「私のかかげる小さな旗」 澤地久枝 講談社 2000年発行
暑さが時間とともにましてくるような7月下旬の一日。
関行男海軍大尉の碑をたずねた。
それは愛媛県西条市にある。
特別攻撃隊としてさいしょの出撃をした5人の慰霊碑が、楢本神社の前庭に建てられていた。
関大尉(戦死後中佐に特進、海兵70期出身)がレイテ作戦の捨石として還ることのない出撃をした日、わたしたちは女学校の2年、満州にいた。
昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊出撃。
関大尉が23歳であり、母と新妻を遺していることは、わたしの記憶にはない。
「赫々たる戦果」と、特別出撃の「壮挙」をたたえるラジオを聞きながら、
わたしもまた、この戦争で死ななければあいすまないと思っていた。
碑文によれば、関大尉とともに出撃して還らなかった部下は4人。
19歳が2人、20歳が2人、いずれも若すぎる死である。
1974年、特別出撃で夫を喪った妻に会うべく、わたしは全国を歩いた。
確認できた妻たちを訪ねて一人旅をつづけた。
戦争が終わって29年目の初夏のことである。
関大尉の妻であったM子さんには、結婚から夫の特攻出撃までわずか5ヶ月しかない。
その後専門職をおさめ、再婚していた。
わたしの手紙に対して、
「どうぞ見逃しておいて下さいませ」という胸がえぐられる返事が来た。
誰もさわってはならない現在の境遇、深い心の傷。
痛みに耐えている人にとって、人間の記憶という生理はどんなにきびしいか。
さらにもの書きの業はいかに深いかを感じさせる返事だった。
特攻出撃の死と戦死の死との間に差はない。前者が英雄視され、戦後の一時期「犬死」と言われた。
死んだ人間には釈明の機会は永遠にない。
(撮影日・2012.10.16 西条市)
人生で一番多感な時に終戦を迎えた作家・吉村昭は、「鬼畜米英」→「ヘイワ日本」と一夜にして簡単に転向した新聞や寄稿者に愕然としている。
大岡将兵の「俘虜記」に救われたと、当時を回顧している。

「その人の想い出」 吉村昭 河出書房新社 2011年発行
戦争を見る眼
終戦は、私が18歳になった年の夏で、その日を境にはじまった大変化の中で、
私はただ呆然として時を過ごしていた。
終戦前までは、ひたすら戦意昂揚を唱えつづけていた新聞、ラジオをはじめとした報道機関は、一転して終戦前のあらゆる事柄の全否定に終始するようになっていた。
報道機関のみならず有識者と称される人たちも、新聞、雑誌に一斉に戦争批判の文章を発表した。
私は、それらの活字を前に放心状態にあった。
18歳の夏までに見た日本人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう、
同じ人間でありながらこのような変貌を遂げてもよいのだろうか、と思った。
或る作家の書いたものに、私は首をひねり、そして激しい憤りをおぼえた。
その作家は、徴兵検査の日、醬油一升を飲み、体に変調を起こして不合格となった。
このように徴兵拒否をすることによって戦争反対を身をもって実行にした・・・と。
冗談ではない。
かれは軍隊に入るのが恐ろしく保身のためにすぎない。戦争反対などとは次元が異なる。
このような文章にばかりふれていた私は、「俘虜記」を読んで感動した。
「俘虜記」の中の一兵士である「私」は、敗北の兵として密林の中をさまよい歩く。
その間に若い米兵の姿を近くに見て、容易に射殺できたが、発砲はしない。
その心理についての氏の叙述は、秀れた思考家であることを示している。
このシーンに、戦争の実体が鮮やかに浮かび出ていた。
大岡将兵の「俘虜記」に救われたと、当時を回顧している。

「その人の想い出」 吉村昭 河出書房新社 2011年発行
戦争を見る眼
終戦は、私が18歳になった年の夏で、その日を境にはじまった大変化の中で、
私はただ呆然として時を過ごしていた。
終戦前までは、ひたすら戦意昂揚を唱えつづけていた新聞、ラジオをはじめとした報道機関は、一転して終戦前のあらゆる事柄の全否定に終始するようになっていた。
報道機関のみならず有識者と称される人たちも、新聞、雑誌に一斉に戦争批判の文章を発表した。
私は、それらの活字を前に放心状態にあった。
18歳の夏までに見た日本人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう、
同じ人間でありながらこのような変貌を遂げてもよいのだろうか、と思った。
或る作家の書いたものに、私は首をひねり、そして激しい憤りをおぼえた。
その作家は、徴兵検査の日、醬油一升を飲み、体に変調を起こして不合格となった。
このように徴兵拒否をすることによって戦争反対を身をもって実行にした・・・と。
冗談ではない。
かれは軍隊に入るのが恐ろしく保身のためにすぎない。戦争反対などとは次元が異なる。
このような文章にばかりふれていた私は、「俘虜記」を読んで感動した。
「俘虜記」の中の一兵士である「私」は、敗北の兵として密林の中をさまよい歩く。
その間に若い米兵の姿を近くに見て、容易に射殺できたが、発砲はしない。
その心理についての氏の叙述は、秀れた思考家であることを示している。
このシーンに、戦争の実体が鮮やかに浮かび出ていた。
伏龍は終戦間際、本土決戦において敵の上陸艇に潜水服を着て潜り、機雷がついた棒を手にして水中を歩いて接近し、機雷もろとも爆死するもの。
完全に人間は死ぬ道具となっている。

