徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

東京ロッカーズ、その時代/2009年2月号

2012-01-30 05:46:11 | お仕事プレイバック
 歴史はブームの積み重ねである。そして、そのブームの度に「時代は変わる」。特にポップ・ミュージックの世界は常にブームの繰り返しであったといえる。しかしポップ・ミュージック史に残るような仕事(ブーム)をなし得たミュージシャンは数えるほどで、ブームでさえ2年、3年も続くものは数少ない。史上に残る多くの“革命”は1年、短いもので数ヶ月で起こっている。それはおそらく海外でも変わらないことだろう。
 ビートルズの登場以降、わずか10年ほどの歴史しか持たない“ロック”というポップ・ミュージック革命は、70年代初頭のニューヨーク、そして中頃のイギリスで起こったパンク・ムーブメント、ニューウエイブという形で再び大変動を起こした。音楽に、鑑賞音楽以上の意味合いを持たせた“ロック”の存在意義そのものがポップ・ミュージックの永久革命を指していたのだから、わずか10年程度であっても、過去の遺物は否定されてしまうのは、また当然なのだ。
 日本にも同じような、小さなブームが起こった。それを「東京ロッカーズ」と呼ぶ。グループ・サウンズという日本のロック創世記を経て、70年代前半の日本のロックは極めてアンダー・グラウンドなものだった。歌謡曲が黄金時代を迎え、60年代末のフォーク・ソングが時代を経てポップスとして、ビジネスとして成立した時代である。そんな時代に永久革命を続ける“ロック”が日本のオーバー・グラウンドで受け入れられるわけがない。日本のロックは地下に潜り、海外の「革命」にビビッドに反応しながら小さな爆発を繰り返すしかなかった。
 そして、その爆発のひとつが1978年に東京・下北沢などのエリアで行われていたライブ・シリーズ「東京ロッカーズ」だった。70年代前半から活動を続けていたモモヨ率いる紅蜥蜴(後のリザード)、フリクション、ミスター・カイト、ミラーズ、S-KENたちによるその活動は、2008年秋に劇場公開されたドキュメント『ROCKERS』で21世紀に甦った。監督の津島秀明(94年に急逝)が78年当時に「東京ロッカーズ」のライブを撮影した貴重なフィルムは、今も生々しい日本のロックの記憶である。
 とはいえ、その記憶が数多くのロック・ファンと共有できるものなのかといえば、それは残念ながらアンダー・グラウンドでの活動ゆえに、多くの共感を呼ぶとは言えないのは確かだ。しかし連綿と続く、日本のロック史の中で忘れてはならない歴史的瞬間であったことも、また確かなのである。
「でも、集合体なんてどこにもなかったよ」
 東京ロッカーズという“ブーム”の中心人物のひとりであったモモヨはそう言う。東京ロッカーズとは、あくまでもメジャー、つまり歌謡曲では収まりきれなかった、本格的な日本のロック勃興期に相次いで登場したバンドたちを象徴する言葉にすぎない。東京ロッカーズの時代を前後して、メジャー・シーンでも日本のロックが語られるようになる。
 日本のロック史を辿っていくと、ロックというものが一部の富裕層の子弟のものだった側面があることに改めて気づかされる。60年代から70年代にかけて、エレキ・ギターは高価なおもちゃであり、ほんの数年前までは手にしているだけで不良扱いされるような代物だった。70年代末の日本のロック革命とは、一般層にまでエレキ楽器が普及したことと、どこか関係があるのではないか。やはり、70年代末の東京ロッカーズの時代は、日本のロック史にとって何かが変わり、何かが始まる時期だったような気がしてならない。

