しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ライオン宰相浜口雄幸

2021年06月04日 | 銅像の人
場所・高知県高知市五台山  「五台山公園」

浜口首相は歴代総理でも指折りの高貴な人と思えるが、不運な首相でもある。
首相在任時期が世界不況と重なったこと。
岡山へ発つとき、東京駅で銃撃され退陣(その後死亡)したこと。






「首相列伝」  学習研究社  2003年発行

浜口雄幸

官僚出身ながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、
謹厳実直さもあいまって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が、浜口雄幸である。

浜口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、激動の時代だった。
この激動を乗り切って首相の座に登りつめたのは、浜口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して
彼を押し上げたいった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。
浜口は大蔵省入省、
その後有能さを後藤新平が財界入を口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。
やがて蔵相を歴任した。
憲政会の幹部として影響力を増していった。


国際協調といわれる軍縮に賛同するする姿勢が終始一貫していたのは注目される。
海軍は88艦隊確立のため、国防費増額を主張していた。
特にアメリカが国際社会の中で早晩一番の大国となるのは明らかであり、
「我が国の貧しさを以って米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、
「我が国は英米二国の海軍力に追従することを能わず」とまで述べている。


日本の国力を知る浜口は、米英との対決は不可能であることを理解していた。
大戦後、
戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から軍縮財政へ取り組んだ。
幣原喜重郎外相を重用して国際協調路線を貫いた。










「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行


ロンドン会議


加藤寛治軍令部長と水次信正次長の反対意見は、必死の努力によって東郷元帥や伏見宮ならびに軍事参議官たちを動かした。
しかし浜口首相は会議決裂の危険をおかすことはできないと言明した。
「これは自分が政権を失うとも、民政党を失うとも、また自分の身命を失うとも奪うべからざる堅き決意なり」
という浜口の言葉には、悲壮な覚悟が示されている。

この浜口の決断を、
元老西園寺公望、内相牧野伸顕、宮内大臣一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎ら昭和天皇のまわりの人々はこぞって支持した。
海軍の長老山本権兵衛と斎藤実(朝鮮総督)の両大将も浜口首相に賛意を表している。

しかし、後に艦隊派とよばれることになる反対派は
いったんは同意しながら、帷幄上奏を決意した。

浜口内閣の軍縮政策に対しては、世論は一般に好意的であった。
しかし右翼団体と政友会は猛然と反対した。


統帥権問題

昭和5年4月21日、第5回特別議会が召集されると、いわゆる統帥権問題がにわかに重大化した。

統帥権とは、
大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とあるのをいう。
加藤軍令部長が不満を持っていることに乗じて、右翼ばかりでなく、
野党の政友会までが、浜口内閣の統帥権干犯を弾劾しはじめた。

「用兵の責任にあたっておる軍令部長は、この兵力量では国防はできないと断言している」と、
犬養政友会総裁は声を励まして質問した。
政友会の大幹部鳩山一郎は、
「国防問題は統帥府の責任であり、政府が変更するのは、一大政治的冒険だ」と迫った。
もともと日和見主義的な鳩山一郎は論外として、

日本の立憲政治を確立するため生涯を捧げてきた犬養毅が、
常備兵器の決定まで国務大臣の輔弼事項から閉め出そうとしたことは、
惜しんでも余りある。



張作霖の爆殺事件に露呈された陸軍の軍国主義化は、海軍軍令部の不満と連動して。不穏な空気を醸成した。







なお、浜口首相銃撃犯人・佐郷屋留雄は、「陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述した。
判決は死刑→(恩赦)無期→出所→戦後右翼団体で活動。天寿を全うした💢


撮影日・2018年3月24日

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