渋谷のトランスフォーマーで
あがた森魚さんの取材。
去年の夏に始まった「あがた森魚 惑星漂流60周年!」ツアーから今年2月22日に九段会館で行われた「あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜~惑星漂流60周 in 東京~」までを追ったドキュメンタリー映画『あがた森魚ややデラックス』が10月10日(土)より公開される(渋谷・シアターNでモーニング&レイトショー公開)。
数週間前までは<ドキュメンタリーなのに全身フィクション!!>という、“全身小説家”のような宣伝コピーだったのが、いつの間にか<暴走シンガー60歳。全身全霊、迷走中!!>という身も蓋もないコピーに変更されていた。いや、しかし、コピーとしては変更後の方がしっくり来るんだな、これが。
この作品を「タカダワタル的」や「エンケン対日本武道館」と並べて評している文章を見掛けるのだが、そもそもドキュメントとしての出発点、コンセプトがまったく違うので、これは似て非なるもので、意味がない。端的に言ってしまえばこれらは音楽を聴かせるドキュメントであって(アルタミラピクチャーズの桝井プロデューサーの言葉を借りれば「『ラストワルツ』のような音楽ドキュメント」)、『あがた森魚ややデラックス』の場合は、まさに<全身全霊、迷走中!!>のシンガー、あがた森魚の60年目の旅路を描く、文字通りのドキュメントになっているからだ。
まあ、その意味で、確かに全身フィクションの全身アーティストなんだけれども。
全身アーティストが現実に苛立つのは当たり前なんだけれども。
全身全霊で表現に関しては妥協を許さないから暴走する。そしてスタッフは振り回される。旅路の途中でスタッフと口論になったあがたさんが怒鳴る。「邪魔すんなよ!おれの旅だよ、これは」「おれは生声でロックやってんだ!」
一般的な60歳としてどうかは置いておいて、表現こそすべてのアーティストとしてはまったく正しくのだから、あがたさんは正しいのだ。
そして後半、「あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜~惑星漂流60周 in 東京~」では鈴木慶一やはちみつぱい、矢野顕子、緑魔子といった古くからの仲間を迎え、ドキュメントは高揚していく。静かに語りかけるようなラストの北海道での場面とあわせて次の旅への予感を残して、旅の記録はひとまず幕を降ろす。
<私は心の中で「見てろよ!」と言っています。私の兇暴を養っています。それは、自体は何であるのかと問われれば、「二十世紀の少年的ロマンティシズムと、二十世紀の少年的ストイシズムと、二十世紀の少年的ナルシズムの正当性を発露したい!」という兇暴さなのである。>(あがた森魚詩集「モリオ・アガタ1972~1989」エディション・カイエ 1989より)
これはちょうど20年前に書かれたものだけれども、あがたさんは全然変わっていないのであった。
ちなみにこれからの季節、“夏のサウンドトラック”としてあがたさんの監督作品、音楽プロデュースの映画サントラ盤
『港のロキシー』は超オススメであります。