徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

東京ロッカーズ、その時代/2009年2月号

2012-01-30 05:46:11 | お仕事プレイバック
 歴史はブームの積み重ねである。そして、そのブームの度に「時代は変わる」。特にポップ・ミュージックの世界は常にブームの繰り返しであったといえる。しかしポップ・ミュージック史に残るような仕事(ブーム)をなし得たミュージシャンは数えるほどで、ブームでさえ2年、3年も続くものは数少ない。史上に残る多くの“革命”は1年、短いもので数ヶ月で起こっている。それはおそらく海外でも変わらないことだろう。
 ビートルズの登場以降、わずか10年ほどの歴史しか持たない“ロック”というポップ・ミュージック革命は、70年代初頭のニューヨーク、そして中頃のイギリスで起こったパンク・ムーブメント、ニューウエイブという形で再び大変動を起こした。音楽に、鑑賞音楽以上の意味合いを持たせた“ロック”の存在意義そのものがポップ・ミュージックの永久革命を指していたのだから、わずか10年程度であっても、過去の遺物は否定されてしまうのは、また当然なのだ。
 日本にも同じような、小さなブームが起こった。それを「東京ロッカーズ」と呼ぶ。グループ・サウンズという日本のロック創世記を経て、70年代前半の日本のロックは極めてアンダー・グラウンドなものだった。歌謡曲が黄金時代を迎え、60年代末のフォーク・ソングが時代を経てポップスとして、ビジネスとして成立した時代である。そんな時代に永久革命を続ける“ロック”が日本のオーバー・グラウンドで受け入れられるわけがない。日本のロックは地下に潜り、海外の「革命」にビビッドに反応しながら小さな爆発を繰り返すしかなかった。
 そして、その爆発のひとつが1978年に東京・下北沢などのエリアで行われていたライブ・シリーズ「東京ロッカーズ」だった。70年代前半から活動を続けていたモモヨ率いる紅蜥蜴(後のリザード)、フリクション、ミスター・カイト、ミラーズ、S-KENたちによるその活動は、2008年秋に劇場公開されたドキュメント『ROCKERS』で21世紀に甦った。監督の津島秀明(94年に急逝)が78年当時に「東京ロッカーズ」のライブを撮影した貴重なフィルムは、今も生々しい日本のロックの記憶である。
 とはいえ、その記憶が数多くのロック・ファンと共有できるものなのかといえば、それは残念ながらアンダー・グラウンドでの活動ゆえに、多くの共感を呼ぶとは言えないのは確かだ。しかし連綿と続く、日本のロック史の中で忘れてはならない歴史的瞬間であったことも、また確かなのである。
「でも、集合体なんてどこにもなかったよ」
 東京ロッカーズという“ブーム”の中心人物のひとりであったモモヨはそう言う。東京ロッカーズとは、あくまでもメジャー、つまり歌謡曲では収まりきれなかった、本格的な日本のロック勃興期に相次いで登場したバンドたちを象徴する言葉にすぎない。東京ロッカーズの時代を前後して、メジャー・シーンでも日本のロックが語られるようになる。
 日本のロック史を辿っていくと、ロックというものが一部の富裕層の子弟のものだった側面があることに改めて気づかされる。60年代から70年代にかけて、エレキ・ギターは高価なおもちゃであり、ほんの数年前までは手にしているだけで不良扱いされるような代物だった。70年代末の日本のロック革命とは、一般層にまでエレキ楽器が普及したことと、どこか関係があるのではないか。やはり、70年代末の東京ロッカーズの時代は、日本のロック史にとって何かが変わり、何かが始まる時期だったような気がしてならない。

--今回のコンプリート・ワークス(コンプリートBOX『ブック・オブ・チェンジズ コンプリート・ワークス・オブ・リザード』)はどういうきっかけでスタートしたんですか。
モモヨ 自分がやっていることは所謂、一般的なロックではないことに気がついた。それは何なのか、ずっと考えていた。また全集を作ろうという気持ちもあった。忘れていることもあるし(笑)自分がやってきた仕事なのにやっていないと思い込んでいて今更ながら取り組むこともあったんです。
--気づかずにと(笑)。
モモヨ 私は昔の人間なんで、ビートルズやストーンズと一緒で、同じものを出したくない。変化を常に求めてきたバンド、ミュージシャンなんですね。そうであるが故にモモヨやリザードというものに対し世間が持っているイメージが違っているし、自分も違っている。その正体は何なのかと思ったのが製作意図。これを作らないと曰く言いがたしで終わってしまうものなので(笑)。
--70年代前半から現在に至るまで活動しているにも関わらず、やはり一般的には70年代後半の東京ロッカーズのイメージが強いですね。
モモヨ まあそうですね、基本的には。特に若い子たちにはネットの功罪もあると思うんですけど、東京ロッカーズという「バンド」を率いていたという記述もたまにあるんですよ。それは今の文字文化の怖いところかな。