--今回のコンプリート・ワークス(コンプリートBOX『ブック・オブ・チェンジズ コンプリート・ワークス・オブ・リザード』)はどういうきっかけでスタートしたんですか。
モモヨ 自分がやっていることは所謂、一般的なロックではないことに気がついた。それは何なのか、ずっと考えていた。また全集を作ろうという気持ちもあった。忘れていることもあるし(笑)自分がやってきた仕事なのにやっていないと思い込んでいて今更ながら取り組むこともあったんです。
--気づかずにと(笑)。
モモヨ 私は昔の人間なんで、ビートルズやストーンズと一緒で、同じものを出したくない。変化を常に求めてきたバンド、ミュージシャンなんですね。そうであるが故にモモヨやリザードというものに対し世間が持っているイメージが違っているし、自分も違っている。その正体は何なのかと思ったのが製作意図。これを作らないと曰く言いがたしで終わってしまうものなので(笑)。
--70年代前半から現在に至るまで活動しているにも関わらず、やはり一般的には70年代後半の東京ロッカーズのイメージが強いですね。
モモヨ まあそうですね、基本的には。特に若い子たちにはネットの功罪もあると思うんですけど、東京ロッカーズという「バンド」を率いていたという記述もたまにあるんですよ。それは今の文字文化の怖いところかな。

--今回は昔の話もお伺いしたいと思っているんですが、モモヨさんの音楽的な原点というとドアーズになりますか?
モモヨ ドノヴァンとかドアーズでしょうね。詩を大事にしていたアーティストですね。あとはシド・バレッドのいた頃のピンク・フロイド、ケヴィン・エアーズがいた頃のソフト・マシーン……。
--その辺りはリアルタイムですね。
モモヨ そうですね。当時は国内盤として日本に入ってくるのは1年遅かったんですよ。船便で半年以上遅れて、飛行機便で一ヶ月以上遅れて入ってくる。飛行機便の場合は予約しなければいけないとか、いろいろ面倒なことがあって(笑)。それでも僕は東京に住んでいたから銀座のヤマハで手に入りましたけれど。当時は中村とうようさんの『ニュー・ミュージック・マガジン』が創刊されたばかりで、銀座のヤマハで中村さんと福田一郎さんの解説で新譜視聴会が開かれていたんですよ。客は50人ぐらいしか入らないんですが、その中のひとりでした(笑)。

--モモヨさんは高校時代からバンド活動を始めていますね。
モモヨ 自分は音楽をやるつもりはなかったんですけどね。17歳のときに「日本語のロックを考える会」みたいなところへ行ったら、ある日誰かが楽器を持ってきて、日本語のロックを作るんだとか言って、急にベースを渡されて弾かされたというのが人前で初めて弾いた経験でしたね。その時のヴォーカルが灰野敬二で(笑)。(中略)私は結構秘密結社を作るのが好きで(笑)、結社を作ってアパートとかを借りていると灰野君が泊まりに来るわけです。家賃3000円の3畳間で何もついていないところが結構あったんです。
--そういう方々との接点というのはどこにあったんですか。
モモヨ それは先ほどの新譜視聴会のようなところや、当時行われ始めた100円コンサートのようなところですね。最初は参加者も少ないですから、そこに来ているのはみんな同じ奴なわけです。
--なるほど。日本のロックの始まりですね。
モモヨ 私は当時、16、17歳でしたから一番子供でやたらに可愛がられた記憶はありますね。

--もともとモモヨさんは『現代詩手帖』に投稿されたりして、どちらかというと「ことば」の人だったわけですよね?
モモヨ 興味はありましたね。ただ音楽をやれるとは思わなかったし、日本にロックはなかったしさ(笑)。でも高校(早稲田大学高等学院)を辞めたときには音楽(ロック)と詩を合わせていくんだという気持ちでいましたけどね。現代詩をやっていくと煮詰まっていくわけですよ。それで、例えば萩原朔太郎も晩年、前橋でマンドリン・クラブを作っているんですよ。自分たちの現代詩も歌われるべきではないのかということを唱えたんですね。私の母も前橋出身で、前橋に行くと朔太郎記念館があったりして、私にとってはたぶんその影響も大きいんじゃないかな。
--70年代前半というと高田渡さんのようにブルーズのメロディを使って日本の現代詩を歌うというシンガーもいましたね。
モモヨ そうですね。そういう試みは多くありましたけど、私が好きだったのは……高校がフランス語をやるんですよ。だからフランス語だけ異様に発達していて、19世紀末の象徴主義文学とかにのめり込んでいたところがあるんですね。今でいえば澁澤龍彦ですね。そういう……要は理屈が多かったんですね(笑)。
--なるほど(笑)。
モモヨ 18、19歳の頃に当時東芝の石坂(敬一)さんからアンファンテリブル(恐るべき子供たち)的な扱いをされてたりね(笑)。