「嬉しうて、そして・・・」 城山三郎 文芸春秋 2007年発行
昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。
「末期戦中派」という言葉があるが、私たちは末期も再末期であった。
私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、
軍神杉本五郎中佐の著書「大義」に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生になった。
自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。
しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた皇軍の姿とは似ても似つかなかった。
上官による制裁や意地悪の日々。
上官は白い食パンを食べ、私たちには芋の葉と蔓だけ。
そして戦争が終わると、手のひらを返したように、民主主義を唱えだす大人たち。
この経験を書かずには死ねないという思いが、私を文学に向かわせた。
私が入った昭和20年の海軍は、まったく軍隊としての体をなしていないように感じた。
あのまま戦争が続いていたら、私は「伏龍特別攻撃隊」として、潜水服を着て関東の海岸に潜って、
爆弾のついた棒で米軍の上陸用舟艇を突く作戦に駆り出されていただろう。
自分たちが消耗品として集められることを、憧れの海軍に入って思い知ったのである。

(Wikipedia)
完全に人間は死ぬ道具となっている。

「嬉しうて、そして・・・」 城山三郎 文芸春秋 2007年発行
昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。
「末期戦中派」という言葉があるが、私たちは末期も再末期であった。
私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、
軍神杉本五郎中佐の著書「大義」に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生になった。
自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。
しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた皇軍の姿とは似ても似つかなかった。
上官による制裁や意地悪の日々。
上官は白い食パンを食べ、私たちには芋の葉と蔓だけ。
そして戦争が終わると、手のひらを返したように、民主主義を唱えだす大人たち。
この経験を書かずには死ねないという思いが、私を文学に向かわせた。
私が入った昭和20年の海軍は、まったく軍隊としての体をなしていないように感じた。
あのまま戦争が続いていたら、私は「伏龍特別攻撃隊」として、潜水服を着て関東の海岸に潜って、
爆弾のついた棒で米軍の上陸用舟艇を突く作戦に駆り出されていただろう。
自分たちが消耗品として集められることを、憧れの海軍に入って思い知ったのである。

(Wikipedia)
満州の吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話では、
「戦争が始まった」とは昭和20年8月9日のことを指す。
その日までは、満州帝国は平穏な・・・日本人限定だが・・・”王道楽土”的な日々であったようだが、突然に、
戦争とロシア兵が大波のように押し寄せ、「平穏」から「生命の危機」の日々に一変していった。
捷平さんは、そうゆう満州帝国と大日本帝国の命運が尽きる直前に、兵にとられ、
一夜漬けの訓練で、あっという間に戦車体当たり”特攻兵”となった。

「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行
「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
午後1時令状受領、午後6時入隊というあわただしさ。
一人でヤケ酒を飲み、気を大きくし
即日帰郷になるであろうことを予想して出かける。
深夜某小学校の教室に宿泊。
翌朝、身体検査なし、朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。
「おい、そこの眼鏡のおっさん、しゃんしゃんやらんかいな」と私は引率役の上等兵に叱りつけられた。
「ああ、だが上等兵、僕は持病に神経痛があるから、腰がうずいて仕様がないんだよ」
「こくな、上等兵とは何だ?上等兵殿と言え。ここは軍隊だぞ」
「ハ。それはどうもすみません。・・・それでは上等兵殿、そのここには軍医はおらんのかネ。自分は一度診察して貰いたいと思うんだが・・・」
「バカ。そんなゼイタクなものが、おるか。神経痛ぐらい、今度、戦争が始まれば、いっぺんにすっ飛ぶ」
上等兵はスッパ、スッパ、煙草の煙を吹かすだけなのである。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。
だが、穴掘りが上がらないうちに、命令がきて、私たちは再び小学校によび戻された。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。
間もなく講堂で部隊長の訓示が行われた。
部隊長というから、どんな、堂々、たる男かと待っていると、檀に上がったのは,まだ碌に毛も生えていないような18,19の見習い士官だった。
この見習い士官が、
「事態はまことに急迫しとるのである。
今夜、本首都に於いて戦闘が開始せられる。
お前たちは大日本帝国の軍人として、一命を陛下のために捧げられたい。
生きて囚虜となりて異郷に恥をさらすではない」
と言ったような司令官の命をつたえて、すぐに実地訓練が始まったのである。
その実地訓練は、-----どこからか古参兵が持ってきた乳母車に、フットボールを投げるという簡単なもので、学校の屋根で遊んでいる雀などには、
いい年をしたおっさんが幼稚園の生徒の真似をしているように見えたかも知れない。
が、本当のところは敵の戦車にバクダンを抱えて飛び込む練習であったのである。
いいかえるならば、私ども老兵は、入隊早々,着のみ着のまま、戦車飛込肉弾隊に編入されていたのである。
このように、「私」は日本の軍部が身体検査もせずに入隊させる横暴さを繰り返し語って、執拗に不満と反抗を試みる。
敵国であったソ連の女士官でさえ、「私」の貧弱な体躯を見ただけで放免するという人道的な扱いをした。
今夜の戦闘で老兵を肉弾として使おうという魂胆から、身体検査を省いただのと決めつけ、その間ぶりを非難する。
それにしても、侵攻してくる戦車を穴の中に頓挫させようという馬鹿げた作戦。
出刃包丁を木銃にくくりつけ、これを新兵に配るという稚拙きわまる戦争準備。
さらには拾ってきた乳母車を敵の戦車に想定し、爆弾に擬したフットボールをかかえて飛び込むという幼稚な戦闘訓練。
作戦といい、武器といい、訓練といい、一瞬のうちに壊滅する様子を克明に描いている。
ちなみに6年後に発表された「大陸の細道」でも、
威厳や品位を欠く日本の軍隊幹部の言動や、稚拙で滑稽な戦闘準備、戦闘訓練などを克明に描き、戦争への怒りと国家権力への反骨ぶりを示している。
「戦争が始まった」とは昭和20年8月9日のことを指す。
その日までは、満州帝国は平穏な・・・日本人限定だが・・・”王道楽土”的な日々であったようだが、突然に、
戦争とロシア兵が大波のように押し寄せ、「平穏」から「生命の危機」の日々に一変していった。
捷平さんは、そうゆう満州帝国と大日本帝国の命運が尽きる直前に、兵にとられ、
一夜漬けの訓練で、あっという間に戦車体当たり”特攻兵”となった。

