昭和40年正月映画・東映「あの雲に歌おう」
茂平の道
茂平の道は、(たぶん)昭和の初めまでは牛と荷車が通れる幅の道しかなかったと思う。
しかし、それは平地のことで、山道は人しか通れない。
荷物は持つか、背負うか、天秤棒とヘードラ。
孤立した村だった。
昭和の初め頃、用之江から茂平港まで4輪車が通れる、というより、どうにか入れる幅になった。
それで、やっと荷車が用之江とつながった。馬子も来れる道幅になった。
昭和40年代に野々浜と車道が繋がった。
大冝と生江浜への道は消滅した。(自然に戻った)
昭和32.34年頃、バスが茂平に来るようになったが、園芸組合までで、それ以南は道幅が狭いので終始点となった。
馬子がいて、馬子唄が伝わる地域は、今でいう国道が村を通る便利な地域だったように感じる。
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想像もできないような細い、曲がりくねった道しかなかったころは、
物資の運搬も人の背か肩で担いだり、背負うのが普通であった。
米・麦をはじめとする農作物の収穫から、
肥料の運搬、
日用品の運搬などもすべて担いでいたのである。
「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
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(笠岡市用之江)
(古道”七隠れ”=浜街道とも福山街道とも笠岡街道とも呼ばれた。大正から昭和にかけて旧・山陽道からコチラが国道2号線扱いになった)
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国道2号線
(Wikipedia)
1929年(昭和4年)現在の岡山市中心部から、
倉敷市中心部 - 浅口市 - 浅口郡里庄町 - 笠岡市 - 福山市中心部を経て福山市津之郷町へ至る
経路が本国道となり。
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「矢掛町史民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行
雲助道中唄
〽
ハァー小田で真安矢掛で佐渡や
ツケて流すが津野坂やハァヨイヨイ
ハァーやかげ名物うどんの中村ゆべしの
志計や 酒は佐渡やの浅みどりハァヨイヨイ
(ハァーヤットコ矢掛の槍かえ 川辺の川かえ)
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「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
馬子歌
馬は背に相当量の荷を負い、山の中の悪路でも黙々と歩む。
馬子は手綱をとり、馬とともに歩く。
荷物は炭であったり塩や魚であったりするが、行先の土地の必需品であることは間違いない。
馬子は人びとに喜ばれることを考えて、勢いよく馬を引き歌をうたっていく。
佐伯郡
〽
君と別れて松原行けば
松の露やら涙やら
駒が物言た上根の峠で
お仙女郎なら乗しょと言た
・・・
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
消えていく民謡
民謡という言葉は比較的新しく、
第二次大戦後に定着した言葉である。
それまでは「俗謡」「俚謡(りよう)」という言葉が使われていた。
民謡に対する態度は、その時代の民謡感を反映して冷たいものである。
例えば、
明治42年『和気郡史』、
「大抵、鄭声(ていせい)淫猥の曲、士君子の口にするを恥ずべく、聞くに堪えざるもの多し」
大正5年の『中津井村史』、
「大抵淫猥野卑ノ曲ニシテ聞クニ堪エザルモノ多シ」
大正12発行の『久米郡誌』は
「作業謡も色々あって田植え唄、籾摺り唄、木挽き唄、地搗唄、餅搗唄、遠路工夫の唄などがあるが、何れも多くは野卑である」
などと記している。
どれをとっても言葉の使い方まで同一で、どこかに模範にすべき文章があり、それをそのまま記したと思われる。
こういう社会の風潮のなかで、民謡は次第に歌われなくなり、
それと生活、生産様式の変化に伴って、民謡は遠いものになっていった。
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「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
民謡とは
民衆は歌をうたうことによって、生活の中の苦労を半減させ、
喜びを倍加させていたのであって、
いうならば、
彼等のうたう歌は、彼等の生活と不可分のもの、
生活と密着するものであって、
決して遊びや、余技ではなかったのである。
そういう歌が「民謡」である。
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
民謡
民謡の中心は、なんといっても労作歌であり、
仕事のあるところには必ずといっていいほど唄がある。
まず、産業の第一は農業であり、米作である。
「水車踏み唄」「苗取り唄」「草取り唄」各地に伝承が多い。
麦作では、
「麦打ち唄」「唐箕唄」「池普請団地子唄」が豊富に伝承される。
藺草は、
花筵織りで「ござ織り唄」がある。
茶は、
それぞれの地域で「茶作り唄」が採録されている。
綿は備中南部が盛んで、
「綿打ち唄」「糸引き唄」「機織り唄」などが伝承されていた。
そうめん作りの
「掛け場唄」。
真田組みの、