--74年(昭和49年)に開かれた郡山のワンステップフェスティバルには参加しているんですか?
モモヨ 前哨戦でやった日劇のコンサートには出ています。日劇で何日かやってから郡山へ行っているんですね。「日劇ロックカーニバル」と言ったかな……ワンステップの本番の時には、仙台のディスコでハコバンをやっていました(笑)。何かあったら呼ぶから近所にいろ、みたいな感じだったと思うんですけど(笑)。
--あのフェスティバルは日本のロックのひとつの出発点ともいえるんじゃないかと思うんですが?
モモヨ うーん、でも自分の個人的な歴史の場所が違うからね。俺が思うのは、例えばビートルズのファンクラブが主催して、「マジカル・ミステリー・ツアー」を映写して、遠藤賢司とバレンタイン・ブルーと一緒にやったんだけど、そこで日本語とロックの可能性を初めて感じましたね。だから実際に日本のロックが始まったといえるのは裕也さんがやっていた100円コンサートの時代からじゃないかな。
--ワンステップは60年代から70年代前半までに登場していたバンドが総結集したという印象ですね。
モモヨ そうですね。一区切りという印象はありますね。あのフェスティバルで人気が出たバンドもいたけれど、その2、3年後には止めたし。
--だからこそ数年後ではありますけれど、東京ロッカーズの動きというのは新しい時代を感じますね。
モモヨ いや、本当は止めようと思ったいた時代なんですよ(笑)。区切りつけようか、と。PANTAと一緒に京都へ行ったりして、それで人気が出て「あれ?」という感じ。
--思いがけない事態に?
モモヨ でしたよ。でも面白かったですよ。京都で紅蜥蜴の人気が出て、呼ばれるんですけど、「じゃあ今度は東京に変なバンドがいるから一緒に連れて行く」と。
--一連の東京ロッカーズのツアーは、実際には紅蜥蜴(リザード)プラスαだったという話ですね。
モモヨ 最初は特にね。名前もなかったしね(笑)。あの当時、一番の意識の革新は、レコードって自分たちでは作れないと思っていたのが、あの辺から「(メジャーの)レコード会社でレコードを作るよりも自分たちで作った方がいい」という風に変わって行ったことですね。
--所謂インディーズですね。東京ロッカーズを受けて、80年代はまさにそういう時代になりましたね。
モモヨ レコード会社神話が崩れたんです。
--ただモモヨさんとリザードの活動は80年代にかけてどんどん収束していってしまいますね。
モモヨ たぶん一番精力を傾けたのはシステムの解体だったと思いますよ(笑)。
--本当に時代の狭間だったんだなと感じますね。モモヨさんや東京ロッカーズのムーブメントの功績というのは、音楽性はもとより、そういうシステムの革新だったと思います。
モモヨ そのままでいるということに興味をなくすんですよ。
(LB中洲通信2009年2月号~4月号 「東京ロッカーズ、その時代」)
※一部加筆・修正

アングル

2012-01-30 05:04:20 | お仕事プレイバック
HDを整理していたら出てきた画像。
2006年3月に初台の東京オペラシティコンサートホールで行われた本田竹広追悼コンサート。
撮影当時、なぜかいくつかのジャズ専門誌や新聞に提供したのだけれども、1点のみの掲載ならともかく、せっかく複数点を掲載した雑誌もまったく同じようなアングルの画像を並べていたのが不思議だったなァ…まあ編集部としては「記録」程度の意識だったんだろうけど。もったいないので載せる。










「ひとり」にさせないということ/TwitNoNukes#8(1.29)

2012-01-29 20:16:23 | News


今年最初のTwitterデモ。12月の前回から何だかずいぶん間が開いたような気もしたのだけれども(実際はそんなに開いているわけでもないのだが)、東電前(プチデモ)、経産省、九電前抗議など今月もいろいろとあった。月の最後に個人的にはホームとも言えるTwitNoNukesのデモがあるのは悪くない。
オレが入ったのは第二集団の前方。今回は何が素晴らしかったって言ったらほとんどトラメガのリードがなかったことに尽きる。いや、実際は小さなトラメガのリードは時折入っていたのだけれども、途中からはあってもなくても関係ない感じで集団のあちこちからコールが起こった。そしてコールはほぼ「原発いらない」だけで通した。