--今回は昔の話もお伺いしたいと思っているんですが、モモヨさんの音楽的な原点というとドアーズになりますか?
モモヨ ドノヴァンとかドアーズでしょうね。詩を大事にしていたアーティストですね。あとはシド・バレッドのいた頃のピンク・フロイド、ケヴィン・エアーズがいた頃のソフト・マシーン……。
--その辺りはリアルタイムですね。
モモヨ そうですね。当時は国内盤として日本に入ってくるのは1年遅かったんですよ。船便で半年以上遅れて、飛行機便で一ヶ月以上遅れて入ってくる。飛行機便の場合は予約しなければいけないとか、いろいろ面倒なことがあって(笑)。それでも僕は東京に住んでいたから銀座のヤマハで手に入りましたけれど。当時は中村とうようさんの『ニュー・ミュージック・マガジン』が創刊されたばかりで、銀座のヤマハで中村さんと福田一郎さんの解説で新譜視聴会が開かれていたんですよ。客は50人ぐらいしか入らないんですが、その中のひとりでした(笑)。

--モモヨさんは高校時代からバンド活動を始めていますね。
モモヨ 自分は音楽をやるつもりはなかったんですけどね。17歳のときに「日本語のロックを考える会」みたいなところへ行ったら、ある日誰かが楽器を持ってきて、日本語のロックを作るんだとか言って、急にベースを渡されて弾かされたというのが人前で初めて弾いた経験でしたね。その時のヴォーカルが灰野敬二で(笑)。(中略)私は結構秘密結社を作るのが好きで(笑)、結社を作ってアパートとかを借りていると灰野君が泊まりに来るわけです。家賃3000円の3畳間で何もついていないところが結構あったんです。
--そういう方々との接点というのはどこにあったんですか。
モモヨ それは先ほどの新譜視聴会のようなところや、当時行われ始めた100円コンサートのようなところですね。最初は参加者も少ないですから、そこに来ているのはみんな同じ奴なわけです。
--なるほど。日本のロックの始まりですね。
モモヨ 私は当時、16、17歳でしたから一番子供でやたらに可愛がられた記憶はありますね。

--もともとモモヨさんは『現代詩手帖』に投稿されたりして、どちらかというと「ことば」の人だったわけですよね?
モモヨ 興味はありましたね。ただ音楽をやれるとは思わなかったし、日本にロックはなかったしさ(笑)。でも高校(早稲田大学高等学院)を辞めたときには音楽(ロック)と詩を合わせていくんだという気持ちでいましたけどね。現代詩をやっていくと煮詰まっていくわけですよ。それで、例えば萩原朔太郎も晩年、前橋でマンドリン・クラブを作っているんですよ。自分たちの現代詩も歌われるべきではないのかということを唱えたんですね。私の母も前橋出身で、前橋に行くと朔太郎記念館があったりして、私にとってはたぶんその影響も大きいんじゃないかな。
--70年代前半というと高田渡さんのようにブルーズのメロディを使って日本の現代詩を歌うというシンガーもいましたね。
モモヨ そうですね。そういう試みは多くありましたけど、私が好きだったのは……高校がフランス語をやるんですよ。だからフランス語だけ異様に発達していて、19世紀末の象徴主義文学とかにのめり込んでいたところがあるんですね。今でいえば澁澤龍彦ですね。そういう……要は理屈が多かったんですね(笑)。
--なるほど(笑)。
モモヨ 18、19歳の頃に当時東芝の石坂(敬一)さんからアンファンテリブル(恐るべき子供たち)的な扱いをされてたりね(笑)。

--74年(昭和49年)に開かれた郡山のワンステップフェスティバルには参加しているんですか?
モモヨ 前哨戦でやった日劇のコンサートには出ています。日劇で何日かやってから郡山へ行っているんですね。「日劇ロックカーニバル」と言ったかな……ワンステップの本番の時には、仙台のディスコでハコバンをやっていました(笑)。何かあったら呼ぶから近所にいろ、みたいな感じだったと思うんですけど(笑)。
--あのフェスティバルは日本のロックのひとつの出発点ともいえるんじゃないかと思うんですが?
モモヨ うーん、でも自分の個人的な歴史の場所が違うからね。俺が思うのは、例えばビートルズのファンクラブが主催して、「マジカル・ミステリー・ツアー」を映写して、遠藤賢司とバレンタイン・ブルーと一緒にやったんだけど、そこで日本語とロックの可能性を初めて感じましたね。だから実際に日本のロックが始まったといえるのは裕也さんがやっていた100円コンサートの時代からじゃないかな。
--ワンステップは60年代から70年代前半までに登場していたバンドが総結集したという印象ですね。
モモヨ そうですね。一区切りという印象はありますね。あのフェスティバルで人気が出たバンドもいたけれど、その2、3年後には止めたし。
--だからこそ数年後ではありますけれど、東京ロッカーズの動きというのは新しい時代を感じますね。
モモヨ いや、本当は止めようと思ったいた時代なんですよ(笑)。区切りつけようか、と。PANTAと一緒に京都へ行ったりして、それで人気が出て「あれ?」という感じ。
--思いがけない事態に?
モモヨ でしたよ。でも面白かったですよ。京都で紅蜥蜴の人気が出て、呼ばれるんですけど、「じゃあ今度は東京に変なバンドがいるから一緒に連れて行く」と。
--一連の東京ロッカーズのツアーは、実際には紅蜥蜴(リザード)プラスαだったという話ですね。
モモヨ 最初は特にね。名前もなかったしね(笑)。あの当時、一番の意識の革新は、レコードって自分たちでは作れないと思っていたのが、あの辺から「(メジャーの)レコード会社でレコードを作るよりも自分たちで作った方がいい」という風に変わって行ったことですね。
--所謂インディーズですね。東京ロッカーズを受けて、80年代はまさにそういう時代になりましたね。
モモヨ レコード会社神話が崩れたんです。
--ただモモヨさんとリザードの活動は80年代にかけてどんどん収束していってしまいますね。
モモヨ たぶん一番精力を傾けたのはシステムの解体だったと思いますよ(笑)。
--本当に時代の狭間だったんだなと感じますね。モモヨさんや東京ロッカーズのムーブメントの功績というのは、音楽性はもとより、そういうシステムの革新だったと思います。
モモヨ そのままでいるということに興味をなくすんですよ。
(LB中洲通信2009年2月号~4月号 「東京ロッカーズ、その時代」)
※一部加筆・修正

