しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

建国記念の日

2023年02月11日 | 城見小・他校

「建国記念の日」は制定(昭和41年)当時も、現在も賛否があるが、
あまり大きな問題になっていないのは「紀元節」時代から現在まで、
生活とのつながりがないからだろうか?

 

父母の時代・・・「紀元節」、重要な学校行事。
管理人の時代・・・「紀元節」も「建国記念の日」もなかった。(平日だった)
子の時代・・・「建国記念の日」、休日。

 

 

・・・・

義母の話


談・2022.2.6
(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。
分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)
紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。
3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。
その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。

 

・・・・

 

「福山市史・下巻」

学校行事の変化

昭和初年までの学校行事は、
入学・卒業式のほか祝祭日・諸記念日(陸海軍記念日など)などが中心であったが、
その後漸次軍国主義的傾向が強まり、柳条溝事件前後からは戦時色あふれる行事がふえている。


まず昭和4年には、
紀元節が第一回の建国祭として祝われ、いままで以上の意味をもたされることになり、
「八紘一宇」のスローガンのもと盛大な祝典が挙げられ、軍国主義教育の出発点となった。
翌5年には教育勅語渙発40年記念式が行われ、
昭和6年には新しい「御真影」が下賜され、各学校でその奉戴式がいっせいに挙行された。
それにともなって、奉安殿の新・改築や国旗掲揚台の新設が行われた学校も少なくない。
いずれも軍国主義教育のシンボルとされたが、
とりわけ「御真影」は重視され、校舎や学籍簿、さらには教員・生徒の命よりも大切に扱われた。

 

・・・・

 

・・・・・


「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

式のために登校した四大節

元旦・紀元節・天長節・明治節が四大節。
国民全員が仕事を休んで祝意を表す日だった。
各学校は登校して祝賀の式をあげ、これを祝った。
授業はなく午前中に帰宅したが、家は祝日とは関係なく、いつもの農作業が待っていた。

式は10時ごろから始まるので、こういう日はたっぷり遊んでから集団登校した。
四大節には共通した式次第があった。
「君が代」の国歌はなぜか必ず二回つづけて斉唱。
御真影の奉拝、
勅語の奉読、
の三つとも厳かに行なわれた。

式場には正面には臨時の仮御殿が設けられ、
奉安殿から移した御真影が安置してあった。
両陛下の写真は、拝礼の間は扉が開いていたので、薄絹のベールを通して拝むことができた。
勅語の奉読が終わり、みんなやれやれの気持ちでほっと息つく間もなく、
校長の長い長い話が始まる。

紀元節

一年でも最も寒さの厳しい頃であった。
校長から神武天皇の話を聞いた。
こういう話は種が一つだから、毎年同じ話の繰り返しになり、
そのうえ話下手ときたからちっとも面白くはなかった、
天皇の日本建国については、大いなる誇りをもつようになった。
天皇の東征についても、本当にあった話として受けとめた。

・・・・・

 

 

 

・・・・

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行

子供の愛国心   有吉佐和子

紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。
前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。
日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。

二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。
紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。
「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。
日本人は世界第一級の国民なのだ。
日本は一等国なのだ。
皆さんは、それに恥じることのない立派な日本人になる義務を持っている」
光輝ある二千六百年の歴史を講義したあとで、校長先生はすっかり興奮していた。
先生はツバを飛ばしながら,一等国民である私たちを激励したのであった。

 

・・・・

 

・・・・

撮影日・2020年11月30日  (笠岡市高島)

 

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櫓歌(茂平)

2023年02月11日 | 民謡

管理人の家に農船があった。三軒で一つの船を共有していた。

その船は、

島から島へではなく

本土から島へでもなく

本土から本土(茂平から茂平)へ、農作物を積んで運搬していた。

 

ギッチラ ギッチラと櫓を漕いでいたが、唄はなかった。

 

(昭和42年3月 茂平)

 

 

 

・・・・・・・・・・・

茂平に農船の唄がないので、代わりに広島県の農船の歌を載せる。

・・・・・・・・・・・

 

 

広島県「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行


櫓歌


「櫓歌」の農家の歌である。
瀬戸内海では大小の島々には田圃や蜜柑畑が開かれていて、
それらの所有主である農家では、その島とは違った別の個所で生活しているため、
田畑の世話をするのに伝馬船を漕いで往復しなければならないからである。

