水曜日。ネイキッドロフトで<レイシストをしばき隊presents「夏フェス予習編 ロックと反レイシズム」>。
「夏フェス予習編」と銘打ちながら夏フェス出演者はほとんど語られず、クリップも流されず、ひたすら70年代から80年代の英ロックシーンがいかにレイシズムと対峙していったのかが語られる。
一説にはあの会場でフジロックへ行く人はクボケンさんだけだったらしい(んなわけないだろうが…)。
その中でもっとも熱く語られたのは「なぜしばき隊にはおっさんが多いのか?」である。
オレも含めてカウンター勢には確かにおっさん(おばさん)が多い。カウンターの中核を担っているのは30代、そして特に40代だと思うのだが、その背景を音楽=ロックから探っていく。ゆえに当然、そして断固トーク前に流されるクリップは1978年4月30日、ヴィクトリアパークで開催されたRock Against Racismでのクラッシュであらねばならない。
イベント内容の詳細はこちら。
2013/7/24@nakedloft レイシストをしばき隊 presents「夏フェス予習編 ロックと反レイシズム」(togetter)
今でこそ「自分語り」と揶揄されるロッキングオンだが、70年代から80年代初頭にかけて「ロックとシリアスに向き合うこと」を伝え続けてきたのがかつてのロッキングオンだった。今時、岩谷宏さんの名前があれほど登場するイベントがあるだろうか。ロックと岩谷宏は読者をその気させていた…というのはちと大げさか(ちなみに中継終了後にはロッキングオフな情けないエピソードが語られたわけだが)。
しかし、「その気」にさせてしまうのが大事なのだ。明確な意思表示、態度表明と行動の喚起。その時、オレたちは当事者になる。
60年代から約10年ほどで急速に巨大化、複雑(多様)化してしまったロックの凶暴な雑食性は、そのままポップミュージックにおけるアンチレイシズムを象徴しているだろう(「音楽」そのものがアンチレイシズムでなければ成り立たない)。そしてそれはRock Against Racism(RAR)誕生のきっかけになったエリック・クラプトンのヘイトスピーチへの返答である「最初のヒット曲がボブ・マーリーのカバーだってのに、そりゃないぜ。認めろよ、エリック、お前の音楽の半分は黒人音楽じゃないか」という言葉に通じる。ロックンロールの爆発力、そしてロックの多様化、多国籍化はレイシズムに対する不同意の宣言でもある。
しかし当然ロックが産業として巨大化してしまうとクラプトンの舌禍のようなヘイトスピーチ事件も起こってしまう。スーパースターとオーディエンスという関係は、スターを肥え太らせ、オーディエンスを傍観者にしてしまう(人間宣言する前のボウイが素晴らしかったのは、その時代、その関係をカリカチュアさせたところにある)。
そんな中、パンクやニューウェーブを中心に、レゲエ、アフロ、そして80年代に勃発したヒップホップ勢はロックンロールを取り戻すと同時に、不同意、異議申し立ての先鋭的なカウンターになる。
ということで「そんな音楽=ロックを聴きながら少年時代を過してきた私たちはなぜカウンターになったのか」ということが4時間以上に渡って語られた。カウンターに40代が多いのは当然というものである。
しかし「そんな音楽=ロック(洋楽)を聴きながら少年時代を過してきた私たち」には、幸か不幸か、それとも幸というべきかリアルタイムで欧米や(当然)南アフリカのような苛烈な状況にはなかった。関西ならまだしも、オレの出身地である静岡には在日問題、被差別問題が語られるような土壌もなかった。
昨夜帰ってきてから2ちゃんねるのしばき隊スレを見ていたら、おそらくネトウヨの揶揄だと思うけれども、こんなレスがあった。
<ロック(ごっこ)と反レイシズム(ごっこ)、ネット配信してるの?>
痛いところを突いてきたと思った。
そして80年代のロッキングオンで、MODSの森やんに対してインタビュアーの渋谷陽一が歌詞について猛烈に突っ込み続けたエピソードを思い出した。どのアルバムだったか、何の楽曲だったのか、詳細は忘れてしまったけれども、東南アジアあたり(スモーキーマウンテンだったかなあ…)を舞台にした歌詞の世界に対して「リアリティがない」と、森やんが気の毒なくらい突っ込みまくっていた。
時代はブルーハーツだったのだ。
当時、ヒロトやマーシーもインタビューでMODSの歌詞を批判気味に引用していた。そこに語るべき「状況」がないのならば等身大の自分を語るのは当然。勿論ブルーハーツは「チェルノブイリ」もリリースした先鋭的なバンドでもあったけれども、メジャーな日本のロックバンドはロックの形を借りたフォークやポップスを量産し続けた。
海の向こうで起こるチェルノブイリも、サンシティも、ネルソン・マンデラも、ベルリンの壁も、LA暴動に対してもリアリティに欠けた<ロックごっこ>的な気分がなかったとは言えない。
しかし幸か不幸か、今度は不幸というべきだろうが、3.11以降の一連の不幸な出来事や新大久保や鶴橋でのレイシストの躍動、右翼政権の躍進はリアリティを持って目の前に現れている。
