しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

青年団・処女会

2020年06月15日 | 昭和16年~19年
「大津野のあゆみ」平成15年 ぎょうせい発行 より転記

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青年団・処女会


「大津野男子青年団」が創立されるのは明治30年4月であり、翌年「大津野女子青年団」が成立している。
軍国主義の台頭で青年団が官・軍との関係が緊密となり、行政の指導が加わり、自律性が失われていった。

大津野女子青年団は「処女会」とも呼ばれ、全国に先駆けて結成された。
小学校校長を会長とし、指導は小学校の女子教員が当たっていた。
活動内容は補習教育、雑誌回覧、見学旅行、展覧会など女子教育を目的としたものが多い。
男子青年団とともに行う活動はなく、時勢順応を目的とした。

第一次世界大戦後、青年団は国の方針や行政と密接な関係を持つようになった。

戦前の大津野青年団
郡下まれにみる勤勉で模範的な青年団といわれた。
女子は一人残らず入団し、毎月一回は「修養の栞(しおり)」をもって小学校に集合し、
心の修養と共に良妻賢母の道を教えられた。
上の坊住職、校長、青年学校教諭などが指導に当たった。
修養会は男子は、役場の二階に集まり、女子は満月の夜小学校へ集まった。
裁縫室で読書会をしたり、校庭ではなぎなたを行った。

戦時大戦中の青年団
昭和16年に文部省は統制に乗り出し、非常時局に際し町村青年団を改組し、国防本意の青年団とすべく訓令を出し、
文部大臣の統制下においた。
大日本青少年団長は文部大臣、
県の青少年団長は知事、
行政単位は首長が担当した。
大津野村では小学校高等科を卒業した者は青年学校の生徒、
すなわち、青年団員として皇国青年の道を歩むのである。
一切の自由や民主主義的傾向が排除されて軍事一色の精神教育、軍事訓練、軍役奉仕が活動の中心になった。
女子青年は、
出征兵士の送迎や慰問、出征家族の農作業奉仕、一週間交替で広島の兵器廠へ動員された。


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婦人会
昭和初期の婦人会は満州事変勃発とともに、
陸海軍省、内務省に文部省も加わって、国家権力をあげて全国的な婦人組織化が進められた。
こうして生まれたのがエプロンにたすき掛けの大日本国防婦人会である。
農繁期託児所の開設、出征軍人の見送り、村社への必勝祈願、国防貯金の奨励などであった。


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警防団
日中事変が本格化し、多くの若者が軍隊に召集されていった。
昭和14年6月、
警防団令が公布され、
市町村を単位として国内の防衛、天災、火災などに対応する警防団が設置された。


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