「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行
「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
午後1時令状受領、午後6時入隊というあわただしさ。
一人でヤケ酒を飲み、気を大きくし
即日帰郷になるであろうことを予想して出かける。
深夜某小学校の教室に宿泊。
翌朝、身体検査なし、朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。
「おい、そこの眼鏡のおっさん、しゃんしゃんやらんかいな」と私は引率役の上等兵に叱りつけられた。
「ああ、だが上等兵、僕は持病に神経痛があるから、腰がうずいて仕様がないんだよ」
「こくな、上等兵とは何だ?上等兵殿と言え。ここは軍隊だぞ」
「ハ。それはどうもすみません。・・・それでは上等兵殿、そのここには軍医はおらんのかネ。自分は一度診察して貰いたいと思うんだが・・・」
「バカ。そんなゼイタクなものが、おるか。神経痛ぐらい、今度、戦争が始まれば、いっぺんにすっ飛ぶ」
上等兵はスッパ、スッパ、煙草の煙を吹かすだけなのである。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。
だが、穴掘りが上がらないうちに、命令がきて、私たちは再び小学校によび戻された。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。
間もなく講堂で部隊長の訓示が行われた。
部隊長というから、どんな、堂々、たる男かと待っていると、檀に上がったのは,まだ碌に毛も生えていないような18,19の見習い士官だった。
この見習い士官が、
「事態はまことに急迫しとるのである。
今夜、本首都に於いて戦闘が開始せられる。
お前たちは大日本帝国の軍人として、一命を陛下のために捧げられたい。
生きて囚虜となりて異郷に恥をさらすではない」
と言ったような司令官の命をつたえて、すぐに実地訓練が始まったのである。
その実地訓練は、-----どこからか古参兵が持ってきた乳母車に、フットボールを投げるという簡単なもので、学校の屋根で遊んでいる雀などには、
いい年をしたおっさんが幼稚園の生徒の真似をしているように見えたかも知れない。
が、本当のところは敵の戦車にバクダンを抱えて飛び込む練習であったのである。
いいかえるならば、私ども老兵は、入隊早々,着のみ着のまま、戦車飛込肉弾隊に編入されていたのである。
このように、「私」は日本の軍部が身体検査もせずに入隊させる横暴さを繰り返し語って、執拗に不満と反抗を試みる。
敵国であったソ連の女士官でさえ、「私」の貧弱な体躯を見ただけで放免するという人道的な扱いをした。
今夜の戦闘で老兵を肉弾として使おうという魂胆から、身体検査を省いただのと決めつけ、その間ぶりを非難する。
それにしても、侵攻してくる戦車を穴の中に頓挫させようという馬鹿げた作戦。
出刃包丁を木銃にくくりつけ、これを新兵に配るという稚拙きわまる戦争準備。
さらには拾ってきた乳母車を敵の戦車に想定し、爆弾に擬したフットボールをかかえて飛び込むという幼稚な戦闘訓練。
作戦といい、武器といい、訓練といい、一瞬のうちに壊滅する様子を克明に描いている。
ちなみに6年後に発表された「大陸の細道」でも、
威厳や品位を欠く日本の軍隊幹部の言動や、稚拙で滑稽な戦闘準備、戦闘訓練などを克明に描き、戦争への怒りと国家権力への反骨ぶりを示している。
「鴨方町史 本編」 鴨方町 平成2年発行
昭和20年代の農作物
戦時中からの食糧増産政策が肥料需給率の低下で生産高を低下させ、
これに兵員に徴発されたことによる労働力不足が重なって農業を停滞させる結果となった。
戦後になっても事情は変化しなかった。
戦後の食糧難は深刻で、甘藷を栽培して食糧とすることも多かった。
昭和20年に74.5町で甘藷が栽培され、15万貫を生産しているが、
昭和24年には同一栽培面積で、26万貫を生産している。
畑作物の食用農産品の第一が甘藷であり、大根などを圧倒して栽培されていることに、
食糧難の世相が反映しているといえる。
昭和25年にはじまる朝鮮戦争を契機とする日本経済の活性化の中で、甘藷栽培も減少し、ようやく経済再建のきざしが見えはじめ、
このころから、戦前から特産品の一つになっていた桃の栽培が拡大する。
昭和20年に671本であった桃は昭和30年には1.5倍に拡大する。
梨と葡萄は停留し、
葉煙草が拡大傾向を示した。
昭和20年に185人が昭和26年には100戸増えた。専売品で安定で、換金する農家が増加した。
戦時中の輸出減退の中でバンコック帽や麦稈真田の極度の不振で、戦後になっても輸出は伸びす、国内向けの生産に切りかえ、総じて販売は拡大しなかった。
「黒崎の郷土史」 遠藤堅三 岡文館 平成19年発行
甲谷照正さんの太平洋戦争
(抜粋)
昭和19年
4月15日
赤紙来る。
4月22日
御前神社で歓送式。父・弟、金光駅より付き添いで和歌山市まで同行。
4月25日
和歌山の独立臼砲第18大隊第一中隊に入隊。
5月11日
隠密裏に和歌山を出発。
6月16日
温禰古丹島(おんねこたんとう)に上陸。
昭和20年
7月30日
内地より最後の郵便物来る。
8月4日
占守島長崎海岸に上陸。
8月13日
後続の船団、米艦隊の攻撃を受けことごとく海没と知る。
8月15日
この日、天皇の重大放送ありと聞くも僻地の陣営では、その放送聞くすべなし。時局の重大さを憂い全国民一大奮起を促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日
長崎海岸より使役で帰りたる者の話では15日の天皇陛下の放送は終戦詔勅といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日
朝、貴志小隊長より終戦詔勅の確報を聞く。

