しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

南京虐殺④  --研秀出版 

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
"南京虐殺"の④は研秀出版 より転記する。
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「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に集中している。いつでも旗行列ができるよう待機。・・・神田や銀座は「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい・・・と伝え、
待ちきれなくなった帝都市民は陥落を決めてしまい、七日夜は銀座も浅草も興奮のるつぼと化し、ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、それから東京では三日三晩、旗行列や提灯行列が宮城前や、大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。
しかし、南京ではその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒へとつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。


南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師たちによって世界中に伝えられていた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみにでるまでその事実を知らなかったのである。
 犠牲者の数は、いまだ明らかでないが東京裁判では
”南京占領後、二三日の間に、少なくとも1万2.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、
一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子2万が集団で殺され、さらに捕虜3万が降伏して72時間以内に殺され、避難民のうち57.000が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり殺されたりした”
とされる。
中国側では30万人とみているようである。
 馬上堂々南京入場式の栄光を背負った中支方面軍司令官松井岩根大将は、東京裁判で、また攻略戦に参加した第6師団長谷川寿夫中将も、南京法廷で、この事件の責任を問われ処刑された。



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