しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦後の食糧問題

2020年06月14日 | 昭和21年~25年
岡山県中央町誌(民俗編)より転記する。

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戦後の食糧問題

国は、供出だけ強制しても、食糧問題は解決できず、このため開墾と食糧増産を呼びかけた。

もはや開墾できる所はほとんどなく、学校の運動場、公共の広場を見出し、村中総動員で鍬を入れ、サツマイモ、じゃがいもなどを植えた。
それだけにとどまらず、それまで普通の食糧として利用されていなかった、いわゆる未利用食糧である、
わらび、ぜんまい、山ふき、よもぎ、甘藷の蔓、里芋の茎、大根葉、葛根などを採取し、乾燥させた物を供出する運動が始まった。
これらの作業は、農業会、学校、婦人会などに求められ、小学生まで動員された。

昭和18年からスイカ、キュウリ、いちごなどは、贅沢品として作付け禁止になった。
横流しやヤミ売りなどの違反に対しては警察などによる厳しい取り締まりが行われた。
昭和20年の敗戦の年は、労働力、肥料の極端な不足と9月10月の二度の風水害で、米作は大減収になり、
敗戦の人心の荒廃で供出私欲も低下、供出の完納には遠く及ばなかった。
県は、くず米、大豆、雑穀、甘藷などの代替品供出を認めた。
農家でありながら配給を受けなければならない家も続出した。

戦争末期、終戦後は
津山線は買い出し列車と言われるほど、食料を求めて、子どもを背負い、木口の袋を持ち、身体に袋を巻き付けてた女性たちが農村に殺到した。
少しばかりの品物を持ち、各駅から農家の庭先に来ては、持参した品物と米麦やイモ、くず米など食べられるものならなんでもよいから交換してくれといい、一日に何人もきた。
農家にも、交換するものに困ったという。

昭和23年ごろになると農村にも米麦に多少のゆとりができ、都市部に商品が出回るようになった。





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