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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高田一族の本城「大橋山城」別名「葦浜城」

2016年05月20日 | 平成元年~平成31年




Q.9 高田一族について具体的に教えてください。

室町時代の初めごろ、笠岡の陶山氏が衰退し、代わりに高田一族が台頭してきました。
高田一族は水軍を率い、朝鮮半島や中国の明と交易に当たっていました。
将軍足利義満の時代から約150年間が全盛でした。
大げの葦浜城を居城として、坪生別所山城、能島沖上城、蔵王山之下城、茂平いわぐろ城の支城をもち備中西南部と備後東南部を支配していました。

城主高田河内守則義の時、制海権をもつ村上水軍(伊予能島)の奇襲を受け,則義は大門の真明寺で自決しました。室町末期、1538年のことです。
その後、則義の弟・豊後守重綱が葦浜城を取り戻し、大橋山城と名を改め、毛利家に従っていました。
高松城水攻の時、毛利輝元の命で兵站活動の責任者でしたが、秀吉側の策略により責を果たせず、責任を取り教積院で自害しました。

則義の孫である河内守正重が次の惣領となりました。正重は毛利とともに秀吉に仕えました。その後、秀頼の親衛隊となり大阪夏の陣で討死しました。

高田河内守一族は備後・備中に分散、帰農しました。そのうち4戸が、茂平湾の小さな島に住み着きました。
島は、福山藩水野家の時代に干拓により陸地化しました
4戸は「表」「中」「前」「後」の屋号で、後に「端」が増えました。
茂平の高田家は以後分家をつづけ、現在では約70戸が高田姓を名乗っています。

(中央大学理事・高田一夫氏の文献参考)

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茂平の空襲警報

2016年05月19日 | 昭和20年(終戦まで)

終戦間際になると空襲警報が鳴りつけた、ことは事実として
では警報の回数の記録が残っているかと言えば、別問題。

これは北木島のバックリ山の山頂にあった監視所にも言える。何度、敵機発見し、情報を送ったのか?


役所でなく、学校の記録に残っていた.
近隣区域でもあり、城見地区の警報もほぼ同じ回数と思える。

以下、「鴨方町史」より。

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鴨方西国民学校の日誌による。

4月・・・8回(警戒8)
5月・・・16回(警戒8)
6月・・・19回(警戒16 空襲3)
7月・・・41回(警戒31 空襲10)
8月・・・15回(警戒11 空襲4)

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新山小学校の魚雷

2016年05月13日 | 昭和20年(終戦まで)
「新山人物誌」の古写真に、新山小学校の校庭に奉安殿と魚雷が前後して写っている。
なぜ学校に魚雷があったのか気になり、今年2月11日の新山歴史ウオーキングの参加申し込みの際、文書(メモだが)で問い合わせた。

ウオーキング当日、主催会長のT先生より書籍をコピーした1枚をいただいた。
先生からコメントも受けたが今は忘れた。
以下そのコピーを転記する。書籍名は不明だが56頁である。

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昭和48年新築された体育倉庫は奉安殿の跡地であるが、その姿は写真による以外見る方法はない。
大正5年に大正天皇・皇后陛下のお写真を下賜(かし)された。新山尋常高等小学校ではどこに奉安すべきか、学区の住民あげて検討された。
校長は農村副業として最も有利な麦稈真田編みの工賃を基金として石造りの奉安殿をつくることとした。
児童へ放課後、講堂で編み方を指導し、家に持ち帰って編ませるという方法をとった。
奉安殿が完成したのは大正9年4月28日であった。

奉安殿の周囲の庭園は前長福寺住職の長尾円澄の指図により造営されたと伝えられる。
奉安殿を守護する役目として国定唯平氏が奉納された水雷2個は奉安殿の前面に並び、左側に機械水雷、右側に魚形水雷があり、堀をめぐらし石橋をかけた見事なものであった。

昭和12年石造りの奉安殿内に自然現象の変化が起こり御写真に汚点がつくという失敗があったと思われる。
そこで奉安殿の屋根を検討し、赤銅造り神殿形式に改造することになった。
このようにして永久に安泰すると期待していた矢先、昭和21年10月10日マッカーサー指令により奉安殿撤去のうき目を見ることになった。
奉安殿および庭園に使われた石は学区内各所に分散され、ヒノキの庭木は校長室の裏手に生きている。

登校した児童は、必ず集団ごとに奉安殿の前まで行って、の上級生の指図で拝礼して教室に入ったものである。
またボールが奉安殿の敷地に入ったら、なかなか拾うことができない。先生に届けて許しを得たら恐る恐る拾ったものである。

このように奉安殿にまつわる思い出はたくさん残っている。

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なおT先生はこの用紙に、「釣鐘などと同時期に水雷は供出では?」とメモられている。

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戦後の暮らし

2016年05月12日 | 暮らし

塩不足

戦後、といっても特に終戦直後の頃
塩の不足は多くの本で記されている。

(父)茂平は海に近く、よおけい要るものでもないし・・・
塩が足らんということはなかった。



パチンコ

戦後日本に出来たものの代表の一つにパチンコがある。

(父)
だいしょうしたことはあるが、損するばっかしじゃけい、しゃあへん。あほーらしい。金が無けりゃあできゃあへん。



新茶

(母)一番茶は・・・(生活に余裕はなく)お茶を飲むどころじゃあねぇ。貰えば飲むゆうことぐれいじゃ。


麦刈り

(母)水落の畑は全部麦を植えとった。刈るのは稲と一緒、水が無ぇのが違うくらい。鋸鎌で刈りょうた。
船で運びょうた。

刈って、こいで、家に持って帰り、筵に引いて、「からさお」で叩きょうた。
発動機が出来たからは、発動機でしょうた。

藁は畑で干しょうた。真田にするのは慎重に干しょうた。痛んで汚うならんように、骨が折りょうた。もって帰って硫黄で燻蒸(くんじょう)しょうた。



小麦粉

おおげの粉屋に頼んだり、伏越にだしょうた。隣に毎日伏越に魚を売りにいくので、それに頼みょうた。

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