岡山県小田郡城見村の場合は、
城見小学校で村民あげて”ばんざーい”。
小学校から村境(岡山県城見村・広島県大津野村)まで祝出征の行列。
濃い親族のみ、そのまま大門駅まで送っていく。
帰還兵の時は、
出迎えもなく、儀式もなく、静かに自宅へ帰っていた。
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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行
日中戦争における出征歓送には専門集団が出現した。
国防婦人会である。
その組織は、いわゆる“非常時の時代に軍隊支援ボランティアとしてつくられた。
日中戦争を意識したほどではないが、出征、帰還等軍隊移動の歓送迎、奉仕のために駅と港に出動することが多かった。
それは、ことさら意味が深く考えられるわけでもなく、 歓送される軍側からは、その世話を兵士が喜ぶという意味で歓迎された。
逆に主体となった主婦層からは、社会奉仕のために家から出る機会としてスムーズに受け入れられた。
やがて、日中戦争が予期される時期になると、在郷軍人会を通じて精力的に各町村に国防婦人会の結成が促された。
国防婦人会が見せた見送りパフォーマンスの威力は、この時、日本全国をゆるがせたのであった。
こうして出征における見送りの構造が、別れの悲しさと戦争に対する国民の支持を内包しながら定着していく。
出征見送りには戦争に出て行く者と送る者を分けた構造ができあがる。
在郷軍人は出て行く者に区分けされることになった。
たとえある日は送る側にいたとしても、いつかは出て行く戦士の本当の予備兵になったのである。
これが日中戦争における見送りの構図であった。
したがって、在郷軍人の役割も平時とはちがったものになった。
在郷軍人はもはや銃後の構成員とはいえな くなった。
逆に、国防婦人会はここで代表的な銃後構成員になった。
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「福山市引野町誌」 引野町誌編纂委員会 昭和61年発行
招集令状
動員という用語がある。
軍隊の編成や機能を平時態勢から戦時態勢に移すことである。
戦事又は事変に際し、軍要員を充足するために、在郷軍人(補充兵役者を含む)を起用するために用いたのが召集令状である。
我が国の兵役制は、必任義務制度であり、国民皆兵が義務づけられていたので、昭和初期以来の各種事変においてはもちろん、
大東亜戦争における、いわゆる「根こそぎ」動員も円滑整然と実施することができた。
したがって、召集事務に携わる者は、中央部の関係者から、連隊区司令部及び市町村の兵事係に至るまで、
事務処理の完全を期するよう全精魂を傾注したのである。
最後の段階まで召集事務が一糸乱れず厳正かつ整然と、実施できたこことは天晴というほかはない。
陸軍召集規則に定める召集の種類は次のとおりであった。
充員召集とは、動員に当たり、諸部団隊の要員を充足するため在郷軍人を召集すること。
臨時召集とは、定期的な年度の動員によることなく、臨時に編成する諸部隊の要員を充足するため在郷軍人を召集すること。
補充召集とは、充員召集実施後欠員を補充するため、在郷軍人を召集す
国民兵召集とは、国民軍を動員するため、国民兵を召集すること。
演習召集とは、演習のため在郷軍人を召集すること。
補欠召集とは、平時において臨時に兵員の補欠を要するとき、帰休兵を召集すること。
点呼とは、予備後、後備役下士官兵、帰休兵及び第一補充兵を集めて点検査閲すること。
明治23年(1890)10月30日、教育勅語が発布され、日本臣民の道徳観の基礎が確立されてから、
大東亜戦争終結まで、国民はこれを公私にわたる修養研さんの努力目標として、常住座臥忘れることはなかった。
特に「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ・・・」と明確に諭されていたことは、国民ひとしく身にしみて体得し、
兵役に服することは個人の名誉、家の誇りとして祝福し、
応召者に対しては、近隣郷党をあげて、その武運長久を氏神様に祈願し、
「祝○○君出征」の幟を先頭に村境まで見送り、万才をもって壮途を祝福した。
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(父の出征記念写真・昭和12年)
(4人兄弟のうち2名健在・令和6年)
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「広瀬村誌」(福山市加茂町) 広瀬村誌編纂委員会 平成6年発行
昭和12年(1937) 7月盧溝橋事件に端を発した事で、
広瀬村にも49通の召集令状が同年7月27日にきた。
翌28日に応召者の武運長久の祈願祭を龍田神社で挙行した。
その後、戦局の拡大に従って、度々召集令状が送達され、多数の若人が出征し、多くの戦傷者が出ることとなった。
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「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行
地域婦人会の国婦化
1937年(昭和12)7月19日より開始された合同新聞社の「北支皇軍慰問資金」は、
9月7日には4万5.000円の巨額に達した。
このころになると、国婦の出征見送り、愛婦・愛国子女団の千人針の活動に刺激されて、
地域の婦人会も市内に繰り出して、いわば国婦型の活発な活動を始めた。
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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行
盧溝橋事件
兵の見送り