 

豊田郡東野町

ヤーレ押せ押せ 船頭も水主もヨーイ
うたひのぼらぬノーヤレこの瀬戸はヨヤッサノノマカセ


豊田郡豊町


蜜柑船なら急いでのぼれ
明日は蜜柑の値が下がる

 

・・・・

 

 

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櫓歌

2023年02月10日 | 民謡

 

櫓を漕ぐ唄には、海の香りがする。

手拭を、鉢巻か、ほおかぶりに頭に巻いた姿。
顔には、海に生きる厳しさが漂っていた。

 

 

 

・・・

「瀬戸内の民俗史」 沖浦和光  岩波新書 1998年発行


1946年にスペインのマドリード市の歴史アカデミアの書庫で、
ルイス・フロイスの『日欧文化比較』が自筆のまま発見された。
第一級の貴重な資料である。
34年間も日本に滞在したフロイスは何回か瀬戸内海を航行している。


日本の船は、
「肋骨材と甲板がない」
「布製の帆がない(藁の帆である)」
「漕ぐ必要がある」
「碇は鉄でない(木である)」
「昼だけ航行する(夜間はできない)」
「天気晴朗でないと航行しない」
「水夫はほとんど、いつも歌っている」

・・・

 

・・・

広島県「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行


櫓歌

船を漕ぐ場合を考えると、川と海がある。
川の場合は「船頭歌」とし、海の場合を「櫓歌」とする。
海の場合も、
漁師が漕ぐ時の歌、
農家が漕ぐ時の歌、
物を運ぶ人の歌、がある。

 

尾道市吉和

エー可愛がられて寝た夜もござる ヨードッコイショドッコイショ
泣いて別れた夜もござる
鞆にゃトがない田島にゃタがない
広い尾道にゃハトがないヨー

 

豊田郡大崎町

ヤーレ船頭可愛や音戸の瀬戸はヨーイ
一丈五尺のヨー櫓がヤレしはるヨーイ
わしが山行きゃ山桃ほしや
御手洗沖とおりゃ女郎ほしや

・・・

 

撮影日・2008年4月29日  (広島県大崎上島・木江港)

 

 

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おちょろ船

2023年02月09日 | 民謡

 

この本↓には、港の繁栄の必須条件の一つとして”茶屋”を述べてあるが、
たしかに、古い港町には必ずのように遊廓跡がある。
危険と長旅と男性だけの世界なので、そうゆうことになるのか。
そういえば戦時中にも聯隊のいるところ、従軍慰安婦がいた。何かと共通している。

 

 

 

・・・

「瀬戸内の民俗史」 沖浦和光  岩波新書 1998年発行

おちょろ船

沖乗り航路を突っ走る大型帆船が増えてくると、どうしても芸予諸島の島々に風待ち・潮待ち港が必要になってきた。
海岸沿いをはしる「地乗り」航路は安全だが、日数がかかった。
「沖乗り」を通れば、二倍近く速くなる。
元禄期のころから北前船の数が急増した。
文化年間に御手洗港に波止が完成した。

近世の瀬戸内では、各地から船と人が集まる港の繁栄を維持するうえで、
どうしても必要なのは問屋・茶屋・芝居小屋の三点セットだった。
御手洗で茶屋を置くことが公認されたのは享保年間で、若胡子屋が一番古い。
明和5年(1768)の御手洗の人口は543人のうち94人が遊女だった。

「おちょろ船」は、遊女たちを乗せた小さな舟であった。
小船で物を売っていて、ついでに春をひさいだ。
「おちょろ」の相手は、陸上がりするだけのゼニのない下級の船乗りだった。
遊女屋の「おいらん」とは格が違った。
(明治維新後は「おいらん」と「おちょろ」の区別がしだいになくなり、
女たちの多くは船に乗って商売するようになった)


5人ほどがおちょろ船に乗り、船につくと縄ばしごで全員「顔見世」に上がる。
食事の世話から、洗濯、つくろい物までなんでもやる。
まさに「一夜妻」である。
客があっても無くても、真夜中の12時までは海上にいなければならぬ。
7時間も海上で客待ちせねばならぬのだから過酷な重労働である。

 

・・・

櫓音頭

豊田郡豊町

 

