しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

記事のDDTは頭から

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
頭の髪にはシラミがいて、着物にはノミが何匹もいた時代。
小学生女子にはシラミ退治のため、まっ白い粉を頭からふりかけられていた。

男子は坊主頭で対象外、女子がやられる(?)のを見ていた。


(姉の話)

イヤダネェ!!!
運動場で。
一列に並んでね。
掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。
くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。
粉をかけまくるんよ。
おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。
きゃーきゃー言いながら。
パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)
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茂平の堤防をトロッコが走る

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
昭和20年代の末頃、茂平の堤防(内海側)には
高丸から水門付近まで一直線のトロッコが走った。


(父の話)


苫無から茂平の水門までの堤防工事は八百万円で行った。
工事作業者は主に茂平・用之江などからであった。

高丸からトロッコを使用して、堤防の内側を補強する工事であった。
目的は台風・高潮などで茂平の堤防が決壊の心配が常にあったから。
ポンプ場も併せて新しくした。

(民間建設会社ではなく)村の直営工事でした。

高丸の上からトロッコで(土を積んで)降ろしょうた。
上からと~~んと降ろしょうた。若い人は平気で。
大怪我をしゃあせんか、言うくらい。危ない事をすんじゃ。
ほとんど助成でやっとった。国の助成金で。
それだけ運動して国から取りょうた。港湾関係はほとんど国の助成じゃった。
村であわんな大きな仕事は出来ん。
内海側を補強して(堤防自体を)強うした。
幅もちいと広げての。
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城見村は笠岡市になった。

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
昭和28年10月城見村は笠岡市と合併した。

(父の話)

名義を変更するのが主であった。
城見小学校・村道そして茂平で言えば山があった。
城見村の場合大宣は、大宣の更に小単位での協同所有地が多く市への名義移管は少なく、茂平にあった村有地の笠岡市への移管が一番多かった。
茂平から多かった見返りとして茂平に道路工事をしてもらった。

合併はまず住民に説明会を開いた。
茂平はばんやのとなりの公民館で、用之江と大宣もそれぞれ公民館で住民に説明会をした。
説明は村長が主にした。
合併に対する意見(質問)や、反対意見もなく、ただの説明会であった。
反対意見はなんもありゃぁせん。
城見村議会での合併決議は全員賛成で可決された。
(合併に対して祝いの行事は、城見村は何かしたか ?の問いに)
なんもしとらん。なんも、ありゃへん。

市会議員の改選までは「協議会委員」という名目じゃった。
村会議員の時と同じように、城見地区で問題があれば(旧)村会議員で相談して。ということで、だいしょう(お金・手当てを)くりょうた。
最初の市会議員のときまで。それは陶山も城見も同じ。


のぼるさんは村長辞めて引退した。
村長は終戦後選挙で選ばれた。
選挙で選ばれたのはのぼるさんだけじゃ。
後は(戦前は)村会議員が談合して、決めっしまようた。


施設状況(昭和28年9月30日現在)
役場 延200平方米
小学校 1
保育所 1
伝染病隔離病舎 1
漁港 1

歴代村長
初代 大本苦楽一 M22・7・24~M25・4・10
二代 藤井偵太 M25・4・28~M29・4・27
三・四代 藤井偵太 M29・5・9~M37・5・8
五~八代 松浦亀寿 M37・5・17~T9・5・16
九・十代 松浦亀寿 T9・5・21~S3・5・16
十一~十三代 藤井益一 S3・5・21~S15・3・27
十四代 藤井久我太 S15・10・01~S19・9・30
十五代 加藤円ニ S19・10・01~S21・7・18
十六代 松浦昇 S22・4・5~S26・4・4
十七代 松浦昇 S26・4・23~S28・9・30

歴代村議会議長 初代 鳥越義夫 昭和22年5月10日~昭和24年4月25日
二代 山本武男 昭和24年4月26日~昭和26年4月29日
三代 山本武男 昭和26年5月8日~昭和28年9月30日



なお、「岡山県合併史」には下記の記述がある。
第三次合併 昭和28年10月1日 近接6村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・吉田村・新山村と合併
近接2町7村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・神島外町・吉田村・新山村、浅口郡大島村・里庄町)と昭和28年10月1日を目標の基本計画であった。
大島村・里庄町は郡を異としていて時期尚早で、神島外町は赤痢発生の対に追われ参加体制とれず見送った。
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城見村議会議員

2014年12月17日 | 昭和26年~30年

シャウプ改革以降市長村民税は「市長村民税」と「固定資産税」を中心の税体系となった。1950年度で両者の合計は80%を占めていた。
歳出の高いものでは、約20%を占める教育費とこれにつづく役場費があり、続いて土木費、産業経済費、社会および労働費などの順になっている。人件費をふくむ役場費が1955年度18.5%と高水準を維持している。

(父の話)

議会の報酬は年間100円ほどもらっていただけ。
いまでいうボランティアみたいなもんだった。
それと名誉職のようなもの。金もつこうとらん。
今は手当ても多いが、出る(出馬する時)時に金がいる。金持ちしかでれん。

予算は教育費。(突出して大)
次が産業経済費。
村役場費と続く。
何処の村の予算の構成も同じ。
城見村の議会の日数は?

