場所・福井県福井市中央 北ノ庄城跡
製造・2010年(平成22年)
浅尾三姉妹は、織田・豊臣・徳川すべてに婚姻関係があり、
格好の時代小説素材で、主人公でも脇役でも、小説やドラマや大河ドラマに何度も登場している。
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「日本史探訪10」 角川文庫 昭和58年発行
お市の方と淀殿 戦国の世に散った美貌の母娘
永井路子 杉本苑子
お市と長政の間に生まれた娘お茶茶が、のちの関白秀吉の妻淀殿となる。
戦国の男たちの政争にまきこまれ、波瀾に満ちたこの母と子、お市と淀殿の生涯。
永井
政略結婚は、ある意味では自分の家、または国を背負って外国へ行くということです。
要するに外交官です。
女性大使として、相手の機嫌を損じないように、実家の不利にならないように、そして両家の間に戦争が起こらないように。
それに妻としての勤めが加わる。それが大名社会の結婚だった。
ばかではとても勤まりません。
できの悪い娘は身内や家来にやってしまうんです。
杉本
小谷城が落城したとき三人の娘と二人の息子がいました。
お市の再婚
天正11年、勝家62才、お市36才で猛火に包まれて消えた。
淀殿
23歳になった茶茶は、秀吉の最初の男の子を生み、山城の国淀城を与えられて、淀殿と称せられた。
この長男は死ぬが、すぐ次の男子を生んだ、のちの秀頼である。
跡継ぎのなかった秀吉は、これを熱愛した。
その愛を背景に淀殿は第一の権力を誇り、その勢いは正妻北政所をしのぐばかりであった。
秀吉が慶長3年(1598)、62歳で死んだとき残された淀殿は32歳、一人っ子秀頼は6歳になっていた。
遺言に従い、淀殿と秀頼は大坂城にはいり、正妻北政所は出て尼となった。
関ケ原の合戦後、家康は征夷大将軍になり、次々に淀殿に対する懐柔策を打ってゆく。
11歳の秀頼を内大臣に任じ、
みずからの孫娘で、淀殿の姪でもある千姫を秀頼に嫁がせ、
その翌年には太閤秀吉を弔う豊国祭りを大々的に行った。
元和元年(1615)大坂夏の陣
天下の名城はついに落ちた。
秀頼23歳、淀殿49歳。
淀殿は、わが子に命をかけ、わが子の運命とともに破滅した。
(Wikipedia)
初(常高院)
京極高次の正室として京極家に入った。
京極家は、室町幕府の侍所の長官を世襲した四職の家門であり、出雲国・隠岐国・飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家であった。
京極家はまた北近江の元の領主であり、浅井家の主筋でもあった。
初は三姉妹の中で最も格上の武家に嫁いだとも言えるが、当時の京極家は下克上により衰退し、浅井家や、後には羽柴家の庇護を受けていた。
また、高次の母(京極マリア)は浅井長政の姉であり、高次と初は従兄妹の間柄であった。
夫・高次は関ヶ原の戦いに先立って近江大津城で西軍の軍勢を足止め(大津城の戦い)した功により、若狭一国を与えられて小浜藩主となった。
高次に先立たれた後、初は出家して常高院と名乗る。
大坂の陣の際には、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介に奔走した。
夫を支え、衰退した京極家を大名家として再興させ、三姉妹の中では一番多く落城(小谷城、北ノ庄城、大津城、大坂城)を経験している。
江(崇源院)
織田政権下における尾張知多郡の国衆佐治一成(母は市の姉・お犬の方)、豊臣政権下における秀吉の養子(甥)豊臣秀勝との婚姻の後、
家康の嫡男で後に徳川2代将軍となる徳川秀忠の妻(御台所)となり、徳川将軍家に正室として嫁ぐこととなった。
3代将軍徳川家光や中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)となり、明正天皇の生母)たちを産む。
自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の明仁上皇・今上天皇・悠仁親王にまで続いている。。
撮影日・2015年8月3日
製造・2010年(平成22年)