御手洗をヨ素通りすればヨ
あの妓祈るか風変はるヨー

御手洗女郎衆の髪の毛は強い
のぼりくだりの船つなぐ

ちょろは出てゆく鷗は帰る
色の港に灯りはうつる

おちょろ船からあの妓が招く
招きゃ船頭さんの手がゆるむ

 

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

・・・

 

・・・

 

撮影日・2007年7月28日   (広島県 大崎下島・御手洗)

 

 

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備中神楽

2023年02月09日 | 民謡

 

備中神楽は古い芸能にしては、今も盛んに受け継がれている。
日本人の心にしみる芸能に感じる。
大衆性・娯楽性にも優れているのだろう。

 

・・・・・

「流域をたどる歴史・中国四国編」  ぎょうせい  昭和54年発行

備中神楽は「神殿神楽」とともに、
新しい芸能色の濃い「神代神楽(じんだいかぐら)」が大衆に親しまれ、
今日まで備中神楽のすべてを保存してきた。

神殿神楽
「神殿」と呼ぶ舞台がつくられ

神代神楽
大衆性、娯楽性が強い。
素朴さの中に郷土芸能として高いものを伝承している。
創案した西林国橋の功績と考えられる。
国橋は川上郡成羽町の神官で文化文政の頃(1804~1830)当時の卑俗な神楽を憂いて、
記紀などの古典を参酌して、神代神楽の改正や創案をした。
この国橋のつくった備中神楽(神代神楽)が、
現在まで村々で行われている。
神殿神楽のことを荒神神楽ともいい、
普通の備中神楽(神代神楽)と区別する。

一 岩戸開き
1・両神の舞
2・思兼命の舞
3・鈿女命の舞
4・手力男命の舞
5・天照大神の出御


二 国譲り
1・両神の舞
2・大国主命の舞
3・国譲りの掛合い
4・稲背脛命
5・事代主命の舞
6・国譲り
7・鬼退治


三 大蛇(おろち)退治
1・素戔嗚尊の舞
2・嘆きの舞
3・稲田姫との契りの舞
4・松尾命の酒つくり
5・大蛇退治

 

大衆性と芸能性とを十分にそなえていることが、
他地方の神楽に見られない点ではないかと考えられる。

 

・・・・・

 

・・・・


「備中神楽」 山根堅一 岡山文庫  昭和47年発行

備中神楽を今のように、郷土芸能として、民衆のものとしたのは、
文化文政年間に、成羽の神職西林国橋が、
神話劇三編の「神代神楽」を創案して、従来の神楽の中へとり入れてからのことである。


・・・・


神楽探訪」  三村泰臣  南々社  2013年発行


神殿(こうどの)神楽ともいわれ、人気の高い神楽
荒神信仰を基盤にしているので「荒神神楽」ともいわれ、
神殿(こうどの)という仮小屋を設置して行うことから「神殿神楽」ともいわれている。

 

・・・・

 

 

・・・・

鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
荒神神楽


荒神神楽は、近年は備中神楽とも呼ばれている。
成羽などの奥から神楽大夫がきて、
猿田彦の舞・国譲り・天岩戸開き・大蛇退治などを演じた。
町内では三年舞・五年舞・七年舞などのような荒神神楽は、かなり以前から行われなくなっており、
現在では、秋祭りに余興として行われる宮神楽のみになっているようである。

 

・・・・

「矢掛町史・民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

備中神楽

備中神楽を二つ分けると
「式年の太神楽」と例年各神社の宵祭りに行われる「宮神楽」に分けられる。
前者は荒神様を祭る十二支に関し、部落あげての大行事。
宮神楽は、神社の例祭に奉納されて、一年の報恩感謝と五穀豊穣を祈るものである。

昭和20年終戦とともに公式には神楽奉納は禁止された。
備中神楽は再出発した。

 

・・・

 

 

 

撮影日・2019年12月1日  井原市芳井町花滝 「明治ごんぼう村」

 

 

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備中神楽「国譲り」大国主命の舞

2023年02月08日 | 民謡

 

歌舞伎とか神楽は、筋を知ったうえで見ないと、ほぼ「猫に小判」状態になる。
しかし神楽のうち、大国主(だいこくさん)の”福の種まき”だけは万人が楽しめる。
神楽のお面、舞、衣装、太鼓、台詞を楽しみながら、種まきが始まるのを今か今かと待つ時間もいい。