8月18日
未明、ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ。我が方、敵を水際に押すも大本営よりは抵抗ならずの命令、彼我膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三にわたり軍使を出して交渉に入れども事態は妥結せず。見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日
我々23名は孤立。
食料なく天神山中隊に食料受領に行く、中隊本部の所在も不明のまま3名出発する。帯剣は3,小銃は1、途中敵弾の雨霰、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命ぜられ帰隊する、敵弾の飛来は漸く治まる。
8月22日
現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日
漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍終結、武装解除される。
8月24日
我が大隊は三好野付近に集結し翌日現地で戦没者の慰霊祭を行う。
9月5日
ソ連軍の指揮下に入り作業に従事す。
9月18日
日ソ激戦地跡の戦場を整理、ソ連軍の戦死者は埋葬して白木の墓標を建てるも、日本軍の屍は半ば朽ち放置されたまま、惨め。
10月10日
ソビエト船に乗船、占守島を出航。

10月20日
マガダンより奥地80キロのフタロヒに着く。約4.000名。
10月22日
森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、日本衣類はぼろぼろに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさ凍傷にかかる。
栄養失調、体力は日々衰える。
11月3日
激しい吹雪の朝、作業は続行。
収容所の広場に整列し南に向かって故国への遥拝、黙祷。
大隊長の訓示、今日、故国では菊薫る明治の佳節である。
その後、鋸となたを持って雪の途を山へ。
11月下旬
下痢患者続出、死者も出る。
12月中旬
凍傷にかかる、右手親指、人差し指、中指三本の指、凍傷。
忽ちにして爪は抜ける、痛み激しいい凍兵休をくれる。
昭和21年
3月25日
この頃明け方、オーロラが美しい。
4月中旬
日増しに日が長くなり午後11時頃でも明るい。
6月初旬
作業優秀者のグループに入る。
昭和22年
3月2日
初めて捕虜用郵便葉書が渡され、郷里に健在と便り認める。
5月
この頃ダモイ(帰国)の噂、濃厚なり。
昭和23年
7月下旬
衰弱してマガダンに移る。油送菅配管の作業員として草原に出る。
昭和24年
4月
大工要員として出る。
7月
帰国の噂、濃くなる。
9月15日
シベリア寒気を覚える頃となり、また越冬か。
その日の作業を終えた頃収容所から使いがくる。
作業は今日で打ち切り、私物は持ち帰るようにと“ついに帰るれ”
丸4年間、瞬時も心から去らなかった帰国、一同喜色溢れる。
9月21日
マガダン港を出港。
9月24.25日
海上時化る。船は宗谷海峡に入る。
9月26日
夕刻ナホトカ港に入る。下船して収容所に入る。
9月27日
厳しい私物検査、前歴職業が警察、憲兵の人は列を外された。
9月30日
ソ連を去る式が行われた。
岸壁で名前が呼ばれると2人1組でスクラム組んでタラップを上がるのである。
午後3時、船は出港二度と来ないぞソ連港。