かつて「ロック」が現実=リアルに対して明確な意思表示と明快な行動を求めていたのならば、今動かなくてどうするのだ。<ロックごっこ>に止まるような、フィクショナルで呑気な状況ではないのだ、と思う。
目の前で起こっていることはノン・フィクションだ。ならば「そんな音楽=ロックを聴きながら少年時代を過してきた私たち」が状況にどう対峙していくべきなのかは明確じゃないか――。
2008年、<この国の政治には、未だにがっかりさせられっぱなしだけど、この国の文化に迷う事はもうない。イギリスは他民族社会であり、そう在り続けるためにも、俺が出来る事は何でもする>。
そして2013年、<街なかで一般市民や近隣店舗に嫌がらせしたり暴言を吐いたり暴行を働いたりするネット右翼を説教します。必要なあらゆる手段を使ってレイシズムを食い止めます>、である。
これは今、日本で起こっていることである。
<リベラルが親になってしまったゲームとは、周到な責任逃れのゲームである。「私には何ができるのだろうか」という問いがしばしば発せられる。(中略)リベラルは、自分たちがリベラルであることをできるだけ多くの黒人に証明してみせるのに多くの時間を消費する。これは、自分たちは黒人の問題に直面しているという誤った確信から生じている。黒人には何の関係もない。問題は白人人種主義であり(中略)白人リベラルは、黒人の問題は黒人自身に任せて、彼らはわれわれの社会の本当の悪―白人人種主義を問題にしなければならない。>
(フランク・トーク=スティーヴ・ビコ「白い皮膚に黒い魂?」/スティーヴ・ビコ『俺は書きたいことを書く 黒人意識運動の思想』峯陽一、前田礼、神野明=訳 現代企画社)
<なんか「俺は一生ヒップホップに命を捧げるよ」っていいきっちゃった手前、無理してやっている人がいるとしたら、その音楽に対してよくないことだ。重要なのは、そこから感じた精神だと思うんだよ。その精神がなんなのかっていうことは形じゃない。ヒップホップから得たものは、自分が作った音楽で自分がここまで勇気を出せるのかっていう実効性だと思う。(中略)かっこいいことをやるには、自分がそれに見合った行動をするっていうことでしか表現できないっていうことが、ヒップホップの持っている構造のレベルの高さでもあるんだ。>
(近田春夫/後藤明夫・編『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』TOKYO FM出版)
ナリは多少不細工でも、誰だって意思表示と行動でかっこよくなれるってのが「ロック」の良さだよ。クボケンさんかっこいいもの(すみません!)。あとあの天真爛漫ってのは稀有だよなあ。
「夏フェス予習編」と銘打ちながら夏フェス出演者はほとんど語られず、クリップも流されず、ひたすら70年代から80年代の英ロックシーンがいかにレイシズムと対峙していったのかが語られる。
一説にはあの会場でフジロックへ行く人はクボケンさんだけだったらしい(んなわけないだろうが…)。
その中でもっとも熱く語られたのは「なぜしばき隊にはおっさんが多いのか?」である。
オレも含めてカウンター勢には確かにおっさん(おばさん)が多い。カウンターの中核を担っているのは30代、そして特に40代だと思うのだが、その背景を音楽=ロックから探っていく。ゆえに当然、そして断固トーク前に流されるクリップは1978年4月30日、ヴィクトリアパークで開催されたRock Against Racismでのクラッシュであらねばならない。
イベント内容の詳細はこちら。
2013/7/24@nakedloft レイシストをしばき隊 presents「夏フェス予習編 ロックと反レイシズム」(togetter)
今でこそ「自分語り」と揶揄されるロッキングオンだが、70年代から80年代初頭にかけて「ロックとシリアスに向き合うこと」を伝え続けてきたのがかつてのロッキングオンだった。今時、岩谷宏さんの名前があれほど登場するイベントがあるだろうか。ロックと岩谷宏は読者をその気させていた…というのはちと大げさか(ちなみに中継終了後にはロッキングオフな情けないエピソードが語られたわけだが)。
しかし、「その気」にさせてしまうのが大事なのだ。明確な意思表示、態度表明と行動の喚起。その時、オレたちは当事者になる。
60年代から約10年ほどで急速に巨大化、複雑(多様)化してしまったロックの凶暴な雑食性は、そのままポップミュージックにおけるアンチレイシズムを象徴しているだろう(「音楽」そのものがアンチレイシズムでなければ成り立たない)。そしてそれはRock Against Racism(RAR)誕生のきっかけになったエリック・クラプトンのヘイトスピーチへの返答である「最初のヒット曲がボブ・マーリーのカバーだってのに、そりゃないぜ。認めろよ、エリック、お前の音楽の半分は黒人音楽じゃないか」という言葉に通じる。ロックンロールの爆発力、そしてロックの多様化、多国籍化はレイシズムに対する不同意の宣言でもある。