アングル

2012-01-30 05:04:20 | お仕事プレイバック
HDを整理していたら出てきた画像。
2006年3月に初台の東京オペラシティコンサートホールで行われた本田竹広追悼コンサート。
撮影当時、なぜかいくつかのジャズ専門誌や新聞に提供したのだけれども、1点のみの掲載ならともかく、せっかく複数点を掲載した雑誌もまったく同じようなアングルの画像を並べていたのが不思議だったなァ…まあ編集部としては「記録」程度の意識だったんだろうけど。もったいないので載せる。










市川森一 僕が描いたドラマの「負けっぷり」(再掲)

2011-12-10 09:53:55 | お仕事プレイバック
アテネオリンピック、女子レスリング準決勝で浜口京子が負けた時、父・アニマル浜口はテレビで見ているこちらが恥ずかしくなるぐらい、文字通り暴れ、身体全体で悔しさを表現していた。その後、3位決定戦に現れた浜口京子と父・アニマル浜口は、不思議なくらい気負いを捨てた清々しい顔で会場に現れた。そしてほんの数時間前の負けっぷりが不思議なくらい、見事な勝ちっぷりでメダルを獲得した。
日本人は4年に一度、日本人の勝ちっぷり負けっぷりを再確認する。白黒がはっきりつくスポーツの世界だからこそ、“その時”の振る舞いは国民性を写す鏡なのかもしれない。

“その時”とは勝ちっぷり負けっぷりを越えた、勝負の終わりに対する心持ち。
70年代から80年代にかけて映画、テレビドラマで描かれた日本人はどのように“終わり”を描いてきたのか。
思い出したのは『傷だらけの天使』最終回。
勝ちっぷりが鮮やかだった綾部さんは船中で逮捕され、勝ったり負けたりしていた辰巳さんは逮捕の瞬間、最後の最後で足掻いてしまった。情けない負けっぷりばかり演じていたオサムは風邪で死んだアキラを夢の島に捨てると、荷車を引きながら叫ぶ--「まだ墓場にゃいかねえぞ!」
ドラマとスポーツから日本人の勝ちっぷり、負けっぷりを考えます。

--今回は「勝ちっぷり負けっぷり」というテーマでお願いしたいんですが、結局これは、物事の終わり方をどうするか。終わり方の美学だと思うんです。終わり方の美学があるからこそ、単純な勝ち負けは、もう超えているんだと思うんですね。そのへんが、たとえば『傷だらけの天使』(日本テレビ系 74年10月~75年3月放送)であったり、『淋しいのはお前だけじゃない』(TBS系 82年6月~8月放送)というような、市川さんの代表作の中に表現されていると思うんです。

市川 そうですよね。挫折以外の青春があるのか、あの頃も、今もそう思っているのですけども。挫折し、打ちのめされてこその青春じゃないですか。自分の経験から照らし合わせてもね。だからその繰り返しでしかないわけで、『傷だらけの天使』も『淋しいのはお前だけじゃない』も。結構みじめな思いをさせられているよなあ--と日常、自分を振り返れば、そういうことでしかないわけですから。そうしたら自分をごまかさないで、とにかく無様なラストしか出てこないですね。でも、まだ終わってはいないと、またどうせ負けるんだろうけれど。なんか世の中見ていると、いい奴が、素敵な奴が勝つとは、絶対限らないわけですから。映画では(石原)裕次郎とか(小林)旭とかね、素敵な奴がなぜか勝ち残っていきますけど、現実はむしろ逆じゃないのと。

--また今日も『傷だらけの天使』の最終回を観て来たんですけども、あの辰巳さん(岸田森)の終わり方、じたばたしてすごくみっともない。でも、あれすごく感動するんですね。

市川 辰巳さんは、まさに作者の分身みたいなところがあるわけで、一番無様で虚栄心ばかりがあって、実態が伴わない。ほんとの土壇場の現実にさらされると、あたふたとして無力なね。

--でも、ロマンチストなんですよね。

市川 ええ(笑)。それで言えば(『傷だらけの天使』の最終回で)水谷豊か殺そうとしたのも、何か一番みっともない死に方ねえかなと思って書いたんですね。大体皆さんが想像するのは、路上で刺されてね、のた打ち回って死ぬ。でも『太陽にほえろ!』的な死に方は、あまりに格好いいと。一番みっともないのはやっぱり病気。それも風邪で死んじゃう。風邪こじらせて肺炎で死んじゃうのは、一番、人にも言えないっていう感じで(笑)。台詞にも多分あったはずですけど、「風邪で死ぬなんて、格好悪い」。同じような“仲間”がブラウン管の向こうから呼びかけて、俺たちはこうだけど、お前はがんばれよみたい。そういう呼びかけの方が、僕はいいんじゃないかなと思って書いたんですよね。当時はまだ僕も30代でしたから、ほんとうに自分もあの世界で、一緒にうろうろしていたんですね。だからあれは僕にとっては、生々しいドキュメンタリーだったんですね。
LB中洲通信2005年3月号