(舞鶴引揚記念館)
10月3日
鳥居が見える。シベリアで日本の神社は全て取り壊したと聞いていたので鳥居が見えた時意外に思った。
桟橋に降りる。舞鶴援護局の庭にはコスモス咲き乱れ、金木犀の芳香漂い秋陽さんさんと照り注ぐ。
10月4日
援護局内で東舞鶴青年団の慰労の夕が催され歌謡曲、映画あり。
10月11日
帰郷の日、夕方6時頃京都駅に着く。妻、叔父来てくださる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘、親類の方がたも来てくださる。
11時頃、金光駅に着く。
黒崎村よりも部落の人達が大勢迎えに来てくださり、郷関を出て5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。
甲谷照正さんの太平洋戦争
(抜粋)
昭和19年
4月15日
赤紙来る。
4月22日
御前神社で歓送式。父・弟、金光駅より付き添いで和歌山市まで同行。
4月25日
和歌山の独立臼砲第18大隊第一中隊に入隊。
5月11日
隠密裏に和歌山を出発。
6月16日
温禰古丹島(おんねこたんとう)に上陸。
昭和20年
7月30日
内地より最後の郵便物来る。
8月4日
占守島長崎海岸に上陸。
8月13日
後続の船団、米艦隊の攻撃を受けことごとく海没と知る。
8月15日
この日、天皇の重大放送ありと聞くも僻地の陣営では、その放送聞くすべなし。時局の重大さを憂い全国民一大奮起を促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日
長崎海岸より使役で帰りたる者の話では15日の天皇陛下の放送は終戦詔勅といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日
朝、貴志小隊長より終戦詔勅の確報を聞く。

8月18日
未明、ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ。我が方、敵を水際に押すも大本営よりは抵抗ならずの命令、彼我膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三にわたり軍使を出して交渉に入れども事態は妥結せず。見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日
我々23名は孤立。
食料なく天神山中隊に食料受領に行く、中隊本部の所在も不明のまま3名出発する。帯剣は3,小銃は1、途中敵弾の雨霰、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命ぜられ帰隊する、敵弾の飛来は漸く治まる。
8月22日
現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日
漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍終結、武装解除される。
8月24日
我が大隊は三好野付近に集結し翌日現地で戦没者の慰霊祭を行う。
9月5日
ソ連軍の指揮下に入り作業に従事す。
9月18日
日ソ激戦地跡の戦場を整理、ソ連軍の戦死者は埋葬して白木の墓標を建てるも、日本軍の屍は半ば朽ち放置されたまま、惨め。
10月10日
ソビエト船に乗船、占守島を出航。

10月20日
マガダンより奥地80キロのフタロヒに着く。約4.000名。
10月22日
森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、日本衣類はぼろぼろに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさ凍傷にかかる。
栄養失調、体力は日々衰える。
11月3日
激しい吹雪の朝、作業は続行。
収容所の広場に整列し南に向かって故国への遥拝、黙祷。
大隊長の訓示、今日、故国では菊薫る明治の佳節である。
その後、鋸となたを持って雪の途を山へ。
11月下旬
下痢患者続出、死者も出る。
12月中旬
凍傷にかかる、右手親指、人差し指、中指三本の指、凍傷。
忽ちにして爪は抜ける、痛み激しいい凍兵休をくれる。
昭和21年
3月25日
この頃明け方、オーロラが美しい。
4月中旬
日増しに日が長くなり午後11時頃でも明るい。
6月初旬
作業優秀者のグループに入る。
昭和22年
3月2日
初めて捕虜用郵便葉書が渡され、郷里に健在と便り認める。
5月
この頃ダモイ(帰国)の噂、濃厚なり。
昭和23年
7月下旬
衰弱してマガダンに移る。油送菅配管の作業員として草原に出る。
昭和24年
4月
大工要員として出る。
7月
帰国の噂、濃くなる。
9月15日
シベリア寒気を覚える頃となり、また越冬か。
その日の作業を終えた頃収容所から使いがくる。
作業は今日で打ち切り、私物は持ち帰るようにと“ついに帰るれ”
丸4年間、瞬時も心から去らなかった帰国、一同喜色溢れる。
9月21日
マガダン港を出港。
9月24.25日
海上時化る。船は宗谷海峡に入る。
9月26日
夕刻ナホトカ港に入る。下船して収容所に入る。
9月27日
厳しい私物検査、前歴職業が警察、憲兵の人は列を外された。
9月30日
ソ連を去る式が行われた。
岸壁で名前が呼ばれると2人1組でスクラム組んでタラップを上がるのである。
午後3時、船は出港二度と来ないぞソ連港。