しかし当然ロックが産業として巨大化してしまうとクラプトンの舌禍のようなヘイトスピーチ事件も起こってしまう。スーパースターとオーディエンスという関係は、スターを肥え太らせ、オーディエンスを傍観者にしてしまう(人間宣言する前のボウイが素晴らしかったのは、その時代、その関係をカリカチュアさせたところにある)。
そんな中、パンクやニューウェーブを中心に、レゲエ、アフロ、そして80年代に勃発したヒップホップ勢はロックンロールを取り戻すと同時に、不同意、異議申し立ての先鋭的なカウンターになる。
ということで「そんな音楽=ロックを聴きながら少年時代を過してきた私たちはなぜカウンターになったのか」ということが4時間以上に渡って語られた。カウンターに40代が多いのは当然というものである。
しかし「そんな音楽=ロック(洋楽)を聴きながら少年時代を過してきた私たち」には、幸か不幸か、それとも幸というべきかリアルタイムで欧米や(当然)南アフリカのような苛烈な状況にはなかった。関西ならまだしも、オレの出身地である静岡には在日問題、被差別問題が語られるような土壌もなかった。
昨夜帰ってきてから2ちゃんねるのしばき隊スレを見ていたら、おそらくネトウヨの揶揄だと思うけれども、こんなレスがあった。
<ロック(ごっこ)と反レイシズム(ごっこ)、ネット配信してるの?>
痛いところを突いてきたと思った。
そして80年代のロッキングオンで、MODSの森やんに対してインタビュアーの渋谷陽一が歌詞について猛烈に突っ込み続けたエピソードを思い出した。どのアルバムだったか、何の楽曲だったのか、詳細は忘れてしまったけれども、東南アジアあたり(スモーキーマウンテンだったかなあ…)を舞台にした歌詞の世界に対して「リアリティがない」と、森やんが気の毒なくらい突っ込みまくっていた。
時代はブルーハーツだったのだ。
当時、ヒロトやマーシーもインタビューでMODSの歌詞を批判気味に引用していた。そこに語るべき「状況」がないのならば等身大の自分を語るのは当然。勿論ブルーハーツは「チェルノブイリ」もリリースした先鋭的なバンドでもあったけれども、メジャーな日本のロックバンドはロックの形を借りたフォークやポップスを量産し続けた。
海の向こうで起こるチェルノブイリも、サンシティも、ネルソン・マンデラも、ベルリンの壁も、LA暴動に対してもリアリティに欠けた<ロックごっこ>的な気分がなかったとは言えない。
しかし幸か不幸か、今度は不幸というべきだろうが、3.11以降の一連の不幸な出来事や新大久保や鶴橋でのレイシストの躍動、右翼政権の躍進はリアリティを持って目の前に現れている。
かつて「ロック」が現実=リアルに対して明確な意思表示と明快な行動を求めていたのならば、今動かなくてどうするのだ。<ロックごっこ>に止まるような、フィクショナルで呑気な状況ではないのだ、と思う。
目の前で起こっていることはノン・フィクションだ。ならば「そんな音楽=ロックを聴きながら少年時代を過してきた私たち」が状況にどう対峙していくべきなのかは明確じゃないか――。
2008年、<この国の政治には、未だにがっかりさせられっぱなしだけど、この国の文化に迷う事はもうない。イギリスは他民族社会であり、そう在り続けるためにも、俺が出来る事は何でもする>。
そして2013年、<街なかで一般市民や近隣店舗に嫌がらせしたり暴言を吐いたり暴行を働いたりするネット右翼を説教します。必要なあらゆる手段を使ってレイシズムを食い止めます>、である。
これは今、日本で起こっていることである。
<リベラルが親になってしまったゲームとは、周到な責任逃れのゲームである。「私には何ができるのだろうか」という問いがしばしば発せられる。(中略)リベラルは、自分たちがリベラルであることをできるだけ多くの黒人に証明してみせるのに多くの時間を消費する。これは、自分たちは黒人の問題に直面しているという誤った確信から生じている。黒人には何の関係もない。問題は白人人種主義であり(中略)白人リベラルは、黒人の問題は黒人自身に任せて、彼らはわれわれの社会の本当の悪―白人人種主義を問題にしなければならない。>
(フランク・トーク=スティーヴ・ビコ「白い皮膚に黒い魂?」/スティーヴ・ビコ『俺は書きたいことを書く 黒人意識運動の思想』峯陽一、前田礼、神野明=訳 現代企画社)
<なんか「俺は一生ヒップホップに命を捧げるよ」っていいきっちゃった手前、無理してやっている人がいるとしたら、その音楽に対してよくないことだ。重要なのは、そこから感じた精神だと思うんだよ。その精神がなんなのかっていうことは形じゃない。ヒップホップから得たものは、自分が作った音楽で自分がここまで勇気を出せるのかっていう実効性だと思う。(中略)かっこいいことをやるには、自分がそれに見合った行動をするっていうことでしか表現できないっていうことが、ヒップホップの持っている構造のレベルの高さでもあるんだ。>
(近田春夫/後藤明夫・編『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』TOKYO FM出版)
ナリは多少不細工でも、誰だって意思表示と行動でかっこよくなれるってのが「ロック」の良さだよ。クボケンさんかっこいいもの(すみません!)。あとあの天真爛漫ってのは稀有だよなあ。