浅尾三姉妹は、織田・豊臣・徳川すべてに婚姻関係があり、
格好の時代小説素材で、主人公でも脇役でも、小説やドラマや大河ドラマに何度も登場している。
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「日本史探訪10」 角川文庫 昭和58年発行
お市の方と淀殿 戦国の世に散った美貌の母娘
永井路子 杉本苑子
お市と長政の間に生まれた娘お茶茶が、のちの関白秀吉の妻淀殿となる。
戦国の男たちの政争にまきこまれ、波瀾に満ちたこの母と子、お市と淀殿の生涯。
永井
政略結婚は、ある意味では自分の家、または国を背負って外国へ行くということです。
要するに外交官です。
女性大使として、相手の機嫌を損じないように、実家の不利にならないように、そして両家の間に戦争が起こらないように。
それに妻としての勤めが加わる。それが大名社会の結婚だった。
ばかではとても勤まりません。
できの悪い娘は身内や家来にやってしまうんです。
杉本
小谷城が落城したとき三人の娘と二人の息子がいました。
お市の再婚
天正11年、勝家62才、お市36才で猛火に包まれて消えた。
淀殿
23歳になった茶茶は、秀吉の最初の男の子を生み、山城の国淀城を与えられて、淀殿と称せられた。
この長男は死ぬが、すぐ次の男子を生んだ、のちの秀頼である。
跡継ぎのなかった秀吉は、これを熱愛した。
その愛を背景に淀殿は第一の権力を誇り、その勢いは正妻北政所をしのぐばかりであった。
秀吉が慶長3年(1598)、62歳で死んだとき残された淀殿は32歳、一人っ子秀頼は6歳になっていた。
遺言に従い、淀殿と秀頼は大坂城にはいり、正妻北政所は出て尼となった。
関ケ原の合戦後、家康は征夷大将軍になり、次々に淀殿に対する懐柔策を打ってゆく。
11歳の秀頼を内大臣に任じ、
みずからの孫娘で、淀殿の姪でもある千姫を秀頼に嫁がせ、
その翌年には太閤秀吉を弔う豊国祭りを大々的に行った。
元和元年(1615)大坂夏の陣
天下の名城はついに落ちた。
秀頼23歳、淀殿49歳。
淀殿は、わが子に命をかけ、わが子の運命とともに破滅した。
(Wikipedia)
初(常高院)
京極高次の正室として京極家に入った。
京極家は、室町幕府の侍所の長官を世襲した四職の家門であり、出雲国・隠岐国・飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家であった。
京極家はまた北近江の元の領主であり、浅井家の主筋でもあった。
初は三姉妹の中で最も格上の武家に嫁いだとも言えるが、当時の京極家は下克上により衰退し、浅井家や、後には羽柴家の庇護を受けていた。
また、高次の母(京極マリア)は浅井長政の姉であり、高次と初は従兄妹の間柄であった。
夫・高次は関ヶ原の戦いに先立って近江大津城で西軍の軍勢を足止め(大津城の戦い)した功により、若狭一国を与えられて小浜藩主となった。
高次に先立たれた後、初は出家して常高院と名乗る。
大坂の陣の際には、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介に奔走した。
夫を支え、衰退した京極家を大名家として再興させ、三姉妹の中では一番多く落城(小谷城、北ノ庄城、大津城、大坂城)を経験している。
江(崇源院)
織田政権下における尾張知多郡の国衆佐治一成(母は市の姉・お犬の方)、豊臣政権下における秀吉の養子(甥)豊臣秀勝との婚姻の後、
家康の嫡男で後に徳川2代将軍となる徳川秀忠の妻(御台所)となり、徳川将軍家に正室として嫁ぐこととなった。
3代将軍徳川家光や中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)となり、明正天皇の生母)たちを産む。
自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の明仁上皇・今上天皇・悠仁親王にまで続いている。。
撮影日・2015年8月3日
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