(舞鶴引揚記念館)
10月3日
鳥居が見える。シベリアで日本の神社は全て取り壊したと聞いていたので鳥居が見えた時意外に思った。
桟橋に降りる。舞鶴援護局の庭にはコスモス咲き乱れ、金木犀の芳香漂い秋陽さんさんと照り注ぐ。
10月4日
援護局内で東舞鶴青年団の慰労の夕が催され歌謡曲、映画あり。
10月11日
帰郷の日、夕方6時頃京都駅に着く。妻、叔父来てくださる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘、親類の方がたも来てくださる。
11時頃、金光駅に着く。
黒崎村よりも部落の人達が大勢迎えに来てくださり、郷関を出て5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
石油の不足
石油代用品として大豆油・落花生油・ヤシ油・ヒマシ油が産業用に向けられ、
メタノール・エタノール・アセトンがガソリンに代用された。
民間の馬鈴薯・砂糖・酒類はアルコール原料として供出させられ、生ゴムから油を取ることも考えられた。
海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農商省は昭和19年10月に松根油急増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根掘りに駆り出された。
一日当たり125万人を動員し、約4万7千の乾溜窯が全国に作られ、
昭和20年6月には松根粗油は月産1万1千キロリットルに達した。
精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけで、四日市の燃料廠に集められた松根油は精製前に空襲を受けて無駄になった。
松根油にはタール分・灰分が多く、いったん濾過したものでも燃料タンクに放置すると、濾過器がつまる
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり使い物にならなかったといわれる。

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編 山陽新聞社 2000発行
松根油の増産
昭和19年
前年末から松の根を乾留してガソリン代用の軍需燃料にする松根油増産が始まった。
本年10月農商務省が「松根油緊急増産対策要綱」を決定し、松の根掘りに主婦や生徒児童を動員した。
岡山県も町村ごとに「堀取り挺身隊」を組織して動員した。
12月には乾留釜462を主要地区に設置する計画を立てた。
翌年2月山林局に松根油課が新設され、7月から松根油増産完遂運動が始まった。
しかし、輸送力不足と乾留釜設置がはかどらぬまま敗戦となった。
敗戦後、県内の山々にも掘り返されたままの巨大な松の根が散乱していた。
「福山市津之郷町史」 ぎょうせい 2012年発行
国民学校
昭和20年になると、松やに採取のために、大きな松の木の幹に鋸目を入れ、
そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを毎日、
集め回ってそれを学校に持って行くようになっていた。
松やには飛行機や戦艦の塗料の原料とされた。
松根油株割兵士が同年6月から講堂に宿泊し、現在の保育所の北方で、
周辺で集められた松の根を割って、乾留して松根油を採取した。
松根油から飛行機燃料などが製造された。
「新修倉敷市史6」
松根油の大増産のため
昭和19年暮れ、政府はにわかに軍用機燃料の原料になる松根油の増産に力を入れ始めた。
翌20年2月314基の乾留釜を新設し、既存の137基と合わせて大増産する計画で、
児島郡では11基、浅口郡で7期、都窪郡で6基新設計画になっていた。
ところが釜の新設が終わらないうちに次の増設割り当てが届くありさま。
松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。
倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山、足高山、酒津山などで掘った。
まもなく老松は底をついたが、増産要求は容赦なかった。
翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。
山の中から松の根を掘り出し、堅い根を割り砕いて乾留するのが重労働だった。
戦争末期には予科練習生少年航空兵も従事した。
それでも増えなかった。
石油の不足
石油代用品として大豆油・落花生油・ヤシ油・ヒマシ油が産業用に向けられ、
メタノール・エタノール・アセトンがガソリンに代用された。
民間の馬鈴薯・砂糖・酒類はアルコール原料として供出させられ、生ゴムから油を取ることも考えられた。
海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農商省は昭和19年10月に松根油急増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根掘りに駆り出された。
一日当たり125万人を動員し、約4万7千の乾溜窯が全国に作られ、
昭和20年6月には松根粗油は月産1万1千キロリットルに達した。
精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけで、四日市の燃料廠に集められた松根油は精製前に空襲を受けて無駄になった。
松根油にはタール分・灰分が多く、いったん濾過したものでも燃料タンクに放置すると、濾過器がつまる
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり使い物にならなかったといわれる。