キープオン

2011-12-01 00:13:57 | お仕事プレイバック

映画化された際にキャッチコピーになった「やらなきゃならないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ」の通り、みうらじゅんさんの『アイデン&ティティ』(角川文庫)には、日本を代表するロック者たる、みうらじゅんの言葉のエキスがほとばしっている。テレビやラジオで見せるサブカルのおじさんという面からは想像もつかない、ロック好きにとっては、それはそれは宝石の言葉の数々が散りばめられているのだ。
『アイデン&ティティ』は「24歳」と「27歳」の2部構成になっている。それぞれボブ・ディランとジョン・レノン&オノ・ヨーコという巨大すぎるロック・アイコンが登場し、ロックに対して誠実であろうとしながら、それでも「日本のロックとは何か?」「日本人にとってロックとは何か?」を悩み、さらに自分の弱さに悩む主人公に対して、「ドラえもん」のような役割で励まし、メッセージしていく(あとがきでも書かれているように、冒頭、主人公の前に現れるボブ・ディランはドラえもんそのものだ)。
もちろん、ディランたちの言葉(歌詞)が宝石のような言葉であると同時に、現状の厳しさに挟まれて主人公は苦い言葉で吐きながら、苦しむ。

例えば、ロックを<卒業してしまった>、大学の元サークル仲間のサラリーマンの言葉に主人公は思う。

<みんなどうしてそんなに器用なんだ/学生の時は学生気分、社会人に成ったら社会人気分/この間まで長髪で僕といっしょに/ロックしてた奴がよ!>

<忘れてる…/いや、初めっからこいつらには/ロックなんて無かったんだ――/ほどほどにロックが好きで/ほどほどにバンドをやって/ほどほどにやめたんだ!>

90年代の日本に起きたバンドブームを背景にしたストーリーには、「大島渚」というバンドで活動したみうらさんの実体験とその想いが色濃く描かれている。バンドブームが去り、自分がロックを続けていく意味を見失い、物語のマドンナたる彼女に「音楽とは別の仕事をしていてもオレのこと好きか?」と訊ねてしまう主人公。
それに対して、彼女(みうらさん)は、こう答える(描く)。

<君の仕事は/その理想を追う/ことなのよ>

そして冒頭の主人公の言葉が導かれる。

<今日、来てくれた/みんなの心の中/にもきっと/住んでいる/ロックは/こう言うだろう/“やれる事をやるんだよ/だからうまく出来るのさ”って>
 
ロック・ミュージックに対して誠実に向かえば向かうほど、普通の家に生まれ、普通の環境で育った日本人リスナーは悩む。本当にロックが必要だったのかと。音楽は音楽として愉しめばいいのである。
しかし一時期、日本のロックは、それだけではキープできなくなってしまった。そういえばバブルの頃に発刊されたロック雑誌に、「ロックミュージシャンは不幸自慢しなければならないのか」などと投稿されていたことがあったっけ。あの頃、ミュージシャンのインタビューは「自分がロックである必然性」を必死に語っていたような時代でもあった。今でもキープオン・ロッキンできている飛びぬけた才能のあった一部ミュージシャンを除いて。
この『アイデン&ティティ』はその時代を気持ちを誠実に描いた、貴重な証言でもある。

以前、書いたことがあるけれども、みうらじゅんさんにお会いして取材した際に聞いた言葉で今でも心に残っている言葉がある(みうらさんはちょうど『アイデン&ティティ』の試写を観た直後だったらしい)。
 それが「キープオン」と言う言葉だ。
 この言葉だけ取り出せば、何のことやらわからないかもしれないけれども、こういう言葉を普通に言葉に出せる人にとっては、「卒業」など意味のない話だろう。好きなものを好きでい続けること、「キープオン」は好きでいる者にとっては当然のことなのだ。インタビュー中、口癖のようにみうらさんは「キープオンですから」「それはキープオンですよ」と繰り返していた。『アイデン&ティティ』や「大島渚」から、誠実なロック者であるみうらさんの側面(本質かな?)を知っていた僕は、その意味はすぐに感じ取ることができたし、それからことあるごとに、「ここはキープオンのしどころだ」と心の中で強く思って、物事に対峙するようにしている。(200504)

内田勘太郎 グッバイ・クロスロード/LB2009年6月号

2011-09-23 04:09:59 | お仕事プレイバック

(塩次伸二さんに)ギターに関してはあんまり訊かなかったけれど、それまでカントリー・ブルーズをやっていて、例えばセブンス(コード)は判っていたわけ。でもそうではない響きのコードがあると。それで伸ちゃんに訊いてみたんだ。「伸ちゃん、言ってみればジャズみたいな響きのするコードって何かな?」「ああ、もしかしたらこれか?」って押さえたのが、ナインスというコードでね。木村君もそうなんだけど、ギターを弾く人間からすると、ナインスを知ったかどうかで世界が変わるわけ。(中略)色合いが全然変わるわけ。ドミソなんだけど、それにナインスが入ることで全然違うスモーキーな音になったりする。ということは、セブンス、ナインスのその先もあるんじゃないかということのきっかけになるわけ。それは塩次さんから教えてもらって。だから自分で好きなコードを探すようにもなったし…大阪の東住吉から太平洋ぐらいに世界が変わる感じ。