「真田組み唄」がある。
林業・畜産の関係では、
「木挽き唄」「柴刈り唄」「牛追い唄」「馬子唄」などがある。
鉱山では、
「たたら唄」「石刀節」。
笠岡市の北木島・白石島では、
「石切り唄」がある。
交通では、
高梁川・旭川・吉井川の三大河川の舟運に用いられた高瀬舟の
「高瀬舟歌」が三河川とも採録されている。
海では、
「櫓こぎ唄」「網唄」「祝唄」などがある。
入浜塩田の「浜子唄」も聞かれた。
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「矢掛町史民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行
生活の中にあった民謡、
労働・仕事とともにあった民謡も生活の急変、
労働・仕事の変化によって、その基盤を失っている。
わずかに痕跡がみられる程度で想い出して歌ってもらわねばならない時期になっている。
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「金光町史」 金光町 平成10年発行
民謡
柳田国男は『民謡覚書』のなかで民謡をつぎのように分類している。
①田歌
②庭歌
③山歌
④海歌
⑤業歌
⑥道歌
⑦祝い歌
⑧祭り歌
⑨遊び歌
⑩童歌
今回の調査で採録できた民謡はわずかである。
①~⑥までの労作歌は、すでに完全に伝承がなくなってしまった。
真田組み歌でさえ歌える人がわずかになった。
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(鳥取県智頭町 2007.4.14)
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
木挽き唄
切り倒された木を大鋸で挽いて、板や用材にするのが木挽き職である。
重労働で、「木挽き米の飯一升食うて、鋸の屑ほど糞たれた」と歌われるが、
それほど食べないと力は出なかった。
久米南町
〽
何が因果で木挽きをヨー習うた
花の盛りを山小屋で
花の盛りを山小屋に住めど
ヤレ小判並べて女郎を買う
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「矢掛町史民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行
木びき唄
〽
木びきや木びきや
山中の山小屋ににすめど
小判並べて姫をかう
ゴシコン ゴシコン
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「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
木挽き歌
広島県は中央部以北は大部分が山地である。
中でも、比婆・双三・世羅・山県・佐伯の各郡は奥深く樹木の鬱蒼と茂った山々が連なっている。
かような山地の生活は、農業よりはむしろ林業関係が多く、
木を切り、炭を焼く仕事が主であった。
したがって生活の歌として最も多いのが木挽き歌である。
高田郡
〽
ヤーレ 朝まとうからヨー奥山小屋で
とっつぁん譲りの木挽き歌
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伐採に際して、十数名の杣師(そまし)や木挽が山に入り、
杣師は角材にかかかり
木挽は板にする。
彼らは所定の仕事が終わるまで、木小屋を建てて何日も合宿する。
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御調郡・賀茂郡
〽
木挽は木を挽く 杣師は削る 山の元締やけんを打つ
全県
〽
何の因果で木挽を習た
花の盛りを山小屋に
・・・
(鳥取県智頭町 2007.4.14)
(東城川 2022.11.3 広島県東城町)
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「岡山県史 民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
林業
中国山地などの木材は筏流しで、岡山などの都市の問屋へ出された。
伐採した木材をキンマ(木馬)または修羅でゾロビキといって運び、
木材にトッカンを打ち込んで、馬や雄牛にひかせ、
または、
人がのって小川まで出す。
そして筏流しをする。
すなわち一本ずつ管流しをし、
大きい川まで出ると、筏師が筏にくんで乗り、川下りした。
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「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
筏流し歌
東城川は水量豊富で、ダムもなかったため、
川の利用が盛んに行われた。
油木町の手入(てにゅう)までは、舟が玉島から高梁を経てのぼり、
筏はさらにその上流の浜栄が出発点であった。
そのころ、舟も筏も、東城から玉島まで三日ほどかかったそうである。
比婆郡
〽
何の因果で筏乗りを習たヨー
朝間はよからヨー弁当下げてヨー
筏綱切りゃ玉島までは
命がけでもやらにゃならぬ
命がけでも田原に着けて
運賃もらえば酒盛じゃ
木出し
「木出し」とは、山で木を切り倒して麓の道へ搬出する作業をいう。
木挽の切り倒した木材を大勢がとりつき、荒縄を掛けたり、コロを嚙ませたりして、
腕の力を使って道路まで運び出したのである。
高田郡
〽
さあさあ皆さんよ よろしくたのみます
