しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

里芋

2024年04月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

古代の主食だった「さと芋」は、どこの農家にも植えていた。どの道ばたからもサトイモの葉がよく見えていた。

実を小さく切って、煮たものが食卓にのっていた。
美味くも、不味くもない野菜だった。

雨の翌朝は、
葉っぱにできた大きな水たまり(水滴)が、ころころ動いたり、落ちたりするのが楽しかった。

 



「日本の伝統野菜」宮崎書店 板木弘明 2015年発行

さといも

いねよりも古くから主食にされてきた野菜。
さといもは、アフリカやオセアニアで主食となっている「たろいも」と同じ仲間です。
日本へは中国を経由して伝わりました。
縄文時代にはすでに食べられていて、いねよりも前から人々の主食だったと言われています。
山に生えているやまいもに対して、人里で育てたのでさといもとよばれるようになりました。
はじめに種いもを植えつけると、その上に「親いも」ができ、 
そのまわりに「子いも」や「孫いも」ができます。
子いもや孫いもを食べる品種、親いもを食べる品種、 両方を食べる品種があります。

 


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。

 


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

里芋
里芋は日焼けにあいやすい作物。
水田で田芋を作っているところもある。
呼称はコイモとかズイキ芋・・・。
寒さに弱く、腐りやすい。一日ぐらい干して、穴を掘ってスクモをいれることが多い。

 

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

サトイモ 

サトイモは、子芋や親芋・ズイキ(芋茎)などを食用にするが、親芋はえぐくて食用にならない種類もある。 
子芋は 煮物にし、煮染めに入れる。
葬式や法事のときに煮て皿につける。 
ズイキはゆでて、皮を取って干す。
保存しておき、味付けしておかずにし、醤油飯とか五目飯に入れる。

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

サトイモ(里芋)
日本では稲作よりも早く、縄文時代から食べられていた。
中央の親芋のまわりに子芋、孫芋がつく。
ずいき
葉柄はずいきとして食用にされる。

 

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蜜柑(みかん)

2024年04月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和35.36年頃の雑誌の写真記事に、
人気絶頂の双子の歌手「こまどり姉妹」が炬燵に入って温州ミカンを食べていた。
芸能人とか、お金持ちは、テレビを見ながらミカンを食べるんだな。
うらやましいな、と思った。
我が家にテレビはなかった。
ミカンもなかった。

日本経済は世界を驚かす成長が始まろうとしていた。
国も農協や家の光やメディアを使い農家に、ミカンを奨励した。


その頃、父母は山の段々畑にミカンを植えていった。
笠岡湾の海に面し、

笠岡湾には打瀬船や旅客船や貨物船が
♪黒い煙を吐きながら・・・行き来していた。
それは美しい風景だった。

父母のミカン畑は茂平では多い方だった。
いちばん本数が多かったかもしれない。
だが、
芸予諸島や愛媛のミカン畑とは、とても比較できない零細規模だった。
父母は儲ける果物として植えたミカンだったが、
実が成り出したころは、出荷して儲けるミカンでなく、
家族で食べたり、隣近所に配ったり、親戚に贈ったりするミカンとなった。


父がよく、
「国が作れい言うて作ったもんで、儲かったもんは、・・・ねえ」
茂平のミカンはその代表作物だったような気がする。

 

 

 

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行

蜜柑


I 江戸時代
紀州蜜柑といえば、紀州から嵐のなかの荒海を運んだ蜜柑で大儲けした、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船の話が有名であるが、
これについては明らかな史料が存在しない。
むしろ元禄期に幕府の特権商人として成功し、材木調達で巨富を得た紀伊国屋文左衛門の出世談として付加されたもの。
これは文左衛門の豪放な性格から生まれた逸話で、紀伊国屋という屋号と紀州蜜柑とが結びつけられて、二世為永春水の『黄金水大尽盃』という小説に仕立てられたために、蜜柑船のイメージが定着したとされている。