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編 山陽新聞社 2000発行
松根油の増産
昭和19年
前年末から松の根を乾留してガソリン代用の軍需燃料にする松根油増産が始まった。
本年10月農商務省が「松根油緊急増産対策要綱」を決定し、松の根掘りに主婦や生徒児童を動員した。
岡山県も町村ごとに「堀取り挺身隊」を組織して動員した。
12月には乾留釜462を主要地区に設置する計画を立てた。
翌年2月山林局に松根油課が新設され、7月から松根油増産完遂運動が始まった。
しかし、輸送力不足と乾留釜設置がはかどらぬまま敗戦となった。
敗戦後、県内の山々にも掘り返されたままの巨大な松の根が散乱していた。
「福山市津之郷町史」 ぎょうせい 2012年発行
国民学校
昭和20年になると、松やに採取のために、大きな松の木の幹に鋸目を入れ、
そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを毎日、
集め回ってそれを学校に持って行くようになっていた。
松やには飛行機や戦艦の塗料の原料とされた。
松根油株割兵士が同年6月から講堂に宿泊し、現在の保育所の北方で、
周辺で集められた松の根を割って、乾留して松根油を採取した。
松根油から飛行機燃料などが製造された。
「新修倉敷市史6」
松根油の大増産のため
昭和19年暮れ、政府はにわかに軍用機燃料の原料になる松根油の増産に力を入れ始めた。
翌20年2月314基の乾留釜を新設し、既存の137基と合わせて大増産する計画で、
児島郡では11基、浅口郡で7期、都窪郡で6基新設計画になっていた。
ところが釜の新設が終わらないうちに次の増設割り当てが届くありさま。
松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。
倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山、足高山、酒津山などで掘った。
まもなく老松は底をついたが、増産要求は容赦なかった。
翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。
山の中から松の根を掘り出し、堅い根を割り砕いて乾留するのが重労働だった。
戦争末期には予科練習生少年航空兵も従事した。
それでも増えなかった。
学校出て、初めて社会人になったころ、
会社の健保組合から「家庭医学」の本を配布されることが何度かあった。
何冊か配られたので著者(監修者だったかも)”杉靖三郎”の名前はよく覚えている。
医学博士・杉靖三郎氏は、戦前・戦中から家庭医学の分野で啓蒙活動をしていたようだ。

「昭和 第6巻」 講談社 平成2年発行
飢餓とたたかう「決戦食」
茶殻も野菜代わりに
飢える銃後
厚生省は昭和16年9月、米の供給減にともなう新たな「日本人栄養要求量」の最低限度を、成人男子1人1日熱量2.000カロリー、蛋白70gと発表した。
しかし昭和19年になると、この最低限度を下まわる1927カロリー、45.4gにまで低下した。
大阪府の場合、15歳の平均体重は17年45.4k、18年44.7g、19年42.8gと減少していった。
政府は食糧不足に対する抜本的な解決策よりも、「工夫が足りない」「我慢が足りない」として、
米や代用食以外のものを主食化しようという「決戦食」を喧伝した。
また「日本に栄養不足絶対になし」とする栄養学者も現れた。
「日本人の栄養は1.000カロリーを割っても栄養学的にはまだ大丈夫。
ようするに日本人は『玄米と味噌と野菜少々』あれば、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく定期で頑張れるのです」(杉靖三郎『婦人倶楽部』昭和19年6月号)
と主張する学者もいたのである。
・・・
国民生活の窮迫
昭和16年4月、米が配給制。二合三勺。
その内容は急速に変化した。当初の7分搗きから、5分搗き、二分搗きになっただけでなく、雑穀や代替食品の混入割合が多くなった。
昭和16年11月の閣議で玄米食普及が決定され、これが大政翼賛会指導の国民運動になった。
昭和18年6月以降、馬鈴薯・小麦粉・乾パン・満州産大豆・甘藷・脱脂大豆・でん粉・切干甘藷・麦などの代用食の比重が米と引き替えで次々に高められた。
昭和19年からは大豆やとうもろこしも米と混炊するようになった。
魚の最低必要量は1日50Gとされていたが、17年に36G、18年に26Gとなり、20年には10Gまでに低下した。
イワシ・サメ・スケトウダラが配給の大部分を占めた。
野菜も配給では必要量の半分しかなく、家族総出の「買い出し部隊」が近郊の農村に繰り出した。
空地や庭に家庭菜園を作らせ、主食代わりになる南瓜の増産が奨励された。
昭和20年の野菜消費量は12年の6割以下に落ち込んだ。
主食への大豆・高粱・ともろこしの混入率は20年5月の13%から6月49%7月59%と急速に高まり、7月にはついに主食配給が一律1割削減された。
芋づる・どんぐり・よもぎ・にら・南瓜のつる・蜜柑の皮をはじめ、桑の葉・もみがら・おがくずまでが食糧となった。
生活物資も行列買いがはじまりった。
衣生活では、衣料品はますます買いにくくなった。
短袂実行・国民服・モンペ着用・衣料融通交換の国民運動が起された。
昭和19年6月、現物の衣料は底をついた。
住宅事情も悪化の一途をたどった。
縁故疎開で農村に殺到した疎開者は、農家の納屋や蚕室・鶏小屋まで借りて住居とした。
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
・・・・・

荷物一つ 命からがら
「昭和時代」 著者・読売新聞 中央公論社 2015年発行
在留の日本人が最も多かったのは満州だった。
約155万人と見込まれた。
日本政府は1945年8月14日、
満州を始めとする在外機関に訓令を出し、
在留邦人は「出来る限り定着させる」との方針を示した。
ソ連軍の蛮行が続き、満州の危機的な状況が伝えられても、
「早期引き揚げ」へと方向転換できなかった。
満州を占領したソ連は、在満日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護には一向に目を向けなかった。
関東軍も、満州国も、満鉄も、9月末までには消滅した。
関東軍の幕僚や満州国の首脳陣はシベリアへ連行された。
45年末から共産党軍が勢力を伸長させた。
46年3月、ソ連軍は撤退を開始。
その後に国民政府軍が現れた。
米国が国民政府に対して輸送用船舶を貸与するなど支援活動を行い、引き揚げが始まった。
邦人を乗せた第一陣の船が葫蘆島を出港したのは46年5月のことだった。