現在は、お祭り以外に地域イベントに備中神楽の出演が多く、
「福の種まき」をいつも楽しみにしている。

 

 

 


・・・

備中神楽「国譲り」大国主命の舞

 

「そも舞い出でし翁は、
この国の主(あるじ)大国主の命なり。
われを祭る輩(ともがら)には福徳幸いを授くるなり。
また手向かうものあるときは、
この打ち出の小槌広鉾両種の威徳をもって打ち固め、
世を安国としずめるなり。」

「いよいよ尊信するとあるならば、
これより中津国のかまど巡りなさばやと存じ候。」

「いそぎようやく清々しき神殿に着いたと覚えたり。
しばらくこの所に鎮座いたし、
十二支五性の産子に、福の種を授けばやと存じ候」

”大国が万宝袋の紐解いて
多くの産子に福を授くる”

「急ぎたまえ。」
「はやしたまえや。」で、
神前へ供えた小餅やみかんなどを、福の種といって、
観衆へ向けてまきちらす。

「まくぞや、まくぞや、福の種をまくぞや。」

太鼓は急調子にはやしたてる。
子どもはもちろん大人まで、
なりふりかまわず騒ぎたて、
神楽場は湧きに湧く。

「福の種をまきたるが故に、
この所にてしばらく休息なさらばやと存じ候。」

 

備中神楽」 山根堅一 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

 

 

撮影日・ 2022年11月27日   井原市青野町

 

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備中神楽「大蛇(おろち)退治」

2023年02月08日 | 民謡


記憶が薄れているが、母方の祖父母の神社で神楽を見にいった。
まだ小学1.2年生の頃で、眠いのを我慢して見ていたが、大きな蛇がでて動き出すと、こわさに我慢できず祖父母宅に戻った。
朝起きて母に聞くと「殺された」という返事だった。

 

 

・・・・


「備中神楽」 山根堅一 岡山文庫  昭和47年発行


大蛇(おろち)退治

大蛇退治は、素戔嗚の尊の「幕掛かり」の舞からはじまる。
”稲田姫大蛇の口をのがれたり
その謀略(たばかり)か酒ぞかしこき”
太鼓は急テンポに力一ぱい高鳴る。
尊は幕へ近づいて大蛇の動静をうかがう。
幕の中では大蛇がピーピーとうなり声をたててうごめく。
尊は幣を投げつけて、さらに幕に近づく。
緊迫感のみなぎる場面である。

大蛇の動きにぱっと飛びすさりざま、
刀を抜き放って、ひとしきり力強く舞った後、幕内へ一時身を隠す。

やがて大蛇は、かま首をふり立てふり立、長い胴をひきずりながら出てくる。
「とうろやとうろ、おおじゃがとうろ・・・」と、
太鼓は力をこめてはやし立てる。
舞台いっぱいにとぐろを巻いてのたうち回り、
やがて酒桶に近寄り、酒を飲み干し、酔いつぶれて、
とぐろをに頭をうずめて寝入ってしまう。

頃合いをはかって尊は大蛇に近づき、
「やい。」と一太刀浴びせかける。
大蛇は驚いて尊へ食いかかり、大立ち回りになる。
間一髪、胴を切りとり、めでたく退治する。

「大蛇を退治して宝剣を得たり。
この剣こそ姉上天皇天照大神にささげ奉らん。」
太鼓「おてがらにて候。」

うれしき舞。
「実にありがたの御ことや。
末の世までも疫神疫払(やくじんやくばらい)、
祇園三社と仰がれ申せば、わが敷島は常盤堅盤(ときわかきわ)の、
松の葉色の変わらぬ御世こそ、めでたかりけれ。」

・・・

 

 

撮影日・2022年5月4日  井原市美星町「中世夢が原」

 

 

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石切り唄

2023年02月07日 | 民謡

 

石切山は良質な石、積み出し港が近い、という条件が必要だったので瀬戸内地方は”石の島”が多かった。

セメントや輸入石材によって市場を狭められた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

「広島県の民」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行


石切り唄

石工は左手にタガネ右手にノミを持って岩塊にいどみ、力をふるって穴をあける。
穴は浅いのは一尺から深いのは一尺二、三尺。
これに火薬を装填する。
穴の直径は六分五厘ときまっていた。
力感あふれる歌である。

 