--(笑)広がりましたねえ。

そのきっかけによってね。だから伸ちゃんは師匠という感じだったけれども「これは俺の道だからな、勘太郎は勘太郎の道を行かんと意味ないで」とは早くから言われたからね。それは確かにそうだわな、と。伸ちゃんみたいに弾けるわけもなく、弾きたくもなく、俺は自分なりに弾く。それを大きな意味で教えてくれた先輩だね。
 生涯一ミュージシャンって言い方はカッコいいかもしれないけど、この道を志したからには「ギタリストというよりも、ミュージシャンにならんとあかんで」と言っていたのは塩次伸二です…地方の秀才が言いそうなことじゃないか(笑)。
中洲通信2009年6月号 特集内田勘太郎 グッバイ・クロスロードより

片桐はいりの演じ方/LB2006年2月号

2011-09-16 22:51:10 | お仕事プレイバック

片桐 でも「代表作はなんですか?」って訊かれても、私、何にも言えないですもの。

--そうですか?

片桐 別に「この作品で評価を受けました」みたいなこともないですし、賞ももらったことないですし。だから最近は開き直って「この低い位置をキープするのも、ものすごく大変、力がいるのよ!」とか言って(笑)。高く上がったり、降りたりすることは流れに乗っていればできるんだけど、「この低空飛行をずっと続けるってのはすごい力がいるのよ!」みたいなことをわざわざ言っているんですけどね(笑)。

--それはいいキャッチフレーズじゃないでしょうか(笑)。

片桐 よかった(笑)。(中略)だって、認められたいもん。男の人からファンだって言われないですよ、滅多に。アイドルを好きなようにとまではいわないまでも、普通のファンだって言われたことないと思いますね(笑)。悲しい(笑)。

--そんなことはないと思いますけどね。

片桐 ですかね? それでも別に影でいなくて、ほら、言い寄ってこられてもいいわけじゃないですか、誰もそういうことしないもん(笑)。テレビの世界でひどい目に遭ったということもないし。ま、ある意味幸せなんですけど。(中略)

--そのへんはまた女心ですね。

片桐 ま、女の心ですよ! だって全然拒否しているわけじゃないもの。

--観客席の僕としては孤高の存在なんだなって感じはしますけれど。もうそれはカッコいいなと思いますけどね。

片桐 それはがんばって孤高まで登り詰められればいいですけどね。

--低空飛行で孤高の存在ってのもおかしい話ですけど。

片桐(中略)この話はよく言っているんですけど、キングコングみたいになる覚悟がなきゃやっぱりできないわけですよね。やっぱり私が出た当時、映画とかテレビでの扱いはキングコングだったと思うんですよ。でもテレビに出たり、普通にコマーシャルで食品持ってニコニコしてたら、だんだん普通の人になっちゃうじゃないですか。(芸能界に)もう飲み込まれちゃうじゃないですか、ゴックリ。だから若い頃はもうちょっとトゲトゲイガイガしていたかったっていうのはすごくありましたね。

--それは今でも?

片桐 何ていうんだろう。ニコニコしているけど、近寄って来たら刺すかもよみたいな、そういう部分は何かのこしておきたいというか、それはありますね。
中洲通信2006年2月号 特集かっこいい女「片桐はいりの演じ方」より)

黒田征太郎 ライブペインティングという生きる力/LB2005年6月号

2009-12-31 16:34:24 | お仕事プレイバック

黒田 生きる力っていえば、いつから現代っていうのかわからないですけど、明治維新以降どんどん弱くなっているのは確かでしょう。維新っていう言葉があるけど、本当に維新されたか、それも疑問ですけどね。みんなが知っている人の名前でいうと、坂本龍馬とかあの辺のやつらの頃はまだ、生きる力っていうか、原始人の血が少しは流れていた人間たちだと思うんですけど、それから文明開化以降ね、機械に全部委ねてしまって生きる力も糞も、もう命渡してしまっているわけだ。通信機器だって、今携帯電話に委ねてしまっているでしょう? 俺は別にどうでもいいんですけども、人のことなんかかまってないから何も言いませんけどね、俺は(携帯電話は)持たない。面倒くさいというのと面白くないね。何でそんなにみんな連絡し合わないかあかんねんと俺思うから。何も持ってないよ。時計もないし、手帳もないし、電話帳もないよ俺。でも不自由したこと一回もないもん、それで。うん、全然。(中略)でも携帯電話を持ってる人を俺は別にバカにしないし。昔からそういう主義でね。俺は俺だと思っているから。でも、あえて生きる力っていうことになれば、その分だけ死んでいると思う。耳取られてるいるのと一緒やもん。口取られているのと一緒じゃない。時間だって、体内時計を引き渡しちゃっているわけでしょ。かゆくならないのかと思って(笑)。
(中略)
--では健康診断とか、人間ドッグみたいなのは一回も行ったことがないと?