スタートしてすぐ、別に探したわけではないのだけれども、たまたまベビーカーを押している例の「子連れのお父さん」を見つけた。「子連れのお父さん」はとにかく「原発いらない」しかコールしない。足で力強くリズムを刻みながら、トラメガのリードにはまったく関係なく「原発いらない」だけをコールしていた。
声を挙げ続ける人をひとりにしちゃいけない。
トラメガにしても肉声にしても、コールを繋げなければそれだけで声を挙げる人は萎えてしまう。呟きのような小さな声であってもコールが届いて、繋がっていればコーラーは声は出し続けられる。ということでオレを含めた周囲の何人かが同調してデカい声を挙げる。その流れで結局ゴールまでほとんど「原発いらない」しかコールしなかったように思う。

基本の四列縦隊もかなり緩やかな感じになってきていて、車線さえまたがなければそれほど警備から注意を受けることもない。
ぎりぎりまで隊列を拡げ、プラカードを掲げ(るには、今日は風が強すぎたけれども)、声を出すことで集団は実数よりも大きく見える。安全のために小さくまとめたい警備のキモチも少しはわからないでもないが、秀吉の墨俣一夜城ではないけれどもデモはできるだけ大きく見せた方がいい。
白地に大きく、ただ「脱原発」とだけ書かれた、手書き(風)の大旗も何本か出ていたのも素晴らしく、良かったと思う。

今回は浜松、福岡でも同時にTwitNoNukesデモが行われた。地元の静岡、そして長い間仕事で関わっていた博多でこの動きが波及していくのは嬉しいことだ。今後はその他の都市でも開催が予定されているようで、今年は更にTwitNoNukesが全国に拡がって行くことを祈りたいし、勿論できるだけ参加してフォローしていきたいと思う。
「ひとりにしない」というのは、そういうことでもある。

さて、ゴール地点でテレフォンレディ募集のポケットティッシュを受け取った。レディじゃないけれども。



(c)@ruikozuka & @OkanDoZine(http://reiricketts.com/ODZ.html)

こういう「自己表現」は最高w

オレたちは何に怒っているのか?/日隅一雄・木野龍逸「検証 福島原発事故・記者会見」

2012-01-28 18:12:15 | Books


日隅一雄さん@yamebunと木野龍逸さん@kinoryuichiの『検証 福島原発事故・記者会見――東電・政府は何を隠したのか』
原発事故は一方で「事故」として技術論で語られるべきだとは思うわけだが、本書は事故直後から昨年11月までの<記者会見>を通して「人災」のトーンで貫かれている。
技術で語られる原発事故はミスはミスとして指摘し、修正できる部分に関しては修正し、対策を施すことで対応できるならば対応すればいい。原発は所詮は機械でしかない。しかし、事故が起こった場合の影響が甚大で、コントロールさえできない技術は技術といえるのか? もはやそんな技術は信じられない。

技術論で反/脱原発派を牽制しようとする勢力がいるわけだが、正直個人的にはあえて同じ土俵に上がる必要はないと思っている。かつての反原発派の技術者たちはそれでも同じ土俵に上がり、事実と論証を積み上げることによって推進勢力に抗していた。それはとても勇気と体力がいることだし、彼らの行動は本当に尊敬に値する。しかし本当に事故が起こってしまった今、技術論は、もはやそれほど大きな意味は持たない(勿論現状を理解するための「解説」は絶対必要だけれども)。
それでも一部の思想家や経済人などは「人類の叡智」などという言葉を使って技術冒険主義を主張するわけだが、誰がそんなものに賛同できるというのか。

オレは何を怒っているのか。
自然災害ならば諦めもつく。それによって起きた事故「だけ」ならばそれなりに納得もする。しかし、それが拡大し続ける「人災」だから怒っているのだ、としか言いようがない。事故の原因が人間だから怖いし、怒りもするのだ。
本書にも収録されているSPEEDIの一件にしても、そして昨日報道によって判明(リーク?)した原子力災害対策本部や緊急災害対策本部など、東日本大震災関連会議の議事録「隠し」にしても、3.11の原発災害は単なる事故ではなく、「人災」であることを明らかにしている。

