しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

男女共学③笠岡高校の場合

2023年05月22日 | 学制150年

昭和23年発足した「笠岡第二高等学校」。

第一高校・普通科に男子生徒が55名入学し、、
教室が足りず倉庫のようなところに一クラス27~28名*二クラス=55名が借り住まいしたようだ。

高校3年生の時、55名の男子生徒は初めて千鳥校舎に移転、女子と共学することになった。
その第一回共学「笠岡高校千鳥校舎・普通科」の生徒は、各クラスに均等に数人ずつ分かれたようだ。

 

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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校 昭和47年発行

(終戦後)
昭和23年4月1日 学生改革により、笠岡第二高等学校として発足。
昭和24年3月16日 旧制高等女学校の最後の卒業式を行う。
    9月1日 笠岡第一高等学校と統合、笠岡高校千鳥校舎。組合立笠岡高等学校を併設(←定時制)
昭和28年4月1日 独立校となる、「岡山県立笠岡高等学校」。
昭和35年3月31日 併設の笠岡市立笠岡高等学校廃止。

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当時の吸江校舎から、普通科3年生55名の男子が、千鳥校舎と呼称された現在の笠高に編入されたのが昭和25年の4月であった。
男女共学の第一弾である。
勿論その前年から両校「統合」の名の下に、クラブ活動とか男女学生の交流はあったが、文字通り「女の城」に入り込んでの学生生活が始まったのである。

 

(昭和25年卒業)

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「創立八十周年記念誌」 笠岡商高・吸江舎 昭和56年発行

「教師時代の思い出」
元教諭 加藤六月

弱冠22歳、浅学非才の身で笠商の教壇に立ち、前途有望な笠商生徒に対して、果たして立派な先生であっただろうかと言う反省であります。

当時は旧制商工学校から新制高校に変わったばかりで、3年生の「社会」の教科書はありませんでした。
文部省の指導要綱を読みながら、毎晩、翌日教える内容を一生懸命勉強して整理し、それを教壇で読みながら生徒にノートして貰いましたが、
週5時間分を書き上げる努力は大変なものでした。
途中私自身、勉強の行き詰まりを感じ、翌日3年生の「社会」の教壇に立つのが恐くて眠れない夜もありました。

当時は映画の最盛期で、よく学校全体で観賞会を開きましたが、
全生徒を講堂に集めて、その映画テーマの社会的背景、歴史的問題等につき、説明を行いましたが、よくまあ心臓強く、しゃあしゃあと講演したものだと反省しています。
私の青春時代、故郷笠岡での2年の教師時代は加藤六月にとりましてまさに「青春の宝庫」の時代であります。(現衆議院議員)

 

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「笠岡高校70年史」 笠岡高校  昭和47年発行

昭和22年4月新制中学校が発足したため、第一学年の募集が停止された。
昭和23年4月新制高等学校が発足、笠岡高等女学校は岡山県立第二高等学校となった。
昭和23年9月、笠岡第二高等学校は笠岡第一高等学校と統合し、
岡山県立笠岡高校千鳥校舎と称した。第一高等学校は吸江校舎となった。
千鳥校舎は普通課程600名、家庭課程300名。
これは旧笠岡高等女学校の定員750名をうわまわるものであった。
ことに男女共学によって男子が普通課程に入学するようになったことは、
同課程が上級学校進学の課程として選ばれたことと考えあわせて、
明治以来男子の高等普通教育機関をもたなかったこの地域にとっては大きな意義をもつものであった。

施設設備は旧高等女学校のものを使用する状態であったが、当時最も急を要する問題となっていたのは、県下にその例をみないといわれた狭隘な運動場の拡張であった。

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(昭和27年卒業アルバムより)

共学二年目の卒業アルバム。

一クラス50人、うち男子生徒7~8人。女子の制服はばらばら、男子の頭は長髪だ。※笠岡商・笠岡工は昭和40年代まで坊主頭)

 

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