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音楽誌「ERIS」創刊について高橋健太郎氏と竹場元彦氏の論争のまとめ>
音楽誌を巡る論争というよりも「現場」に対するスタンスを巡る言い合いとして読んだ。読んだけど、途中でわけがわからなくなってしまった。どう読んでも噛み合っていないからだ。
しかし、だからといって「いつもの、ロキノンの自分語りでしょ?」で切り捨ててしまうのはあまりにも乱暴すぎると思うのだ。
竹場さんの書く(そして健太郎氏が皮肉を込めていう)「昔話」は、昔話であったとしても、それが確かに有効だった時代があったわけで。いや、もしかしたら今でも(こそ)有効かもしれないわけで。それは昔話として切り捨ててしまっていいものかどうかとも思う。
そもそも竹場さんは「ロキノン」や「自分語り」の時代の人ではない。
ロッキング・オンがロキノンになり、「自分語り」がその代名詞になったのは、それこそ「現場」のリアリティを失ったからに他ならない。自分語りの性質の悪いところは、対象や音楽を通して主観(自分)を語るならまだしも、いつもの間にか対象の代弁者になってしまうことであって、その代弁者が対象を追い越したときに、小山田圭吾のいじめ武勇伝発言を引き出したり(雑談インタビュで虎の衣を借るパターン)、ベンジーとその一派に襲撃を受けたりする(さらに虎の尾を踏むパターン)のだと思う。まあ音楽系(…に限らすスポーツでも露骨だけれども)ライターやカメラマン及び周辺の業界人にとって、所謂番記者、番カメラマン、スポークスマンになることが業界での立場を作る手っ取り早い手段なのだろうけれども、ロキノンの自分語りは「それが現場のリアリティ」だと言わんばかりに露骨に、派手にやり過ぎた。
ま、そんな自分語り批判はともかく。
ツイートの拙さもあってまったく噛み合わない発言の応酬の最後に竹場さんが、
<Misao Redwolfよ、知っているのか?>
と、この一連の論争で最後のツイートを書く。ここで反原連を持ち出すのはいかにも唐突なのだけれども(そしてかつてのROらしい)、これで竹場さんが言いたかったのであろう「リアリティ」が明らかになったような気がした。ツイート内容についてはとても丸々了承できるようなものではないけれども、これは別に原稿内容云々、ライター云々のいちゃもんではなくて(別にライターに自分語りさせろというわけではなくて)、現場感の欠如を指摘したいんだろうと思った。
それは「評論家の書いた文章よりもリスナー(当事者)の文章の方がリアリティがある」というRO創刊当初のコンセプトじゃないかと思う。
まあ「ERIS」の編集方針については「やりたいことをやるだけ」と言う通りだとは思うけれども。
雑誌は編集長のものなんだから。
あと「自分語り」の原点は、やっぱし松村雄策先生だろう。おそらく渋谷陽一はそれ――評論家よりもリアリティのあるリスナー(当事者)の文章――を松村さんの文章に托していたんだろうし。ただし松村さんのは芸の域に達していたと思うけれども。
(追記10月9日)
リアリティが争点にすらならなかったのは行動に対する健太郎さんの消費者的態度、竹場さんの当事者的態度の違いでもあるんじゃないかなあ。と適当に書いてみる。音楽というより原発を巡る態度か。
あと篠原章さんの労作「日本ロック雑誌クロニクル」(太田出版)を再読し、「原点」は松村さんに加えて理論的支柱の岩谷宏さんだと再確認。