しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徳川家康 (駿府城)

2021年06月11日 | 銅像の人
場所・静岡県静岡市 駿府城跡


「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
 勝つことばかりを知りて負くることを知らざる害その身に至る。
 おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」


東照宮御遺訓





「近世の日本」 高尾一彦 講談社現代新書 昭和51年発行

徳川家康

関ケ原の戦い

秀吉は朝鮮侵略の最中に死んだ。
誇大な妄想におちいった専制君主が死ねば、
朝鮮侵略が妄想の産物であることはだれの目にもあきらかだったから、
いそぎ撤兵することになった。
日本の政治的課題は、秀吉のなきあとの天下統一を、だれがつぐかであった。

この時点で政局を担当していたのは、秀吉の長老の大名たる五大老である。
つなわち、徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利の5人である。
この中では家康の実力が抜群である。
家康の政敵は他の五大老になるが、前田利家はその年に死んだ。

慶長五年(1600)関ケ原合戦は東軍の勝利に終わった。

家康はもう誰にも遠慮がいらなかった。
彼が秀吉よりさらに強大な集権的政治体制をとりえたのは、関ケ原合戦のおかげである。
西軍についた大名は90家もあった。
没収領地やけずった領地を、徳川一門や譜代の大名へとりたて、東軍へ参加して功労のあった諸大名への加封した。
その際、秀吉いらいの石高制により諸大名の国替えができた。
重要なところへ徳川家一門や譜代大名を配置した。








「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行

秀吉、死す

家康は豊臣政権五大老の筆頭であり、秀吉幕下の大名の中では最高に威勢があった。
慶長3年(1598)、秀吉が63歳で死ぬ。
翌年、前田利家が死ぬ。
家康の一人舞台の観を呈した。
慶長5年(1600)関ケ原の戦い。
慶長8年(1603)従一位、征夷大将軍。
元和2年(1616)太政大臣、75歳の波乱万丈の一生を閉じた。いまなら90歳を越したことになるのであろう。








撮影日・2014年10月8日

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