しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

75年前の学校の臨時休校

2020年06月02日 | 昭和20年(終戦まで)
2020年(令和2年)、新型コロナウイルスのため、小・中・高校が3月~5月の、およそ3ヶ月間臨時休校になった。
75年前にも学校の臨時休校があった。

戦争の非常事体制下、
政府は、昭和20年4月1日から1年間、国民学校初等科を除き休校するすことを決めた。
その時の様子を義母に聞いてみた。当時義母は、芳井町の実業学校の3年生(15才)。

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(談・2020.5.31 義母)

実業に行っとるときは2年間戦争中じゃった。

食糧増産ゆうことで開墾、開墾じゃった。
芋を植えたり、トマトを作ったり、キュウリを作ったり、なすびを作ったり。

田んぼを借りて、そこで
実習ゆうことで、毎日作業服がいりょうた。

町の子は唐鍬をもってけい言われてもなかったろうに、どうやって工面しとったんじゃろうか?

山で芝をなぜて籠にいれて
今日も芝なぜ、明日も芝なぜ
土を掘った芋の苗床に、藁をいれて、芝をいれて、そのうえに学校の屎尿をふりかけて、土をいれて 長靴を履いて踏みゅうた。

勉強はあって昼まで、ほとんど山や畑で、
西吉井(芳井?)の高屋に越す上の畑へいきょうた。

みんな並んで耕して
薩摩芋やこ植ようた。
出来たら負うて戻って、そうゆうことを2年間しょうた。
しんどかった。
もうイヤゆうよんあった。
作った作物は学校からどうゆう販路で、どこにいっとんたんかわからん。

ひとつだけ楽しみがあった。
弁当を野原で食べるんで、弁当の中に「おやつ」をもってくる人や、もっていきょうた。
おやきをしたりしょうた。料理の好きな人は美味しいお菓子系統のもを持ってきてよんでくれる。それが楽しみじゃった。

毎日毎日、目籠(竹の籠)を負うて、唐鍬をかたいで山の畑にかよっていたが・・・(終戦で)・・・、突然に、そうゆうことが無くなった。

(終戦後)
食糧つくるのはいっぺんに止めて、簿記や英語の勉強しだした。
英語が増えた。

百姓せんでようなって、勉強の時間が多くなった。
百姓止めて勉強いっぽんになった。

小山(こやま)の麓に学校にあった。
物理の先生が、その小山に登って授業したり、歌をうたって戻りょうた。
歌のうまい先生で、青空学級じゃった。


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