・・・・・・
満州で生まれた漫画家・赤塚不二夫の『これでいいのだ』によれば、
46年6月初め、奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島に向かう。
奉天駅には、中国人が大勢集まっていて「その子供売れ!」
母は子に「しっかりつかまるんだよ。離しちゃダメだよ!」
満州の邦人は、46年中に約100万人が引揚を終えた。
約17万人が犠牲になったといわれている。
リュックサックやズタ袋一つに大事なものを収めて、命からがら本土にたどり着いた引揚者のなかには、帰国した後、
新たな苦労に直面した人も多かった。
「昭和時代」 著者・読売新聞 中央公論社 2015年発行
在留の日本人が最も多かったのは満州だった。
約155万人と見込まれた。
日本政府は1945年8月14日、
満州を始めとする在外機関に訓令を出し、
在留邦人は「出来る限り定着させる」との方針を示した。
ソ連軍の蛮行が続き、満州の危機的な状況が伝えられても、
「早期引き揚げ」へと方向転換できなかった。
満州を占領したソ連は、在満日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護には一向に目を向けなかった。
関東軍も、満州国も、満鉄も、9月末までには消滅した。
関東軍の幕僚や満州国の首脳陣はシベリアへ連行された。
45年末から共産党軍が勢力を伸長させた。
46年3月、ソ連軍は撤退を開始。
その後に国民政府軍が現れた。
米国が国民政府に対して輸送用船舶を貸与するなど支援活動を行い、引き揚げが始まった。
邦人を乗せた第一陣の船が葫蘆島を出港したのは46年5月のことだった。

・・・・・・
満州で生まれた漫画家・赤塚不二夫の『これでいいのだ』によれば、
46年6月初め、奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島に向かう。
奉天駅には、中国人が大勢集まっていて「その子供売れ!」
母は子に「しっかりつかまるんだよ。離しちゃダメだよ!」
満州の邦人は、46年中に約100万人が引揚を終えた。
約17万人が犠牲になったといわれている。
リュックサックやズタ袋一つに大事なものを収めて、命からがら本土にたどり着いた引揚者のなかには、帰国した後、
新たな苦労に直面した人も多かった。
「庄原市の歴史 通史編」 庄原市 平成17年発行
昭和24年石川達三は、戦争中に思想弾圧に屈しなかった中央公論社社長嶋中雄作をモデルにした『風にそよぐ葦』を発表している。
そこには特高警察、
特別高等警察・・・高等とは恐れ入る名称であるが
死に至ることを当然として拷問を繰り返している治安警察の姿が描かれている。
憲兵と特高は、ナチス・ドイツの親衛隊と同じ役割を果たしたが、
戦後厳しい反撃を受けたナチ親衛隊関係者とは異なり、
日本では元特高警察を励ます会まで組織され、政界に進出する者さえあった。
特高警察の拷問で殺された人は哲学者三木清、作家小林多喜二など数多い。
嶋中雄作は横浜警察署で拷問を受け、拷問に負けず、信念を守った。
昭和15年には大政翼賛会が組織され、政党活動はできなくなった。
学者・作家・画家なども大政翼賛会文化部に所属し、
安部能成(戦後学習院大学学長)、岩波茂雄(岩波書店社長)、菊池寛(文芸春秋社長)など戦後は自由主義の総本山と目される人々も「大政翼賛促進の会」の発起人となった。

(福山41連隊の応召兵と家族)
昭和24年石川達三は、戦争中に思想弾圧に屈しなかった中央公論社社長嶋中雄作をモデルにした『風にそよぐ葦』を発表している。
そこには特高警察、
特別高等警察・・・高等とは恐れ入る名称であるが
死に至ることを当然として拷問を繰り返している治安警察の姿が描かれている。
憲兵と特高は、ナチス・ドイツの親衛隊と同じ役割を果たしたが、
戦後厳しい反撃を受けたナチ親衛隊関係者とは異なり、
日本では元特高警察を励ます会まで組織され、政界に進出する者さえあった。
特高警察の拷問で殺された人は哲学者三木清、作家小林多喜二など数多い。
嶋中雄作は横浜警察署で拷問を受け、拷問に負けず、信念を守った。
昭和15年には大政翼賛会が組織され、政党活動はできなくなった。
学者・作家・画家なども大政翼賛会文化部に所属し、
安部能成(戦後学習院大学学長)、岩波茂雄(岩波書店社長)、菊池寛(文芸春秋社長)など戦後は自由主義の総本山と目される人々も「大政翼賛促進の会」の発起人となった。

(福山41連隊の応召兵と家族)