飛び飛びで(年間累計)一ヶ月くれぃ。月に2~3日役場に行って(助役などから)相談受きょうた。
(その頃の城見村議はみんな百性だったのだろうか?)
みんな農業じゃった。おりゃあせん。
(百性仕事をしながら、行政・議案の勉強は出来ていたのだろうか?)
分からんのじゃ。年寄りはわからんのじゃ。
提案するんでもコッチが(自分が)若かったので作って(役場の人と打合わせ)議案を出していた。
ほれで、こうこうこうじゃ言うと(議員も)、ああそうか、それでええ言うてようた。分かるもんか爺さん議員ばっかりで。

ワシは役場に勤めとったし、数字もわかるし。そういうことで、なんやかんや皆こっちが(年寄り議員に説明を)しちゃりょうた。

(村の権限は限られていたのではないか?)
村の役人の給料、学校の先生の給料。
県が助成してくれても村が決定せんと、なんもきめられん。
じゃけい議員は強かった。
ワシは教育委員と土木委員と両方もっとった

(当時、城見村の上部は県になるが陳情等はどのようにしていたのか?)

岡山県小田郡城見村ようた。
西の浜の土木事務所、やこに行きょうた。
港湾やこ(県の出先では)むずかしい時にゃあ、県庁まで行きょうた。
県庁へ行く時にゃぁ、「何を持っていくか?」いうて。
(茂平の漁師が捕り立ての)いちばんエエ魚をくくんで持って行きょうた。
それをもって係長の机のほとりに置きょうた。「おお、すまん。すまんのう。」ようた。
そうやってしちゃらにゃあ、してくりょうらなんだ。
持って行ってやりゃあ、ようしてくりょうた。持っていかにゃあしてくれん。

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祝・日本の独立

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
昭和26年9月サンフランシスコで講和条約が結ばれ、翌
昭和27年4月28日
日本は被占領国家から独立国家に復帰した。


小田郡城見村の祝いの行事について。


(父の話)


(城見村ではどのような祝賀行事をしたのか)

これいうのは無い。

村としては別にしてない。





という事で、まだ生活することに精一杯の状態の城見村。それと、国民にとってマッカーサーの日本支配は関節統治であったために実際には国民生活になんの変化もなかった。
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城見の医者

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
(父の話)


城見には医者は桑田がいた。大宣の為乗のとなりにいた。
それから桑田は湾頭に移った。その頃に鳥越先生が大宣に開院した。
鳥越先生は婿さんをもらい、病院の名前は婿さんの稲垣とした。
稲垣先生は他の病院にも(回生病院)にも勤務していた。

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戦争未亡人

2014年12月17日 | 昭和21年~25年
(母の話)

同級生は、半分くらいが戦争で未亡人になった。一番真ん中じゃた。(母は大正10年3月生まれ、世代的にはそうであろう)


そのまま(結婚しないで)子供を育てたひと、再婚したひと、それも半々くらい。


(戦死時に)子供がいなかったひとは実家に帰っている。(が、年齢的にも同級生は子供がいた)


戦死の時、下に弟がいればそれといっしょになる、(家を守るとかで)ことがよくあった。


(再婚しないで)子供を育てるのは、「相手の家でそのまま」、「自分の実家に帰り」、のケースが半々くらい。
(実家に帰れる状況、帰れない状況、家族、資産、折り合い、いろいろなものが混ざり。)


(女学校の同級生の)矢掛の○○さんは「今では笑おて話せるが、ホントに、言うにいえん苦労をしてきた。」とゆうとった。



姉の話・遺族の子


父親が戦死していない人が多かった。
どうしてわかるかと言うと、「東京へ行く。靖国神社へ選ばれていける。」ゆうてようたんで。うらやましかった。
母親がいないのはわからんかった。そういうことも話さんし。
小学校の時は学校で貯金を現金で持っていっていたので、もってこない子がおって、あそこは貧乏しょうるとか。
お金をいっぱいもってくる子は金持ちの子じゃとか。いうのはそういうことでわかりょうた。



旧知のDさんの話・遺族の人


親父は昭和20年六月にフィリピンで死んだ。

遺族年金は子供に対し20の時まで支給されていた。働いていても学生をしていても同じ。二十歳がキリだった。
僕は昭和40年頃まで貰っていたが・・・支給方法が年四回くらいだったのではっきりとは分からないが・・・給料の額とそんなに変わらなかった。

母親は昭和25年に亡くなった。母への手当てはなかったと思う。(当時は日本政府に遺族に対する意思も金もなかった)