黒田 俺は行ってませんよ。その代わり、俺のチェックはある。
藤堂 自分なりの。
黒田 階段が4段ずつ上がれるかとかね。今でも俺は東京での仕事場は3階にあって、エレベーターも何もないんですよ。俺は東京にいる限りは、それを3階から1階に降りて、また4階までを、1日に何十回は無理だけれど、10回はやるのよ。電話すんのが面倒くさいから。元々電話嫌いだから。なぜかって言うと見えないでしょ、相手が。俺、嫌なんだ。だから、俺の事務所の電話の受話器を見て下さい、包帯だらけです(笑)。電話なんか、携帯電話なんか俺に持たせようとした人が、何人もいるんだけど無理、たぶん、投げる。嫌いなんです。体でできることは体でやりたい。ですから、例えばアシスタントいませんからね。どんな仕事しても、自分で片付けて、それで筆も全部自分で洗って、それで次にビールを飲むのがうまいんだ。おいしいとこ、なんでアシスタントかなんか知らないけど、やらさにゃいかんの。

--それがおいしいところなんですね。

黒田 うまい。それが俺の運動なわけや。ですから、何か描きたいと思って、資料を探すときも自分で走って行かないと気ィ済まへん。ゾウを描きたいときに資料を探すアシスタントに「こらっ、走れ」って言うわけです。待っている間に、俺の中でゾウがウサギになってしまっているわけです。ですからプレゼンテーションとか、アイデアスケッチとかは俺はできないんです。例えば対談でも事前の打ち合わせは一切ない。俺、絶対嫌なんです。打ち合わせ通りにやるなんて、俺は。そんなの嘘でしょ。
藤堂 違っていいものね。
黒田 嘘でしょ。テレビも俺よく出てたけど、出なくなったのは面倒くさいからもういいよって。もう出たくない、そんなのは。ですから、生きるってことを合えて言えば、生まれた瞬間から死ぬまでが1つのライブなんだよ。で、それを突き詰めていったら、1日についていえば、朝起きた時から寝るまでが一回りで。その間、やっぱり俺は俺なりにフル回転でいたいのね。無駄なことはしたくない。この無駄なことをやっていくとね、周りから見たら黒田ほど無駄なことをしているヤツはいないと。いまだに飲みだしたら、時間で飲みますから、夕方の4時であろうが、5時であろうが、始まったら朝方失神するまで飲み続けるから。
藤堂 それも変わっていない(笑)。
黒田 変わっていない。今でも気合い入れたらダブル2本くらいいきますよ。でも俺にとっては、それはすごく大事なことなんだよ。だから他人から他人のスケールで俺は量られたくないっていうことなんです。俺なりに一日を一生懸命生きたい。それも加熱するところから冷静の間を、できたら高速で回転しながら生きたい(笑)。で、寝る時に、眠りに落ちる瞬間に、「ああ、今日も良かったな、もういいよ、寝よう」と寝る。それで、起きたときには張り切って起きたい。「何かいいことあるよね」っていう感じで。だから一緒に伴走する人は、無理だね。俺はしんどくないんだもん、全然。朝起きて、ゆっくりベッドでっていうことはない。もったいないなあって。俺は東京では事務所で寝るんですよ。寝袋で。

--寝袋ですか。

黒田 今でも一番便利なんだもん。金かからないしね。金ないからね、いつもね。金は通っていくけど(笑)。ハッと起きた瞬間に、俺、描くの好きだから、それで朝起きた時が一番描いてていいんです。

--それは前日完全燃焼しているってことが前提なんですね。

黒田 だってせっかく生まれてきたんだからね。もったいないよ。活字になったらキザかもしれないけど、俺はもう一回生まれ変わっても、黒田征太郎をやりたいです。だってもう、やりたいことめちゃくちゃ多いから。これもしたい、あれもしたい。
中洲通信2005年6月号 特集「ライブペインティングという生きる力」より

森達也 テンイヤーズ~日本人の10年間/LB2005年12月号

2009-05-22 18:26:55 | お仕事プレイバック
--森さんはオウム真理教のA広報部長を追った『A』で一躍注目されましたけれども、事件から10年経ってテレビ報道の変化をどう考えていますか?

森 瑣末な部分でいったらテロップが増えたとか、ナレーションが過剰になったとか、要するにわかりやすさが加速しましたよね。それは三段階スライド方式なんですよ。オウムによって危機管理やセキュリティなどの意識が刺激されて、不安の裏返しで共同体の結束志向と異物への排除意識が高まっていく。危機や不安を煽ったほうが視聴率や部数は上がりますから、メディアもその構造に加担する。まわりくどい内容より単純な情報が好まれるから、善と悪や黒か白などの二元論が、メディアと市民社会との相互作用で加速する。(中略)

--テレビも企業である以上は営利を追求するのも当然なんでしょうが、それにしてもこの数年は身も蓋もなくなっているような印象があるんですよ。

森 企業メディアの限界もありますよね。営利追求は企業の最大のダイナミスムですから、そういう意味では商業主義とジャーナリズムというのは絶対相反するわけじゃないですか。かつては相反の中でみんな悩みながらやっていたんだけれど……悩まなくなっちゃったんですよね。企業の論理とジャーナリズムの論理が矛盾しなくなっちゃった。一致し始めちゃいましたよね。(中略)

--先ほどいわれた「わかりやすさ」という意味では、もうわかりにくいものとか面倒くさいものを排除していく中で、森さんはあえてわかりにくいものを撮ろうとしている、書こうとしているという印象があります。流れに対する反発心みたいなものはありますか?

