戦前・戦後の日本経済を担っていた炭坑会社は、
昭和35年政府の貿易自由化方針により、
安価な石油や、安くて良質な海外炭に押され
昭和30年代後半から昭和40年代全般に次々と閉山していった。
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「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行
「黒ダイヤ」の悲劇
炭坑のガス爆発や落盤事故が続いた。
体育館には煤けた炭坑マンの遺体が累々と並べられた。
56年の北炭や59年の三井三池探鉱の事故では何百人もの命が失われた。
閉山が相次いた。
平成2年夕張炭鉱の閉山で、日本の炭鉱はすべて終わった。
(福岡県田川市 2017.2.14)
(福岡県田川市 2017.2.14)
(文部省推薦映画「にあんちゃん」、城見小学校の講堂で生徒全員が見た)
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「昭和の消えた仕事図鑑」 澤宮優 原書房 2016年発行
炭鉱夫
石炭の採掘が本格化したのは明治時代になってからである。
政府の官営事業となってからは監獄の囚人に採掘を行なわせた。
後に払い下げ後は、一般の人から炭鉱夫を雇うようになった。
労働条件は厳しく、
褌一枚で地下を掘り続けなければならず、
女性も半裸で働いていた。
戦時中は中国などから炭鉱夫が徴用されたこともあった。
炭鉱夫は「斜坑人車」というリフトに乗って地下300mほどの採掘現場(切羽)に向かう。
仕事は主に「掘進」と「採炭」に分けられ、
新人は、真っ暗な地下壕で恐怖に縮みあがることもあった。
ヘルメットに付けたキャップランプが頼りである。
「掘進」は採掘現場までの坑道を掘る仕事で、
「先山」と呼ばれる熟練工が、
「後山」という経験の浅い人を三人から五人使って、仕事を進める。
火薬で岩を崩し、崩れた岩を先山が運びやすいように小さく砕く。
後山がこれらをトロッコで運ぶ。
岩を運ぶと、天井が崩れ落ちないように板や木で枠組みをする。
「採炭」は、トロッコを坑道の出口まで運んだ。
このようにして一日に三メートルを掘り進めていた。
「採炭」の仕事は、炭鉱夫にとっては花形で、給料もよかった。
彼らの仕事は一日三交代の一週間交代で繰り返された。
現場は地下深いため通風も悪く、暑くなった。
炭鉱で働くことは危険な仕事であったが、
それだけに彼らは同胞意識も強く、炭住に住み、家族同士の付き合いも密だった。
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炭鉱夫の哀話
炭坑労働は過酷で、たびたび炭塵爆発などが起こっている。
三井三池炭鉱は、昭和初期まで囚人労働が主で、女性の鉱夫、朝鮮人労働者もいた。
とくに与論島から来た人たちは厳しい労働条件で差別されていた。
日本の炭鉱には、近代化の負の歴史が多く隠されている。
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昭和50年当時、上司は福岡県田川市出身の方だったが、
「政府が再就職の斡旋をし、
石炭産業から石油関連会社に(職も土地も)移動した人が多い」
という話をしていた。
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福島県郡山市のトンネル工事現場での安全講習会でのこと、
「地下何百mの炭鉱で穴を掘っていた」という作業員がいた。
その人は、強い口調で自負心から、さまざまな提言があった。
かつて日本の基幹産業の一端を支えていたというプライドを感じた。
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