叔父、叔母が何かと助けてはくれたが(祖父は既になく)おばあちゃん子として育った。

二十歳を過ぎてからは、(次男だったので)いっさい遺族会との関りはないが、あるとき兄貴から「国のフィリピン墓参へいかれないので、変わりに行ってくれ」と言われ行った。
費用は国が半分ほど出してくれていた。
フィリピンに行くと戦後そのまま現地に住み着いた旧・軍人の日本人が説明してくれた。日本語を話して。

(戦死した父の墓を守る)兄貴には墓のモリ料として今でも四万円/年くらい出ているようだ。自分の場合は靖国神社、護国神社などへの参拝などの呼びかけもないし、二十歳後はなにも無い。」
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「産めよ殖やせよ」の赤ちゃん

2014年12月17日 | 昭和16年~19年
「産めよ殖やせよ」は「生めよ増やせよ」と同じ意味だが、その主たる目的は“未来の兵士”の増強を目指していた。

昭和16年、
小学生は小国民と名を変え銃後に位置し、
さらにその後に予備・小国民として多産の人口政策が政府閣議で決定された。
10人以上産めば表彰された。


生れた赤ちゃんは食糧難と重なり、病気で死んでいった。
赤ちゃんが育つと、その時には日本に兵士は必要なかった。



(母の話)

裏のiさんの妹は半年もせんうちに死んだ。
それですぐ妹のmちゃんを産んだ。

sくんの妹は乳を貰いに来ていた。sくんがいつも連れて。
sくんの妹は一歳になるか、ならんかで死んだ。
おばさんは(長女ひろこを見る度に)「うちのも、ひろちゃんと同じおおきさになっとったのに。」と、ずっとようた。
浜のmちゃん方には(mちゃんのお祖母ちゃんが)車を引いて桑田まで押して連れて行きょうた。
が、死んでしもうた。
ひろ子の同級生はようけい死んだ。

(父の話)
医者へ連れていっても、ええ薬がなかったんじゃ。

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衣料難

2014年12月17日 | 昭和21年~25年
終戦後は食糧難、 住宅難、 衣料難であったが、
農村は食べる・住むは確保されていた。

都会の生活に比べ、
この数年に限り農村の生活が恵まれていた。
それは、有史以来唯一の出来事だったかもわからない。


(母の話)

無いゆうても、ホントに無い時じゃった。着るもんが無かった。
深津から(行商の)男の人が来て「ええのがありました。」とボタンのついた服をもってきた。忘れもせんがそれを着させてひろ子の入学式に行かせた。
近所のtさんが毛糸をわけてくれたことがある。そわぁなモンでも無い時じゃったんで嬉しかった。

ランドセルはあった。本皮でなかった。
偽物じゃった。
あの頃はものが無かったで。ほんまにぃ。
毛糸じゃけいゆうて無かったけい、ドンゴロスのような毛糸じゃった。
隣のyさんの、福山の小母さんが「ひろちゃんにエエのが有ったけぃ、一番にひろちゃんに持ってきた。」ゆうて中古の編んだのをもってきた。
そうやって、よう持ってきてくりょうた。
物がなかった。着る物(きるもん)がなかった。
(百姓をしていても・・・)食べるもんも無かった。
古着屋がよう流行りょうた。
ツギのボロを持ってくりゃぁ、そりょを縫うたりしょうた。
そりゃぁ、無い時じゃった。一番無かった時じゃ。
今頃考えられん。・・・今ぁ、有りすぎてからなぁ。
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農地改革

2014年12月17日 | 昭和21年~25年
農地改革は小規模農家を増やし中核農家が育成できなかった、という説があるが
では地主制度が存続していたら国際競争に勝つ農家・農業になっていたであろうか?
それはない!


「農地改革」は農地解放で、GHQが指導した政策の内、もっとも成功した一つと言われる。


概要は、
政府が強制的に地主から安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された
地主制度は崩壊した。


(父の話)

国が決めたお金で、売り買いじゃった。・・・といいながらも通貨の価値が決まらない時代に。
ウチでは売りも買いも無かった。
売り買いは、その土地で小作をしていた人が、買う。というのが一般であった。
地主はどうしてもここはいる、というところのみが残った。
小迫なんか、ほとんど取られた(売った)。塩田のトコがちょと残っただけじゃ。
買った方が大きぅなったので、結局売ったほうが泣いた。
下(みせんした)で、小作をしょうたもんは皆、自分の物になってしもうた。
えれえ時代になったもんじゃった。
(漁師は? )
漁師は関係なかった。

(農地改革は一次と二次に分かれ実施されたとあるが ?)
そういう感じはなかった。
作りょうた人が、その土地を買おた。
地主が売らんゆうたら、そのまま小作を続けとった。
地主は五反までは持っとってええ、ことになっとった。
茂平には(城見全体も同じだが)大地主がおらなんだので、ぼっこう取られた人はおりゃあせん。

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