森 反発はあるんでしょうけれど、あえてわかりにくく撮っているんじゃなくて、わかりにくさをわかりやすくする過程の中で絶対失うものはあるわけです。テレビがその代表だけれど、四捨五入しちゃうんですよ。躊躇もなく。ひとつの方向から見て、これがすべてだというような傾向がすごく強くなってきているんですよね。それは損をしていると思うんですよ。そういう見方をしていると、人生はつまんなくなっちゃいますよ。(中略)

--確かに想像力がなくなっているっていうことはあるんですが、逆に妄想は激しくなってきているような気がしますね。

森 主語がない妄想です。これは一番性質が悪くて、「許せない」とかの言葉が典型ですよね。

--確かに(笑)。

森 誰が何を許さないのって、よくわからないですよね。たぶんカッコつきで、主語は「我々は」とか「国家」という主語になるんでしょう。そうすると述語は暴走しますからね。自分に責任はないわけだから、そういう意味での妄想は肥大していますね。
LB中洲通信2005年12月号 特集「戦う男」より

柳沢慎吾 青春が止まらない!/LB2008年10月号

2009-02-26 02:44:41 | お仕事プレイバック
柳沢 もう映画版は東映で封切ったんで、テレビでもやると。フジテレビでは初めてのコメディタッチの青春ドラマだと。今は3ヶ月ぐらいでドラマは終わってしまいますけど、当時は全26話で半年間続くんです。あの半年間は一生忘れられないですね、本当。H2Oが歌ったテーマ曲の『僕らのダイヤリー』も鮮明に覚えています。

--出演はどういう経緯で決まったんですか。

柳沢 その前に、ひまわり時代に新潮文庫のCMに岸本加代子さんと一緒に出たんです。そのCMを見ていたフジテレビの人が「クラスにはああいう面白い子がいるよね」ということで決めていただいたそうです。それで<梨本慎吾>という役名でクラスの情報屋の役で出たんです。でも後から聞いたんですが、あまり目立たなくて駄目だったら役を小さくしていこうという話だったそうです。

--そこで『太陽にほえろ!』の山さんのモノマネが出てくるわけですね。

柳沢 監督から「何かできないのか?」という話で、3分間だけネタの時間をあげるから、自分でホンを書いて来いと。

--ドラマの中にネタコーナーができるというのもすごいですね。

柳沢 それでサングラスをかけるとジーパン(松田優作)に似ていたADのスタッフを巻き込んで作った<太陽にまねろ!>コーナーが当たったんです。(中略)

--『翔んだ』シリーズはその後、『翔んだライバル』『翔んだパープリン』と続いていきますね。

柳沢 『翔んだカップル』が終わって「もう次はないな」と思って小田原で八百屋を手伝っていたんです。そうしたらある日電話がかかってきたんです。「おまえ、次は主役かもしれないぞ」って。ありがたい話ですね。

--70年代に柳沢さんが観ていて憧れていた青春ドラマとは違うけれども、新しい形の青春ドラマですね。

柳沢 違ったけれども、新しかったし、楽しかった。それにドラマってひとりではできないんですよ。いろんな人がいて、こんなにもたくさんのスタッフがいるんだと。一本のドラマで7、80人のスタッフがいるんですよ。
『翔んだカップル』の頃、ナアナアになってだらっとした時期があって、出演者全員がディレクターに呼ばれたことがあったんです。「おまえら、若いんだからぶつかって来いよ! 熱いものをモニターにぶつけて来いよ!」って怒鳴られたことがあったんです。和気あいあいとした仲良しクラブのままで、それで終わってから次に何があるんだと。これじゃあいけない、一生懸命やろうと。だから打ち上げではみんな号泣したんです。もう昨日のことのようです。
LB中洲通信2008年10月号

その男、田口トモロヲ/LB2008年6月号

2009-01-23 00:32:27 | お仕事プレイバック
田口 その前にもいくつかフリーのノイズバンドをやっていたりしましたけれども、きちっとしたパンク・バンドをやろうという形で結成したのがばちかぶりです。それ以前は叫びとノイズみたいな形で2、3年やっていたという形ですね。

--ばちかぶりが活動していく上で田口さんにとってJAGATARA(当時のバンド名は、暗黒大陸じゃがたら、じゃがたら)の影響が大きかったそうですね。

田口 そう……そうだと思います。僕、今でも日本で一番好きなバンドはJAGATARAで、尊敬しているミュージシャンが江戸アケミさんなんですね。アケミさんの姿を見て、JAGATARAを観て、バンドをやりたいと思ったんです。やっぱり……かっこ悪いというか、アケミさんのヴィジュアルを見るとそのへんのオッサンみたいですよね。

--確かにそうですね(笑)。

田口 そのアケミさんが歌い出したときはものすごく衝撃を受けました。それまでのロックのバンドは、バンド名も横文字で、ヴィジュアルもかっこいいんですよ。世界同時多発的パンク思想という意味では、僕も彼らと志は一緒なんですけど、何か乗っていけないものがあったんですよ。そんなときにJAGATARAと出会って「これだ!」と思ったんです。かっこいいものは人に好かれるし、人が惹かれるのは当たり前だけれども、かっこ悪いものの中にこそ美を発見することの方が僕には合っているというような……うん、そんな感じがあった。そんな意味合いでJAGATARAは僕の中では本当にストライクだったんですね。歌詞も日本語だし、ダサくてかっちょいいという。そのリアルなサジ加減のヴァイブスにガツンと来たんです。

--ばちかぶり時代の田口さんにはステージでの嘔吐や脱糞という伝説的なパフォーマンスが残っていますけど、それはアケミさんの影響はあったんでしょうか?