『検証 福島原発事故・記者会見』は今後も書き足され、書き継がれていくべき本だ。議事録「隠し」は本書に収録されていれば優に1章は必要な重大な「人災」である。事故は何も終わってはいないし、このまま放置しておけば「人災」は今後も起こり続けることは必至である。
日隅さんと木野さんには今後の活躍と健康を祈りたい。日隅さんには長生きして頂きたい。

そして明日は渋谷で、浜松で、福岡で、心ある人たちと歩き、声を挙げる。
自然災害や事故は止められないかもしれない。でも人災ってのは止められるんだよ。人災なんだから止めようぜ。

1.29反原発デモ@渋谷・原宿
@twitnonukes
日時:2012年1月29日(日) 
集合:13時30分 出発:14時00分 
集合場所:みやしたこうえん

原発いらない浜松デモ 1.29脱原発デモ@浜松
@twitnonukes_hmt
日時:2012年1月29日(日) 
集合:13時30分 出発:14時00分 
集合場所:アクト通り「東ふれあい公園」

WE ARE NO NUKES !!!『全原発停止 原発は必要ありませんでした from 九州
@twitnonukes9syu
日時:2012年1月29日(日) 
集合:13時30分 出発:14時00分
集合場所:福岡 天神 警固公園



今しかないぜ/TAIJI at THE BONNET『ROCK STAR WARS』

2012-01-28 15:32:01 | Music
タイジの新ユニット、TAIJI at THE BONNETの『ROCK STAR WARS』到着。
当然といえば当然なのだけれどもTHEATRE BROOK本体というよりも、タイジのソロの延長線上にあることがはっきりとわかる。ということで、『The Divorced Rockstar』ほど超個人的な内容ではないにしても、2011年という激動の時間がタイジの個人的な思いと共に刻まれる。THEATRE BROOKのタイトさはないものの、ラフな雰囲気を残しつつタイジの言葉とうつみようこ姐さんの声でバンドの輪郭がくっきりとしてくる。

<吠えるなら、闘うなら、今しかないぜ>
3.11に集結し、2011年を走り続けてきたバンドが叫ぶのは「今」しかない。
完成度よりもライブ感=今というのもむべなるかな、と思うのである。



2012年のそらそれ

2012-01-22 17:40:02 | Works
昨夕は、いま編集としてちと参加している「ニッポンの歌(仮)」の取材で、6年ぶりに南流石さんと会う。
企画は基本的にランキング本なのだけれども、南さんが選ぶ「ニッポンの歌」なんだからそれは当然、紛れなしで、JAGATARAの楽曲ばかりなのだけれども、編集方針としてはそれもアリということなので取材を受けていただいた。
一昨年がアケミが亡くなって丁度20年。そして昨年は3.11が起こった。どうしたってランキングも2011年を意識しないわけにはいかない。そして2011年は特にJAGATARAとアケミの言葉が思い浮かぶ年になった。
命日まであと一週間ほどということで、取材なのか、思い出を語り合っているのかよくわからないインタビューになってしまったが、1時間予定が2時間近く話し込んでしまうほど楽しい時間でした。

オレも当然JAGATARAの歌はリストの中に入れる予定なのだけれども、歌モノとしてはやっぱし「もうがまんできない」か「都市生活者の夜」か…。ファンの間のナンバー1は、荒削りでも日本のオルタナティブに燦然と輝く「南蛮渡来」の楽曲(「クニナマシェ」「BABY」「タンゴ」あたり?)なのだろうけれども、「都市生活者の夜」が収録されている「ニセ予言者ども」のサウンドプロダクションは、あの時代を考えればかなりハイクオリティだと思うんだがなあ。特に「都市生活者の夜」は、この2012年でも歌としても、言葉としても、サウンドとしても、まったく古びてないし、風化していないと思う。改めて。

ということで、南さんが担当している氷川きよし君に「そらそれ」あたりを歌ってくれないかなァ…と思った。「都市生活者の夜」は無理としても。
2012年にはぴったりな言葉(歌詞)だぜ。






