国営の売春は道徳を重んじるマッカサーの意思で廃止された。
米兵たちが持つ生活物資を、性の提供で貰おうと、パンパンがあらわれた。
同居する女性はオンリーと呼ばれた。
日本史上初めての、多くの混血児が誕生していった。
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「昭和二万日の全記録 第七巻」 講談社 平成元年発行 5575~5609
国営の売春施設RAA
8月18日、内務省警保局長から全国警察に通達が出された。
占領受け入れの具体策として打ち出された「性の防波 堤」としての施設づくりである。
警視総監坂信弥が中心となって、関係者を集め協力が要請された。
貸座敷組合、待合組合、料理飲食業組合、芸妓置屋同盟、接待業組合、慰安所連合会、練技場組合の七つの団体によって、
「特殊 慰安施設協会」(RAA)が設立された。
活動資金3000万円の銀行融資を認めたのは大蔵省主税局長池田勇人である。
8月27日、東京大森の小町園に最初 のRAAが開場した。
8月31日の『朝日新聞』を皮切りに、慰安婦の募集広告が続々と登場した。
応募した人のなかには、食糧の支給という条件に誘われた人も多く、最初に1.360人が選ばれた。
だが、占領軍兵士の性病罹患率の急激な上昇と、米国本土の世論に押されて、
21年3月27日、すべてのRAAは閉鎖された。
慰安所をオフ・リミットにした性病
RAA施設第一号は、終戦直後の8月27日に東京大森の料亭「小町園」で開業し、以後数は増えて都内だけでも20ヵ所以上、
最盛期には全国で7万人にのぼる女性が従事した。
GIたちがここへ殺到し、一時は非常な繁盛ぶりを見せたが、次第に性病が蔓延するところとなりGHQの頭痛の種にまでなった。
そして21年1月21日、「公娼廃止に関する覚書」がGHQから発せられ、
3月27日にはRAAの占領軍用慰安所の21ヵ所が閉鎖された。
しかし日本政府は赤線区域を指定し、事実上の骨抜きで売春は存続させた。
兵士に対しても自粛の命令がくだされていたが効力はなく、
結局「オフ・リミッツVD」 (venereal disease = 性病)の黄色い標識が立てられるところとなったのである。
公的売春施設RAA慰安所は閉鎖された。
だが、閉鎖時でも全国で55.000人を数えた女性たちのある者は、そのまま赤線に流れたり街の私娼となって、
その日の糧を得ていくことになる。
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らく町お時の涙
藤倉一
戦後の混乱と貧困の悲しい日本の姿をよく語るものに、闇市場とパンパンの存在があった。
こんな女にだれがした・・・・・・の歌が巷に流れる昭和22年、
六大都市の夜の女は推定40.000人はいたという。
そして生活のため夜の町角に立って、男の袖をひかざるをえない女た ちの叫びが、NHKラジオから流されたとき、 人びとは粛然たる想いを胸にいだいた。
その頃、ボクは「街頭録音」を担当していたが、
そして放送始まって以来の旋風的反響をまき起したのが、 この第一部の「ガード下の娘たち」
ヤミの女の夜の生態であり、この放送で「らく町のお時」が一躍、全国的に名を売ってしまったのである。
もともと、こういた占領下の暗黒面を放送に取り上げることは、当時としては関係方面に対する遠慮もあり、ま従来、醜悪な世相の実態にはいっさい触れることを避けて来たNHKの編成方針にも反逆する不逞の企てであった。
何しろ、対象は大衆の好奇心をそそるヤミの女である。
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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
多くの米兵は、用意された娼婦と寝るのではなく、「チャーミングな日本女性」 とマトモなデートをしたかった。
しかし、〝聖人"マッカーサーの取締りはかなりきびしく、 占領初期は、米兵が夜11時以降に日本人の家にいることは許されなかった。
そこで占領の最初の時期、米兵たちのかわきをいやす方策といえば結局、「ジョロウヤ」か強姦しかなかった。
「ジョロウヤへ行くこと自体に、何か屈辱感があった。
行列して、便所のニオイのする部屋にはいる順番を待つことに、とてもイライラしたことを覚えている。
せっかく戦争が終ったのだから、もっと天下晴れて、人生を楽しむ権利があると、私は不満だった」
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下宿屋やキャバレーに看板を替え、代ってパンパンと呼ばれる私娼が巷にあふれていた。
当時、売春婦には三つの型があった。
1は身売りでそうなったもの、
2は引揚者などで食うに困って
3は混乱期の生き方としてむしろそのほうを選んだもの。
この3のタイプがふえる傾向にあった。
つまり必ずしも食えないからだけではなく、
ある程度"好き"でそうしている者がふえて行った・・・・・・」 と、教授は回想する。
調べているうちに、ある「民主的女郎屋」から招待があった。
行くと、「うちの女たちは 身柄を拘束する契約書も交わしておらず、休みたいときにはいつも休める。
男友達と外でデートすることもできるんです」と、そこの主人はうれしそうに自慢した。
検診は週一回、料金は女と客が部屋で直取引をする。
大きな浴場に案内してくれた。その壁に、見事にズラリと女性の避妊器具がぶら下げてあった。
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"オンリー"と"ヤミ"の実像
「日本国民が連合軍将兵からタバコやその他の物資を、街頭や駅で買い受けたり交換したりする事件が最近増加している。
ある者はそれらの物資を高価に転売しているとも伝えられる。
連合軍将兵は、連合軍当局からこれらの物資を販売したり、物々交換したりすることを禁ぜられており...」 (昭和20年11月1日「日本国民に対する発表』)
「”オンリー”とは何か?