田口 パフォーマンスに関してはアケミさんや(遠藤)ミチロウさんが真剣にやっていたことを、もう少しエンタテインメントにして見せたいという欲求がありました。踏襲しても勝てないと思い、ただ裸になったり、脱糞するのではなくて、ブラックな笑いとして、ギャクとして提示したんだけれども……誰も笑わず引かれました(笑)。

--なるほど(笑)。

田口 表現としては失敗という(笑)。ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』でディヴァインが最後に犬のウンコを喰うという場面は笑いとして提示しているじゃないですか? そういう形のものを表現したかったんですけどね。

--エンタテインメントという視点はどういうところから生まれたんでしょう?

田口 パンクというのも、その時代が選んだオリジナルな大衆的エンタテインメントだと思うんです。エンタテインメントである以上、ただのマスターベーションでは、表現はいけないと思っているんです。マスターベーションを見せるのであってもツールとしての方法論が必要だと思っていて、それをきちっと通過できれば作品として人前に出せる。いろんな表現が時代時代にはあったし、僕もそれを見てきたし、自分も何ができるんだろうと悩んだりした中で、最終的には自己満足ではいけない、と。
LB中洲通信2008年6月号

市川森一 僕が描いたドラマの「負けっぷり」/LB2005年3月号

2009-01-03 03:46:26 | お仕事プレイバック
アテネオリンピック、女子レスリング準決勝で浜口京子が負けた時、父・アニマル浜口はテレビで見ているこちらが恥ずかしくなるぐらい、文字通り暴れ、身体全体で悔しさを表現していた。その後、3位決定戦に現れた浜口京子と父・アニマル浜口は、不思議なくらい気負いを捨てた清々しい顔で会場に現れた。そしてほんの数時間前の負けっぷりが不思議なくらい、見事な勝ちっぷりでメダルを獲得した。
日本人は4年に一度、日本人の勝ちっぷり負けっぷりを再確認する。白黒がはっきりつくスポーツの世界だからこそ、“その時”の振る舞いは国民性を写す鏡なのかもしれない。

“その時”とは勝ちっぷり負けっぷりを越えた、勝負の終わりに対する心持ち。
70年代から80年代にかけて映画、テレビドラマで描かれた日本人はどのように“終わり”を描いてきたのか。
思い出したのは『傷だらけの天使』最終回。
勝ちっぷりが鮮やかだった綾部さんは船中で逮捕され、勝ったり負けたりしていた辰巳さんは逮捕の瞬間、最後の最後で足掻いてしまった。情けない負けっぷりばかり演じていたオサムは風邪で死んだアキラを夢の島に捨てると、荷車を引きながら叫ぶ--「まだ墓場にゃいかねえぞ!」
ドラマとスポーツから日本人の勝ちっぷり、負けっぷりを考えます。

--今回は「勝ちっぷり負けっぷり」というテーマでお願いしたいんですが、結局これは、物事の終わり方をどうするか。終わり方の美学だと思うんです。終わり方の美学があるからこそ、単純な勝ち負けは、もう超えているんだと思うんですね。そのへんが、たとえば『傷だらけの天使』(日本テレビ系 74年10月~75年3月放送)であったり、『淋しいのはお前だけじゃない』(TBS系 82年6月~8月放送)というような、市川さんの代表作の中に表現されていると思うんです。

市川 そうですよね。挫折以外の青春があるのか、あの頃も、今もそう思っているのですけども。挫折し、打ちのめされてこその青春じゃないですか。自分の経験から照らし合わせてもね。だからその繰り返しでしかないわけで、『傷だらけの天使』も『淋しいのはお前だけじゃない』も。結構みじめな思いをさせられているよなあ--と日常、自分を振り返れば、そういうことでしかないわけですから。そうしたら自分をごまかさないで、とにかく無様なラストしか出てこないですね。でも、まだ終わってはいないと、またどうせ負けるんだろうけれど。なんか世の中見ていると、いい奴が、素敵な奴が勝つとは、絶対限らないわけですから。映画では(石原)裕次郎とか(小林)旭とかね、素敵な奴がなぜか勝ち残っていきますけど、現実はむしろ逆じゃないのと。

--また今日も『傷だらけの天使』の最終回を観て来たんですけども、あの辰巳さん(岸田森)の終わり方、じたばたしてすごくみっともない。でも、あれすごく感動するんですね。

市川 辰巳さんは、まさに作者の分身みたいなところがあるわけで、一番無様で虚栄心ばかりがあって、実態が伴わない。ほんとの土壇場の現実にさらされると、あたふたとして無力なね。

--でも、ロマンチストなんですよね。

市川 ええ(笑)。それで言えば(『傷だらけの天使』の最終回で)水谷豊か殺そうとしたのも、何か一番みっともない死に方ねえかなと思って書いたんですね。大体皆さんが想像するのは、路上で刺されてね、のた打ち回って死ぬ。でも『太陽にほえろ!』的な死に方は、あまりに格好いいと。一番みっともないのはやっぱり病気。それも風邪で死んじゃう。風邪こじらせて肺炎で死んじゃうのは、一番、人にも言えないっていう感じで(笑)。台詞にも多分あったはずですけど、「風邪で死ぬなんて、格好悪い」。同じような“仲間”がブラウン管の向こうから呼びかけて、俺たちはこうだけど、お前はがんばれよみたい。そういう呼びかけの方が、僕はいいんじゃないかなと思って書いたんですよね。当時はまだ僕も30代でしたから、ほんとうに自分もあの世界で、一緒にうろうろしていたんですね。だからあれは僕にとっては、生々しいドキュメンタリーだったんですね。
LB中洲通信2005年3月号