溜飲を下げる人たち

2012-01-22 12:18:30 | News
社民党本部が入るビルの玄関に右翼の男が車で何度も突入をかけたそうだ。
まだ理由はわかっていない。怖いことだし、卑劣な行為だと思うけれども、このことで正直溜飲を下げる人たちは少なくないだろうと思う。
溜飲を下げる人たちというのは、社民党の党首である福島瑞穂も呼びかけている、脱原発をめざす女たちの会による福島への「バスツアー」に反発している人たちあたり、か。3月11日に郡山市開成山球場で開かれる集会自体は県民集会で、決して脱原発をめざす女たちの会が企画したものではないのだが、どうやら「ツアー」という言葉が、集会やデモを「お祭り騒ぎ」としか思わない人たちの反発を呼んだ。
ネットで福島さんや社民党を叩き続ける行為というのは、考え方が異なる者への牽制とつまらないストレス解消という意味では、社民党本部に車を突入させた男の行為と大して変わりはない。

3.11は追悼の日だと言う人たちがいる。一方で3.11は告発の日だと呼びかける人たちがいる。
追悼はあくまでも個人個人の意識の問題である。また「追悼」をどのような形で表現しようとも、まあ、それも個人の自由だとしか言いようがない。
フクシマがいまだ現在進行形で、日々選択を迫り続けている中で、一日中、鎮魂を祈るだけで嵐が通り過ぎるとはとても思えない。
3月11日午後2時46分を除いて、オレは後者でありたいと思う。

正しくスピーディー/1.18経産省前抗議

2012-01-19 14:26:31 | News

昨夜、関西電力の大飯原発3、4号機のストレステスト(安全評価の1次評価結果)に対し、専門家会議(意見聴取会)が開かれ、あっさりと「妥当」として容認されてしまった。
会議で検討された数字上の妥当性はともかく、客観性(ピアレビュー…)を欠き、恣意的に手心を加えられるテストそのものに意味があるのか。妥当なように設定され、妥当を導くように計算されたテストは、いくら計算したって、いくら審議したってその結果は妥当にしかならないわけだが、果たしてそれは本当に「妥当」と言えるのか。
そもそも業界から金銭を受け取っている専門家に審議させることが妥当なのか。
これでは会議ではなく、政治家と役人と業界による、3.11前と変わらぬ「儀式」としか言いようがない。
会議に参加予定だった専門家のうち、テストに批判的であった後藤政志さんと東大の井野博満さんは一般の傍聴人を会場から排除したことを理由に会議への出席を止めた。このことで会議は完全に「客観」を排除してしまった。これでは、国民はこんな茶番に興味を持つ事自体に厭いてしまう。しかし厭けば厭くほど彼らにとっては都合がいいのは言うまでもない。

会議は傍聴人の抗議によって大幅に遅れていた。
20時を過ぎていたけれども、会議を中継していたIWJを観ていて(聴いていて)「もう行くしかねェ」と思った。体調はまだ戻り切っていないけれども、こういうときはスピーディーに動くのが一番である。Should I Stay or Should I Go.
21時過ぎには経産省前に到着。当日銀座を歩いていたノイホイさんら右からデモの流れやTwit№Nukesの連中は20、30人ほどで固まっていた(あと経産省から出てくる職員ひとりひとりに噛み付いて、フジテレビの中継車にも噛み付き、火の玉のように怒りまくっていた爺さんや、常人とはちょっとテンションが違うカッパの兄さんとか)。
着いた途端にコールが始まったので身体は温まった。寒いときは声を出して温まるのが一番である。
経産省周辺の場所を移動しながら、「ステテコ公聴会」に対する抗議は霞ヶ関の終電近くまで続いた。

昼にはSPEEDI(放射性物質拡散予測システム)について、原子力安全委員会が「スピーディの予測は不確実性が大きく、緊急時の活用は困難」という、まったく意味のわからない見解を発表していた。
多少の「不確実性」があろうとも、そこに危険性があるのならば避難指示を出すのが「緊急時」というのだ。SPEEDIの確実性を上げることよりも、誤指示や避難の拡大といった行政のリスクを避けるためだけに、住民には「確定するまでちょっと我慢していてね」というわけだ。「緊急時」という言葉に対する危機感のなさは明らかじゃないか。
相変わらず、明らか、である。
霞ヶ関では「スピーディー」だとされる双葉町の砕石問題、そして関電、九電のあまりにも「スピーディー」な再稼動への動き、この国の「スピーディー」はさっぱりわけがわからない。