石工歌

呉市吉浦
吉浦町上地区から良質の花崗岩が出る。ここに石工が集まり定着してしまった。
彼らが仕事に際してうたったのが「石工歌」(いしくうた)である。

可愛がられて寝た夜もござる
泣いた明かした夜もござる

うるめ島には霞がかかる
わたしゃあんたに気がかかる

・・

石堀り歌
安芸郡蒲刈町

 


わたしゃこのごろ 衒妻ばなれ
池の小鮒も水ばなれ

あなた思えば三度の食も
のどにせかれて湯で流す


・・・


矢掛町史  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

「石わり唄」


やれ山はやけてもよーい
山鳥りゃよたたぬよーい

子ほどかわゆきものはないよーい
よいよ よいよ
チンカコン チンカコン

・・・

 

撮影日・2012年5月28日  香川県丸亀市広島

 

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石切り唄(北木島)

2023年02月06日 | 民謡

初めて北木島に行ったのは、高校1年生の夏休み、

中学校の同級生と三人で”楠の浜”にキャンプにいった。

笠岡から北木島の楠港に着いてキャンプ場まで歩いて行って、帰りも楠港から笠岡に帰った。

 

広い北木島の楠しか見なかったが、それでも北木島がいかに栄えているかは、感じることが出来た。

・・・今、楠は限りなく”限界集落”そのものになっている。

 

 

石切り唄は、日本全国ありそうだが(地元優先で)笠岡市北木島をまず記載する。

もっとも笠岡市だけでも北木島・白石島・高島と産地は多い。

以前読んだ本には、福山城の石垣は北木島よりも白石島や高島の方が多いというように記憶している。

 

・・・・


「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

石切り唄

瀬戸内海の島々は花崗岩の産地で、石大工と呼ばれる職人によって支えられてきた。

岡山県では笠岡市の北木島・白石島が石の産地として有名である。

岩盤から石を採るのは大割りといって、

深さ三、四尺から二〇~三〇尺の火薬の穴を岩にあける。

三人の共同作業で行い、

一人がノミを持って少しずつ回す。

あとの二人が交互にゲンノウでそのノミを叩き、穴を開ける。

その穴に火薬をつめて発破で岩を崩す。

この大割り作業のとき歌うのが「打ちつけ」と呼ばれる唄で、

唄の調子が狂うと、穴がよく掘れないし、手許を狂わせると、回し方の手を叩くことになる。

作業も歌も真剣そのものである。

 


・・

大割りにした石を各人がノミとセットと呼ばれる槌で小さく割ったり、石の角を取ったり、

または、矢穴を掘る時に歌うのが「すくい」「小割り節」である。

ノミはすぐにちびて先が丸くなるので、それをハンマーで叩いて尖らせる。

その作業のとき歌うので「ノミとぎり唄」である。

 


また、切り出した石を採石場から波止場まで運び出す時に歌うのが「石追い唄」「石出し音頭」である。

これらの唄を総称して「石屋節」ともいう。

 

笠岡市北木島町

「打ちつけ」

北木よい所 大石の出所

うとうて聞かしょか 石屋節


うちの殿御の石切る音は

三里聞こえて二里ひびく


朝は朝星 又夜は夜星

鳴は石屋の槌の音

 

「すくい」

石を買うなら北木の大石を

色が白うて肌が良い

嫁に行くなら石屋の嫁に

右も左も金ばかり

 


「石追い音頭」

ヤレー追うたり ソーラ追うたり

もう一つ追うたり ソーラ追うたり

 


「ノミとぎり唄」

思い直してまた来てヨーアー

枯れ木にゃ二度止まる

 

研いでも研いでも 地が鉄なれば

折り節ゃ地金の錆が出る

 

・・・・・

・・・・・・・

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行


北木島石切唄ほか  岡本利夫

山が高うて あの娘が見えぬー

あの娘可愛やー 山憎くやー

ここで唄とたらー 聞こよか見よか

可愛いーあの娘の膝もとえー

 

・・・
石切唄は、民謡ではない!

重労働歌である。

朝星の残る頃山に登り、

夜星がキラめく頃に仕事を終えて山を降りる。

その間、

思いノミと重い鎚で固い岩盤に挑む苦しさ!!

黙っていたら呼吸がつまる、何かを叫ばねば胸が裂けそう!