召集令状すなわち赤紙が本人に届けられると、まずその本人と家族に衝動と緊張が生まれる。
また、本人の 近隣の家々にもすぐに伝えられた。
出征の宴が近隣によって行なわれるからである。
以後はその応対や村や分会で準備される祈願行事などでスケジュールが一杯になるのが普通の習わしである。
出征行事というのは実に忙しいのである。
ちょうど、結婚式や葬儀の行事に比肩されるが、時間的にはその慣習より忙しかったかもしれない。
市町村役場は召集業務が終わると
出征する在郷軍人を見送るイベント準備とその業務にとりかからなければならない。
そのためには在郷軍人分会への連絡から新設の国防婦人会にも連絡をとらねばならない。
あるいはこれと肩を並べる愛国婦人会、青年団などもある。
また、学校への連絡も必須事項である。
これらの諸団体が、それぞれの市町村の立地条件に応じて、神社、学校を会場に設定して武運長久祈願祭と町村民集会を兼ねるイベントを開く。
終わると、駅などの見送り地点までの行進を計画する。
在郷軍人は少数でも出征兵と同僚格で、青年学校生徒、青年団がこれを補完する。
小学校児童がつづき、国防婦人会などの婦人団体が彩りをそえるというのが村の基本形なのである。
こうした見送りの計画、実施にあたっては連隊区司令部の指示に従わなければならない。
なぜなら、見送りには軍事動員に関する二律背反的な二つの課題があったからである。
それは秘密動員でなければならないという防諜上の要請、
それに対してできるだけ盛大な国民の支援・熱誠を盛らなければならないという相反する要請である。
結局、1937 (昭和12)年夏の動員は後者の国民の熱誠、村人の盛大な励ましが優先された。
突如始まった全国津々浦々の赤紙の祭りは、出征軍人に捧げる祈りにもなり、
国威宣揚大会になり、軍隊支援になった。
つづいて国防献金も満洲事変にも増して始まった。
銃後後援がシステムとして動きだした。
こうした激動の受益者が軍隊であったことはもちろんである。
国防婦人会の露出度がふえると軍隊支援団体も強化されたかの印象を与えた。
軍隊支援はそのまま軍部のイニシアチブの強化につながった。
後述するように、1941 (昭和16)年には、この日中戦争開始時とほぼ同じ規模で大動員が行なわれた。
この一つの経験は、動員史の中で忘れることのできない、最初で最大の秘密動員になり、
赤紙を受けた応召者はまわりのだれにも言えず、夜になって村を出て行くみじめな出征になった。
その暗い経験はいまもなお涙ながらに語られているのである。
「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行
帰還兵のわびしさ・帰還兵の待遇
祭りのように騒いで送り出した召集兵の帰還に際してやはり祭りを催して歓迎したであろうか。
日露戦争の凱旋は各市町村が飾りで凱旋門や塔を建てて迎えたのであった。
しかし、日中戦争途中の帰還兵を待っていたのはきわめて冷たい出迎えだった。
思い出してみれば、シベリア出兵の時の帰還兵の扱いも同じだった。
軍部と為政者は、戦地で社会主義の影響を受けなかったかに神経をとがらせていた。
ちょうど日本でも労働運動や小作争議が激しくなっていた時と重なっていた。
帰還兵たちには嬉しい帰国のはずが、当局から思想調査をされ、熱狂的な歓迎を受けることはなかった。
日中戦争の帰還兵にも同じような待遇が待っていようとはつゆ思わなかったにちがいない。
彼らも帰国とともに言動調査を受けている。
今回は社会主義ではなく、軍紀を基準にした言動調査で、
盛り上がりつつある銃後の戦意昂揚に水を差すような実戦談をされては困るからである。
大本営が出動部隊の一部交替整理を発表したのが1938 (昭和13)年2月18日。
前線では兵たちがこれで帰還できるやもしれぬと希望をもったという。
だが、まだ新たな出征のつづくさなか、多くの兵たちには夢物語でもあった。
思わぬ反応に、陸軍省兵務局長は内務省警保局長にあてて「帰還兵ノ輸送間ニ於ケル歓送迎ニ関スル件」を通知し、
歓送迎は精神面だけに止め、
「形式的事項ハツトメテ之ヲ抑制」と要望した。
連隊区司令官もまた県市町村に派手な出迎えがないように指示し、
市町村では結局、
出迎えは団体代表者一名のみ、
歓迎会は廃止、
楽隊は絶対禁止
という体制に落ち着いた。
わびしい帰還になったのだ。
ある連隊では、帰還後一般国民との会話問答集を印刷して配布している。
たとえば、「支那軍のデマ宣伝」の質問があれば、
「確乎たる国策を知つている日本軍には心を動かされる様な者は居ない。
・・・・・ いざとなれば吾を忘れて突進出来る大和魂がある」という模範回答。
それでも、微発に関しては「現地で牛や鳥を取って食ひ、野菜物なんかも探して食ひます」。
物資は豊富なのですか、の問いには「広いですからね」というような回答が用意され、
現在の歴史評価には耐え得ないような模範会話もある。
軍指導者がもっとも気にかけたのは、戦場における兵たちの軍紀の乱れであった。
帰還兵だけが知っていて、国民が知らないことである。
これについては、戦後初めて見ることのできた軍の機密文書で、戦地での軍紀違反が少なくなかったことが知られる。
これらの事態に対処するために1941 (昭和16)年初め、
陸軍大臣は「戦陣訓」を布告した。
その真の狙いは、戦陣にあってしてはならないことを短く、箇条書きにして兵たちに配布することであったという。
ところが、その作成過程で、軍人勅諭に代わるような箇条が加わってしまったらしい。
有名な「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の文言も入れられた。
当初の目的からそれて、格調の高い文章に変身した。
この戦陣訓が戦争末期の玉砕をもたらし、あまりにも多くの兵たちを報われない死に追いやったのだった。
みなさん「それは気付かなかった」と言われました。忘れたほうがいいのか、平和教育の隙間なのか。