ハー山奥の 大物(だいもつ)が ずうるうと
いごきだした 力をいれて 頼みます
・・・
(高知県高岡郡津野町の茶畑 2018年10月1日)
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「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
茶
たいていの家では、畑のぎしなどに茶樹を植えており、自給する。
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
茶作り唄
茶摘みは若い女で、
近隣の村から口減らしをかねてやってきていた。
女工部屋にごろ寝で泊り、茶摘みの期間中働く、
村の若衆には「茶の木が仲人した」結果、
茶摘み女を嫁にした人も相当あった。
茶摘みは朝、夜が明けるとすぐに出て行き、
日が暮れるまで一日中摘む。
日の長い茶摘み時期に、遅くまで働かせていた。
一番茶は竹べらで摘み、
二番茶からは鎌で芽を刈っていた。
摘んだ茶は手でもんで煎茶にしていたが、大正9年に茶の機械が導入され、すべて機械もみにとって代わられた。
茶もみ作業は、高温多湿の部屋の中でする大変な仕事であった。
美作町海田
海田出る時ゃ涙で出たが
今じゃ海田の風もいや
みんな精出そや腕よりかけて
掛けた襷の回るほど
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「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
茶摘み歌
山県郡
〽
茶摘み籠には茶はたまらいで
結び合わせの草ばかり
歌をうたって茶摘みをすれば
知らず知らずに茶はたまる
・・・
”バレンタインデー”という言葉も行事も30才ころまで、まったく知らなかった。
ある時、他業種の独身女性から
「上司(妻帯者)にチョコレートをあげたら、顔を紅くして喜んだ」
という会話を耳にした。
彼女はその上司を、いくらかおちょくるような言い方だった。
それで、”バレンタインデー”という日があることは知った。
その日は、女性から男性へ愛の告白をしてもいい日、だそうだ。
だが自分にも、自分の勤務先にも縁のない行事だった。
それから数年してから、急にその行事は有名になった。
スーパーに行けば、いちばんいい置き場に、チョコレートが山と積まれるようになった。
そして自分にもチョコレートが届くようになった。
自分に届くようになった時は、すでに”義理チョコ”全盛の時代で、
おまけに”ホワイトデー”があり、同等または倍相当のお返しチョコが必要とのことだった。
チョコレート菓子の業界が仕組んで、それに日本人が乗ったイベントとしか思えなかった。
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地方の民俗や行事の本を、何冊か調べてみた。
”バレンタインデー”は記載されているだろうか、と。
予想通り、まったく出てこなかった。
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1970年頃、生活の本のベストセラーで知られた「自由国民社」の本を手にしてひろげた。
すると、この本にはバレンタインデーが載っていた!!!
「365日べんり手帳」 自由国民社 昭和46年発行
「聖バレンタインデー」
2月14日
バレンタイン聖人の殉教の日。
鳥が春情をおぼえる日とされ、
お化粧した卵の贈答が行われ、
若い男女が公然と愛をささやいてよい日とされている。
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「バレンタインデー」ではなくて、「聖バレンタインデー」であり、
チョコレートは、まったく関係ない。
そうしているうち、
自然と、ではなくて、社命のような感じで職場からは消えていった。
行事の内容が時に変遷したり、ところにより違うのは当然だろうが、
「義理チョコ」と「ホワイトデー」の時代は・・・ほんま、どうでもよかったな。
父の話(2000・5・14)
何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。
ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。
昔はみんな、そうしょうた。
撮影日・2014年10月9日 (静岡県榛原郡金谷町)
・・・
茂平水落の山畑の一角に茶を植えていた。
摘んで籠にいれて家に持ち帰り、母が手もみをして天日で干していた。
そのお茶の味は、不味かった。
小学校の先生が授業で、
「昔はお茶を飲まず白湯(さゆ)を飲んでいて、
身分の上の人や、病気になった人がお茶を飲んでいた」
話を聞き、不味くてもお茶を飲めるのはありがたいことだと思っていた。
常会や来客がある時のみ、買った茶を使用していた。
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「広島県の民謡」 中国放送 第一法規出版 昭和46年発行
茶もみ歌
農家で飲む茶はほとんど自家製であった。
夏も近ずく八十八夜ごろ、
畑の一隅に植えた茶の木もびっしりと若葉をつけた。
農家ではひまを見て茶の葉を摘む。
摘んだ茶は蒸してもんで茶にする。
主として女性の仕事である。
安芸郡
〽
ヤーレ聞けばこなたにゃ 茶もみとヨ聞くが
沙汰もないのにゃヨーイ もみに来た
お茶がなけらにゃ腰なりと
もんでくだされ今宵のお茶を
・・・