そこから発する声!

それが、「石切り」の唄である。

・・・


朝は朝星 夜は又夜星

鳴るは 石屋の鎚の音

 


石山の家は、家ではない、掘立小屋だ。

石屋節は、全国各地でも唄っていたが、

格調のある唄ではなく、口から出まかせに唄っていた。

 


石が素直に割れるようになると、途端に待遇がよくなる。

一日四回食(朝5.6時、10時、午後3時、午後5.6時)、まばゆい程に光る「銀めし」だ。

熱々の飯が、腹いっぱい食べられる。

石工になった喜びが込み上げてくる。

しみじみと、石工になってよかったと思うのである。

石屋すりゃこそ 米の飯喰うがヨ

親方はボロ着て 麦を喰わようー

 

・・・・

 


北木島石切唄  (北木島石切唄保存会)


大割石切唄

一、

浪速名物 大阪城も

北木で運んだ 石でもつ

二、

嫁に行くなら 石屋の嫁に

右も左も 金ばかり

三、

山が高うて あの娘が見えぬ

あの娘 可愛や 山憎くや

四、

石屋すりゃこそ 米の飯 喰うが

親はボロ着で 麦を喰わよう

五、

ここで唄とたら 聞こえようか 見よか

可愛いあの娘の 膝もとえ

・・・

小割石切唄

一、

北木日本一 大石 出どこ

きいておくれよ 石や節

二、

朝は朝星 又夜は 夜星

鳴は石やの 鎚の音

 


三、

うちの殿ごの石切る 音は

三里聞こえて 二里ひびく

四、

一度来なされ 北木の 島へ

石と 魚の 宝島

五、

山は宝石 沖きや鯛 の群

黄金吹き寄す 北木島

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

 

 

 

撮影日・2018.10.25  (笠岡市北木島町)

 

 

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節分

2023年02月03日 | 暮らし

子どもの頃、
父が枡を手にして炒った大豆を投げていた。
「鬼は外」の豆は、庭(カド)に投げる。
「福は内」の豆は、畳の間に投げる。
畳の豆は拾って食べていたが、カドに投げた豆はそのままだった。
縁起物なので楽しく食べていた。

 

”恵方巻き”という言葉は、十数年前に初めて知った。
↓「鴨方町史」「岡山県史」にも、一文字もないので、
平成時代になって始まったものだろう。

 

神社・寺院の行事ではなかったが、いつのまにか寺社になったことも不思議だ。

 

・・・


「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行


節分

立春の前日を節分と呼ぶのが通例である。
正月と同じように、
立春を年の初めと考えるところから、
大晦日と節分には混交した感覚が多い。

笠岡市真鍋島では大晦日にも節分にも豆を撒く。
寄島町では節分に豆を撒いてから麦藁舟を海に流すという。
この日は婚礼が多い。
節分に来た嫁は、福の神だといって喜ばれるからである。
総社市や芳井町では豆撒きをしないという。

節分に麦飯を食う習わしは県内のほとんど全域にある。
節分には麦の豊作を祈る儀礼に重点が置かれたのである。

 

・・・・

「鴨方町史」 鴨方町 昭和60年発行

節分

二月の節分には、大豆を炒ってイリ豆を作り、
一升枡に入れて年神様にお供えしておく。
それを一家の主人が夜、
「鬼は外、福は内」といってまく。
子供たちが拾って食べる。
豆まきをしない家も多い。

 

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「矢掛町史 民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行


豆まきはいつごろしましたか。

そうじゃなあ。二月四日頃じゃなあ。
節分にゃあ、豆まきをしょうたなあ。



三月三日は。

桃の節供ゆうてなぁ。
四日に「ヒナアラシ」じゃゆうてなぁ。
初びなの家で、近所の子供をよんだりしとりました。
今ごろはしゃあしましぇん。

 

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2023年2月3日、尾道の西國寺の節分豆まきに行った。

とにかく拾うのは楽しい。

 

 

 

 

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尾道ついでの寺社めぐり。

 

 

千光寺。

 

 

 

国宝が多い「浄土寺」。

 

 

この後、温泉にはいって笠岡に帰った。

 

来年は、福山の艮神社か倉敷の阿智神社の豆まきに行こう。

 

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追記・2023.2.4

 

中国新聞(2023.2.4)の写真記事

 

 

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コメント
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