もともと江戸初期において蜜柑は、上流武家の贈答品として用いられたものであった。
それが江戸市中に大量に出回り、大衆化して”蜜柑プーム"が起こるのが元禄期頃で、その後に地方都市へも普及していったことが明らかにされている。
とくに蜜柑は、気候などの関係で産地や季節が限定され、
遠隔地からの大量輸送が普及の前提となるため、初めは高級食品として上層社会の一部で楽しまれたに過ぎない。
しかし輸送のルートやシステムが整えられると、生産量や流通量も増え、価格も低く抑えられるようになり、
蜜柑は廉価な大衆食品となっていった。


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

国際的な蜜柑栽培


日本の蜜柑を代表するものが温州蜜柑で、現在、蜜柑といえば温州蜜柑を指している。
江戸初期に浙江省から伝来して、九州で栽培された蜜柑の一種があった。
それの突然変異した実生 から、温州蜜柑が発生したと思われる。
九州地方では温州蜜柑を仲島蜜柑と呼んでいる。
明治以降になると、温州蜜柑は全国各地でつくられるようになった。

アングロアメリカでは、温州蜜柑をテレビオレンジともいっている。
手軽に手で果皮を剥くことができ、テレビを見ながら食べられることからその愛称が付いた。

明治になってこれまで九州のみでつくられていた温州蜜柑が、愛媛県をはじめ各地で栽培されるようになった。
そして東京神田市場に初出荷されたのは明治14年(1881)のことであった。
愛媛県北宇和郡立間村(現吉田町)でこれまで主な商品作物であった生薑の生産が行き詰まったことから、 
明治7年(1874)、温州蜜柑の栽培に踏み切った。
現在この町はわが国でも有数の蜜柑産地になっており、
国東半島(大分県)まで船を使って蜜柑の出作りをしていることで知られている。

 

「日本の風土食探訪」  市川健夫  白水社  2003年発行

八朔と伊予柑

八朔や伊予柑は柑橘類であっても、蜜柑の仲間でもなく、またオレンジやレモンの系統にも属していない。
そこで雑柑の中に入れられている。

万延元年(1860)、備後国御調郡田熊村(現広島県因島市)の寺の住職が、ゴミ捨て場に自生している八朔を見つけた。
旧暦の八月朔日のころになると食べられることから、その名がついたといわれている。
八朔は夏蜜柑やネーブルよりも耐寒性が強く、温州蜜柑に次いでいる。
また病害虫にも強い。 
一般 に柑橘類の収穫は秋であるが、八朔は夏が旬になるなどの利点をもっている。 
八朔の年間生産量18万トンのうち、半分を和歌山県が占めている。
そのほか愛媛・熊本・徳島・広島の諸県がこれに次いでいる。

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行  


わが国の果樹栽培

わが国の果樹栽培を見ると、古代から大正時代まで第一の果物は柿で、北海道と沖縄県を除いて、全国各地でつくられていた。
それが明治の殖産興業政策の一環として取り上げられた萃果(西洋リン ゴ)が、大正9年(1920)頃から伸びて、第二次大戦後には筆頭の果物になった。
しかし昭和35年、蜜柑が萃果を追い越した。 
それまで100万トンを越えていた萃果の生産は90万トン台と停滞しているのに、蜜柑はその後も伸びて、昭和54年(1979)には362万トンにも達した。

国連のFAO(食糧農業機構)の統計をみると、蜜柑はオレンジとして取り扱われている。
世界のオレンジ生産は4662万トンで、ブラジルが第一位で1076万トン、アメリカが第二位で1015万トン、日本が第三位であった。
1992年、世界におけるオレンジ生産は大幅にふえて、6551万トンになった。
日本の生産は半減して159万トン(全世界の2.4%となり、第10位に下がった。
これはバナナ、グレープフルーツやオレンジの輸入が自由化され、大
規模経営の外国産との競合が厳しくなったからである。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

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