しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

頼山陽像

2024年04月04日 | 銅像の人

場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」

 

川中島

鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)
夜河を過わたる
曉に見る千兵の 
大牙を擁するを
遺恨なり十年 
一剣を磨き
流星光底(りゅうせいこうてい)
長蛇を逸す

 

頼山陽の”川中島”は小学生の時に知っていた。
漫画で知った。
「赤胴鈴之助」で知った。
赤胴鈴之助の師匠、お玉が池の「千葉道場」の千葉周作が吟じていた。



べんせい しゅくしゅ

 

 

千光寺公園のポンポン岩の前に銅像と説明看板がある。それを記す。

 

頓山陽


広島県竹原市の人、「日本外史」 「日政記」などを著わし、
明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。
尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、
この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。

磐石坐す可く松拠る可し
松翠缺くる処海光露わる
六年重ねて来たる千光寺
山紫水明指顏に在り
萬瓦半ば暗くして帆影斜なり
相傳う残杯未だ傾け去らず
首を回らして苦に諸少年に嘱す
記取せよ先生嘗て酔いし処と

 

 

竹原市・竹原市観光協会

頼 山陽(らい さんよう)
安永9年12月27日(1781年1月21日)大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人です。
幼名は久太郎(ひさたろう)。
主な作品に『日本外史』があり、幕末の、日本史上のベストセラー作品です。
「頼 惟清」は山陽の祖父で、紺屋を営んでいた家が今も残っています。
父「頼 春水」が幼少期にここ竹原で暮らしており、山陽も何度か訪れ詩を残している。

 

 

撮影日・2024年4月1日

 

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田能村竹田像

2024年04月04日 | 銅像の人

場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」

 

田能村竹田先生は、
滝廉太郎や広瀬中佐で有名な九州竹田の人。
岡藩の藩医で画家。
尾道と、どういう関係があるのかは不明。

 

・・・


(Wikipedia)

田能村竹田
たのむら ちくでん


田能村竹田は、江戸時代後期の南画家。 
幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。
名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。
別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。
生年月日 1777年7月14日
死亡日 1835年10月20日

 ・・・

文化庁「文化遺産オンライン」

田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、
又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。
職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜めてよく一生面を開き高雅な作品を遺した。

・・・・

 

撮影日・2024年4月1日

 

コメント (1)
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妹尾正雄像

2024年04月04日 | 銅像の人

場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」

 

千光寺公園の美術館下、三春滝桜の近くに銅像が建っている。画家のようだ。

 

「妹尾正雄像」であり、像にその人の説明が書かれてあった。

それを転記する。

 

「妹尾正雄像」

美術教育に打ち込むかたわら風景を題材に
する油画を描き続け独自の境地をきりひらいた

1912年12月20日 福山市御幸町に生まれる
1933年 広島県師範学校卒
1934年 独立美術協会展初入選・尾道美術協会創設に関わる
1949年 広島県美術展創設に関わり審査員となる
1953年 広島県高等学校美術研究会を創設し 20年間理事長
1955年 独立美術協会会員
1992年 広島文化賞・独立美術協会功労賞受賞
1994年 紺綬褒章
1996年7月14日西久保町の自宅にて死去

 

 

 

撮影日・2024年4月1日

 

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