オレたちは正しくスピーディーにやるべきだね。

七回忌/本田竹広 メモリアル・コンサート

2012-01-14 23:39:15 | Music
木曜日。19時からノイホイさん@noiehoieの九電東京支店前抗議に参加。

20時の終了まで参加して新宿のPIT-INNへ。
この日は本田竹広さんの7回忌「本田竹広 メモリアル・コンサート~7回忌を迎えて~」。
ということで前半の国立音大OBビックバンド「マイトシ・ノコリンズ」 は観られなかったのだけれども、後半の板橋文夫セッションには間に合った。久々に尾崎正志さんと梶原まり子さんにご挨拶できた。元マネージャーの田村睦さんにも感謝。

しかし本田珠也は本当に素晴らしいドラマーだと改めて思った次第。


東電の昼休み/1.10東電本店前プチデモ

2012-01-11 15:52:08 | News
昨日は正午から太安萬侶@onoyasumaroさんの東電前抗議を支援。現場につくと2人の支援者とジャーナリストの田中龍作さんがいたのだけれども、太安萬侶さんを探してみるとすでに東電前の歩道で警官に抗議中だった。
東電本店と道路を挟んだいつもの歩道に場所を移すと、10人ほどがプラカード等で太安萬侶さんを囲む。ここから約40分に渡って彼女は「東電」に向かってひとりで語りかけた。途切れることなく、ずっと、である。これはとても覚悟のいることで後ろで聴きながら感動すら覚えた。
昼時ということで東電本店からはひっきりなしに社員やスタッフが出入りする。もちろんこちらの訴えかけに反応は薄い。露骨に避けていく人もいるし、中には薄い視線を送る人もいる。しかしここまで多くの「当事者」を目の当たりにすることはなかっただけにテンションは上がる。テンションは上がるが、もう怒りというよりも、とにかく彼らに届いて欲しいという気持ちしかない。東電の昼休みが終わり、人通りが少なくなった頃、最後のコールがオフィス街に響いた。

あの辺はよく声が響くんだ。通り抜けないで届いて欲しいもんだね。

田舎と日本人/鈴木智彦「ヤクザと原発 福島第一潜入記」

2012-01-08 19:53:45 | Books
鈴木智彦「ヤクザと原発 福島第一潜入記」読了。
まずはタイトルに偽りなし。「原発とヤクザ」ではなく、やはり「ヤクザと原発」である。

つまりこれは「ヤクザと迷惑施設」ではないか。
本文にもあるように原発だからヤクザが絡んでくるのではなく、ヤクザは「迷惑施設」だからこそシノギを求めて入り込んで来る(入り込もうとする)。迷惑施設とは原発、火力・水力発電所のみならず、ダム、ゴミ焼却場、場外馬券(車券)場から墓場まで、人が「迷惑」だと思えば、そこはいつでも「迷惑施設」となる。そして迷惑であればあるほどヤクザが入り込む余地は生まれる。
迷惑は巨大なビジネスになる。
そして本書には「田舎と原発」という側面もある。それも学者が論じるような調査ではなく、クールな現実主義者のコミュニティとしての田舎の生の声。ここに登場する人物は都会でかっこいい反原発デモをしている人間たちではなく、故郷(とコミュニティ)を愛しながらも迷惑施設をビジネスとして受け入れている。

確かに潜入記というサブタイトルはついているものの、実際の現場潜入についての記述のヴォリューム感はそれほどではなく、それよりも現場に潜入するまで、現場周辺の話題に紙面の多くを割いている。それはもちろん世界が注目するシリアスな作業現場であっても、個人の作業自体は単純な肉体労働だったこともあるだろう。そうなるとおのずと働く人々を描かざるを得なくなり、個人を特定するような内容は書き難くなり、このような構成になったのだろうと想像する。ただし抑制気味に感じる部分はあっても、それでも十分面白い。実録物で身体を張ってきた著者ならではの構成と展開で、文章は本当に読みやすい。
水素爆発直後のフクシマ50のエピソード(発言)も含めて原発事故レポートとしても生々しい。