特定のGIと住み、料理し、共に寝る日本女性のことである.........」
終戦まもなくのころの話。日本へ向う一隻の輸送船の中で、GIたちがこれから上陸する日本についての情報を交換し合っていた。
「ジャップは信用できない」と拳銃の手入れを怠らない者もいたが、
早耳の連中は、タバコ、石ケン、チューインガムなどが「日本のトビラをあけるカギ」であることを知っている。
中には、船内で使う石ケンは仲間のを拝借して、 自分の分はせっせと貯め込んでいるチャッカリ屋もいた。
それらの話を聞きながら、期待に胸をふくらませていたのが、24歳の軍曹、ハンク・ミューラーである。
場面は変って数日後の東京・新宿の裏長屋。
ハンク軍曹はジープで東京探検に出かけた際、 道に迷ってある日本人娘と顔見知りになった。
きょうはその「お礼」訪問の日である。
サンタクロースのような大荷物をかついで、「コンバンハ」。
いきなり「ヘイ、ユー!」と大声で迎え入れてくれたのが、アキコさんである。
アキコは、実は、新しく進駐して来るアメリカ人が、「相当金になる」とひそかに期待している現実派の日本娘であった。
ハンクはタタミに上り、「アイ・ネーム・アキコ」と彼女が名乗る。
GIが袋から、チョコレートなどの品物を次々と取り出すと、それは魔法のように彼女の心を捕えた。
接吻、フトンを敷いて、電燈を消し・・・・・・、という順序は、むしろアキコのほうがリードして行われた。
一週間後、二人は同じ家で、すでに「いつものように」抱き合っている。
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ダンカン・ソープ氏(54) 昭和43年12月取材当時が、海軍大尉として日本占領軍に参加したのは昭和25年9月。
戦後5年目で、日米はお互いにすっかり”占領"という事態に慣れっこになっていた、ともいえよう。
ソープ氏によると、占領軍人の上から下までがせっせとヤミをやり、"オンリー"を囲っていた。
東京でソープは暇だった。
ほとんどの軍人がオン リーを持っている。
将校たちの集まるクラブにも、大っぴらでオンリーさんを腕にブラさげて来るのがならわしとなっていた。
その女たちが欲しがるものは”物資"タバコ、ウイスキー、軍服の生地、クツ下などの代償として、彼女らはいとも簡単にオンリーになった。
GIたちの求めるものは、むろんセックスだ。
彼らとしては暴力をふるうことなく、彼女らとしては街角に立つことなく、そのお互いの欲求を満たすことができるすばらしい方法が”オンリー"という形なのであった。
「人形のように、ちょっとさわればこわれそうな」 日本女性の魅力に抵抗できるアメリカ男は少なかった。
本国の細君に、「ハニー」とかなんとか手紙を書いている、謹厳な顔の少佐殿なども、けっこうよろしくやっていた。
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パッシン先生らが指導して、当時の国立世論研究所がおこなった調査によると、
全回答者の70パーセントが公娼制度(遊郭)の廃止に反対し、
77パーセントが”街の女"の存在をきらっていた。
つまり、売春は必要悪であり、それは一定の場所で秩序正しく行われるべきであるという意向だった。
労働者もサラリーマンも、8割以上が売春の必要を認め、主婦ですら「まあ、仕方がないでしょう」と返事した。
結論として、CIE世論調査班は、
「売春はより合理的な統制のもとで存続させ、転業したい売春婦のためには、よりよい更生施設が必要である」との勧告を総司令官に提出した。
しかし、公娼制度は復活せず、占領終了後の昭和31年に売春防止法が成立して、日本では形式上、すべての売春行為が禁止された。
パッシン先生は、これを「占領政策の失敗の一つ」と考えている。
「日本の社会に対するひどい無理解から来ている。
占領軍の中でこの案を出したのは、最初はGIで、彼らは要するに米軍の道徳だけを考えていた。
自分たちの米兵が交わる相手が、人身売買やドレイ労働をしいられている女性であっては困るということなんだ。
しかし、日本では結婚に際して妻が処女であることが通念であり、
独身の男が女友達と性関係を結ぶことは少ない。
一方、 未亡人や、なんらかの理由で結婚の機会に恵まれない女性にとっては、働く場所としては水商売しかないのだ。
GHQというのは、当時ひどく道徳的な団体だったからねえ・・・・・・」
マッカーサー自身も、占領を「神学の問題である」と考えている道徳家で、早く売春防止法を成立させたいと思っていた。
しかし、それを延び延びにして、結局、占領期間中に法制化しなかったのは、この世論調査班の勧告があったからだ。
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