祷・信託を受ける人が絶えない。


上田秋成は、この神事を素材にした「雨月物語 巻之三 吉備津の釜」を残している。

 

旅の場所・岡山県岡山市北区吉備津「吉備津神社」
旅の日・2019年8月13日 
書名・雨月物語
原作者・上田秋成
現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著 現代教養文庫 1980年発行

 

 

 


吉備の国賀夜部庭瀬の郷(岡山市庭瀬)に、井沢庄太夫という者があった。
春に耕し、秋に刈り入れて、家豊かに暮らしていた。
ひとり子の正太郎という者は、家業の農業を嫌うあまり、酒に乱れ、女色に耽って、父の躾を守ろうとしなかった。
両親がこの行状を敷いて、ひそかに相談し、
「ああ、どうにかして、良家の美しい娘を嫁としてあてがってやりたい。
そうすれば正太郎の身持ちも自然とおさまるだろうから」と、広く国中を探していると、さいわい仲人になる人がいて、
「吉備津の宮(岡山市吉備津神社)の神主香央造酒の娘は、生まれつき美しく、両親にもよく仕え、その上歌をよく詠み、琴にもすぐれています。
庄太夫はたいそう喜び、「よくぞ言ってくださった。この縁組は、わが家にとっては家運長久のめでたいことです」
まもなく結納を充分に整えて送り届け、吉日を選んで婚をあげることとなった。

 

さらに幸運を神に祈るために、巫女や裾部(下級の神職)を召し集めて、御釜をした。
そもそもこの吉備津の社に参詣祈願する人は、多くの供物を捧げ、御釜祓の湯を奉り、吉兆か凶兆かを占うのである。
巫女の祝詞が終わり、御釜の湯が湧きたぎると、吉兆の場合は釜は牛の吼えるように鳴り、凶兆ならば釜は物音ひとつ立たない。
これを「吉備津の御釜」というのである。
ところが、香央の家の婚儀については、かすかな音もしない。
娘は婿君の美男ぶりをうすうす聞いて、嫁入りの日を指折り数えて待ちかねていた。
婚儀はとどこおりなく行なわれ、「鶴の千歳、亀の万代まで」と、めでたく歌い、祝ったのであった。


磯良は、井沢の家に嫁いでから、朝は早く起き、夜は遅く寝て、いつも舅姑の側 を離れずに仕え、
夫の気性をよく心得て、誠意を以て仕えたので、井沢夫婦は磯良の孝行と貞節を気に入って喜びを隠さず、 
正太郎も磯良の気持を嬉しく思って、むつまじい夫婦仲であった。 
しかし、生まれついての色好みの本性はどうにも仕方のないものである。
いつの頃からか、鞆の港(広島県福山市鞆、古くから瀬戸内海の要港)の袖という遊女と深く馴染んで、
ついに身受して、 近くの里に妾宅を構え、そこに泊り込んでわが家に帰らない。
庄太夫は磯良のひたすらな献身を見るに見かねて、正太郎をはげしく叱責し、一室に監禁してしまった。

 

 

 

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「雨月物語」白峯  (香川県白峯寺)

2024年04月29日 | 旅と文学

本州と四国が一番接近しているのが、児島半島の岡山県児島・玉野ふきんと、香川県坂出市の五色台。
五色台とは紅峯・黄峯・青峯・黒峯・白峯の五つの山の総称。
玉野市渋川海水浴場からは、眼前に台地状の400~500mの山々が見える。

修業の旅をつづけていた西行法師は、1168年の秋、その渋川から讃岐の白峯の麓に渡ったと伝えられる。
白峯は、上田秋成の「雨月物語」の冒頭の物語として有名。
四国88ヶ所霊場81番白峯寺には、第75代天皇・崇徳天皇のお墓があり、参道は西行の道として整備されている。

 

 

 

旅の場所・香川県坂出市青海町「白峯寺」(しろみねじ)
旅の日・2009.10.25 
書名・雨月物語
原作者・上田秋成
現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著 現代教養文庫 1980年発行

 


雨月物語 卷之一

白峯

逢坂の関の番士に通行を許され、東国への道をとってから、秋山の紅葉の美しさを見捨てがたく、そのまま旅を続けて、浜千鳥が足跡を砂につけ て群れ遊ぶ鳴海潟、富士山の雄大な噴煙、山麓の浮島が原、清見が関、大磯小磯の風光を賞し、さらに紫草の咲き匂う武蔵野から、塩釜の海のお だやかな朝景色、象潟の漁師の鄙びた住居、佐野の舟橋、木曽谷の桟橋など、ひとつとして心のひかれぬところはなかったが、なお 西国の歌枕を見たいと思って、西行は仁安三年の秋には、芦の花散る難波を過ぎ、須磨・明石の浦吹く風を身にしみじみと感じながら、歩みを重ねて讃岐の真尾坂の林という所にしばらく滞在することにした。
長旅の疲れを休めるためでなく、仏法を思念し修行するため、草庵にこもったのであった。

 

 

 

この里に近い白峰という所に、崇徳上皇の御陵があると聞いて、拝み申しあげようと、十月初旬の頃、その山に登った。
松や柏が薄暗いまでに茂りあい、白雲のたなびく晴天の日でさえも、小雨がそぼ降っているように思われる。
児が嶽という険しい峰が背後に聳え立ち、深い谷底から雲や霧が這い上るので、目の前さえはっきりしない不安な気持になる。

日が沈んだので、深い山の夜のありさまは、ただごとでない不気味さで、坐っている石の床も、降りかかる木の葉の夜具もたいそう寒く、身も心も冷え冷えと澄みとおる気がして、自然と、何とはなしに物凄い気持がしてくる。
月は出たが、茂った木立の間は月光も洩れて来ないので、文日もわからぬ闇の中にいて心憂く、
眠るともなくうとうとしている時に、「円位、円位」と、西行の法名を呼ぶ声がする。
眼をあけて、闇の中を透かして見ると、背が高く、痩せおとろえた異形の人が、
顔のようす、着物の色や模様もはっきり見えないで、こちらを向いて立っている。
西行はもとより悟道の僧であるから、恐ろしいとも思わず「ここに来たのは誰か」と答える。
仏縁に帰依なさる御心になられるよう、お勧め申しあげた。

よしや君 昔の玉の床とても かからんのちは 何にかはせん

この言葉をお聞きになって、お気に入ったようであった。
お顔つきも穏やかになり、陰火もしだ いに薄らいでゆくにつれて、ついにお姿もかき消したように見えなくなった。
怪鳥もどこにいったのか、姿もなく、十日あまりの月は峰に沈んで、木の下闇の文目もわかぬ暗さに、西行は夢路をさまようような気持であった。
まもなく明けゆく空に、朝鳥が声さわやかに鳴きはじめた。

 

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