現場の作業で外国人技術者と日本人の軋轢を描くエピソードがある。著者はそれを歓迎するように、好意的に書いているのだけれども、どうしたって最終的には「外圧」が必要な世界(ムラ)なんだろうなと、改めて思った(実際は、登場する「外国製」は何の役にも立たなかったわけだが)。

展開がスピーディで文章も比較的平易で読みやすい本なのでおすすめです。

数の力

2012-01-06 04:15:07 | News
数(マス)というものをそれほど真剣に考えてこなかった人間が、具体的に数を意識するのは無茶なところはあるのだけれども、2012年はこれまで以上に「数」を意識していきたい。
しかし数とはやはり人数なのか。それとも時間の長さなのか。少なくとも現状ではデモや署名は人数でしか評価されない。

「原発住民投票」(東京・大阪)が佳境を迎えている。
今月9日の締め切りが迫っている「大阪市原発市民投票」は、5日現在で署名数36,213筆(必要法定数42,670)と、残り4日であと約6,000筆。また2月9日締め切りとなる東京の原発都民投票は目標数30万筆を目指して活動中であり、大阪の締切日である9日には武蔵野公会堂大ホールで中間報告会が行われる。
政治という数の世界と同じ土俵に上がり、正当なプロセスを踏んで脱原発にシフトしていくにはとても面倒な手続きがあり、時間もかかる。この「原発住民投票」の動きも、この署名活動がクリアされたとしてもまだ条例制定を求める第一歩にしかならない(主要繁華街の署名ポイントならば都民は誰でも署名できるのだけれども、個人の受任者の署名集めには実に面倒な制限がある)。
しかし、それは「数」という同じ土俵で相撲を取るためには必要なことなのだ。

14日・15日にはパシフィコ横浜で「脱原発世界会議」が開催される。期間内にシンポジウム、トークライブ、映画上映などが催され、脱原発のメッセージを発信しようということらしい。同時に14日には横浜市内で首都圏反原発連合も参加するデモンストレーションが行われる。「発信」という意味ではシンポジウムやライブよりも、むしろこちらの方が本編だと思うのだが、これもまたイベントの一部だから仕方がないということか(勿論イベント自体に否定的ってこたないですが)。

数というのは本当に面倒だ。署名やイベントというのは実に手間と時間がかかる。
ということでオレにとっての「数」とは、旧来のデモや署名、イベントの参加者数ような「人数」、もしくはオキュパイのような「時間」の問題ではなく、行動の「回数」ということになる。小規模であっても同時多発、または少人数であっても時間的に途切れることのない行動の継続。Twitterそのものが急激に何かを動かしたり、起こす力になるとはもはや思わないけれども、その「呼びかけ」は回数を稼ぐきっかけにはなる。
その、頻発する「数」はきっとマスコミも無視できないだろうと思う。イベントやオキュパイよりも、頻発という「数」にこそ、なかなかデモれない日本人を巻き込んでいく可能性があるんじゃないか。
渋谷がデモの街になったようにね。

(修正)
誤解を招くといけないので「国民」投票を「住民」投票に修正。中途半端な選択肢について議論を呼んだ「国民投票」については、東京の結果が出次第、稿を改めたい。

2012年の思い出

2012-01-02 04:07:58 | News
天皇杯決勝をテレビで観ていた真っ最中、元日から東京も震度4の地震に揺さぶられた。もちろん自然現象に年末も正月もないわけだけれども、久しぶりに長く、強く揺れた地震だったので軽い二日酔いも醒めた。

2011年の大晦日。
何だかいつもの大晦日のように時間が過ぎていってしまうのは違うような気がしてきたので、23時頃に部屋を出て、2011年の<ニュースの現場>に向かった。今年も、そしてこれからもニュースの現場であり続けるのだろうけれども。
あまりにもいろんなことが起こってしまった2011年が終わる前に<現場>に着き、また激動になるであろう2012年に年が改まった瞬間に、ひとりで何度もコールをした。数人の警備員さんと警察のバス以外いない、深夜のオフィス街に声がよく響く。連れは「気持ち良さそうだった」と笑っていた。確かに我ながらいい声だと思った。

まあ「おめでとう」とばかり言えない状況だけれども、今年もよろしくお願いします。