岡本綺堂の「半七捕物帳」のファンで、光文社から発行されている全集を持っている。
ストーリーが面白く、江戸時代の江戸の町の描写が興味深い。
「川越次郎兵衛」では、巻頭で川越までのアクセスを書いている。
江戸時代は人も物資も舟便の利用が多かったが、
小説では陸便が圧倒的に多い。
「川越」は町の名のとおり、湊町として発展・繁栄していた様子を半七老人が語っている。
旅の場所・埼玉県川越市幸町・川越商家”重伝建地区”
旅の日・2022.7.13
書名・「半七捕物帳」川越次郎兵衛
著者・岡本綺堂
発行・光文社 昭和61年発行
「半七捕物帳」川越次郎兵衛
四月の日曜と祭日、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。
それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。
「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。 今はどんなに変りましたかね。
御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でした。
おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、
江戸との交通は頗る頻繁土地で、武州川越といえば女子供でも其の名を知っている位でした。
あなたはどういう道順でお出でになりました......。
ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢入間川を通って......。
成程、陸を行くとそういう事になりましょうね。
江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。
浅草の花川戸から船に乗って、墨田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。
それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遙かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。
そんな関係からでしょうか、
江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。
例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。