徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

「新しい道路」が必要な理由/「ぼくらの東京物語―貧乏は正しい!」

2012-11-29 21:08:35 | Osamu Hashimoto
<新しい道路が必要なら、その必要を考えて作ればいい。「新しい道路を作る」ということは、「この町をこの先どうしていくか?」ということを考えることなんだから。
 ところが日本の行政は、そういう風には考えない。そういうことを考えようとして、「いやー、地域住民の利害というのはいろいろありませからねー」で、「既にあるもの」に触れようとしない。そして、当然、そんな風に言われてしまう住民たちは、「自分の現在」のことしか考えない。
 そして、「大きなイヴェント」が設定されて、「地域の活性化」というのは、結局のところ、「大きなイヴェントをやれば人が集まるから、それをいい機会にして、地域外の大資本に進出してもらってここら辺をハデにしてもらおう」という金儲けのことだ。(中略)べつに日本人は、今になって急にバカな金の使い方をするようになったんじゃない。それはもう、30年以上も前からのことで、今になってもそのことが分からないオヤジたちはゴマンというという、それだけのことなんだ。
 日本人は、いつまでも大イヴェントの黒船が来るのを待っている。「黒船が来ないんだったら、こちらで黒船を作ってしまおう。そうすれば地域の活性化になる」と言って、本当に自分たちが必要なもののことを考えようとはしない。「自分たちの必要」よりも、「なんだから分からないがスゴイ」と言える黒船の方が大切なんだろう。バブルがはじけるのも当然だし、「バブルがはじけた」ということの意味も分からない人間がゴマンといるのも、これまた当然のことだろうね。>

<さて、日本で政治家は「政策」というものを考えない。しかし、現実問題として、日本には「国の方針」というものがあり、「国の決めた制度」というものがある。こういうものは、「政策の結果」です。一体こういうものがなぜあるのか? 誰がこういうことを考えたのか?
 「政治家が政策を作らない国で、一体誰が“政策”を作るのか?」と言ったら、その答は「官僚」。
 官僚というのは、国家という組織の歯車です。決められた命令に合わせて、それを実行するように動く。官僚は政策に従って動くものであって、政策を決めるものではない。官僚と政治家の関係はコンピューターと人間の関係とおんなじで、コンピューターは人間の指示に合わせて計算をし、官僚も、政治家の出す政策に合わせて動くものだ。ところが、日本の場合はそうじゃない。日本の政治家は、「政策をもって官僚に向かう」のではなくて、「官僚に政策を教えてもらうもの」だからだ。コンピューターが人間を指示している――それが日本。
 データがたりないコンピューターは、分からない質問に対しては「回答不能」と答える。日本の官僚も、おんなじように、分からないことには「無言」で対応する。(中略)これは、データ不足のコンピューターの「回答不能」とおんなじだ。
 コンピューターに回答させたかったら、その分のデータをインプットしてやればいい。「このコンピューターは悪者だ」と言ってぶっ壊したってどうにもならないんだけども、でも「コンピューターを利用する」という発想に慣れていない日本人たちは、どうも、これが理解出来なくて、「コンピューターを壊す」という方向にしか行けなかったみたいだ。そして、そうなっても当然ぐらいに、日本の官僚たちは、「意志を持ったコンピューター」になりかかっていた。(中略)
 新しいデータをインプットされないコンピューターは、新しい事態に対応出来ない。だからどうするか? 対応出来ない「新しい事態」の存在を、認めないようにする。現実はどんどん変わって行っても、それに対応する機構が全然変わらなかったのには、こういう理由があったからだね。>
(橋本治「貧乏は正しい!ぼくらの東京物語」小学館1996)

先週放送されたNHKスペシャルの「シリーズ東日本大震災 追跡復興予算19兆円」の余波が続いている。
動画もまだどこかで観られると思うので探して見て下さい。非常に腹立たしく理不尽な話であることは言うまでもないのだけれども、改めて何が腹立たしいかといえば、霞ヶ関が震災、そしてその復興をイヴェントにしてしまったということだと思う。
一時期、反原発派は主義主張のために原発災害の被害の拡大を待っているかのような誹謗中傷がされていたけれども、まさに霞ヶ関こそ3.11という黒船に便乗して復興を大イヴェント化しているといえる。
地域(経済)振興や復興をイヴェントでしか捉えられない連中にとっては、大震災とその復興は(外圧を除けば)まさに黒船中の黒船、大イヴェント中の超巨大イヴェントだったのだと思う。
これが、本当にこれから25年も続くのだろうか?


ぼくらの東京物語―貧乏は正しい!
<ハシモト式人生の教科書第3弾 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。><本書では、トーキョーの変貌と地方のトーキョー化の裏に潜む日本の本質を暴き出す。足下の定まらない急激な都市化の過程で、トーキョーは何を失い、日本人は何を捨てたか。そして、ぼくらは何を取り戻すべきか。これを読めば、人生が変わる。 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。>

登録情報
単行本:318ページ
出版社:小学館 (1996/01)
ISBN-10:4093723133
ISBN-13:978-4093723138
発売日:1996/01
商品の寸法:19.2 x 13.4 x 2.6 cm

魔性の女/「博徒無情」

2012-11-29 19:35:23 | Movie/Theater
博徒無情
1969年/日活
監督:斎藤武市
脚本:星川清司
出演:松原智恵子、露口茂、渡哲也、扇ひろ子、奈良岡朋子、平田重四郎、長門裕之、渋沢詩子、近藤宏、高品格
<若い博徒・村次に惚れた加代だが、村次は親分の仇討ちを失敗して入獄してしまう。残された加代は慣れないヤクザの世界で村次の出所を待つが…。東映における任侠映画の成功は、日活の映画製作にも少なからず影響を与えた。そんな中、清純派の松原智恵子を仁侠映画の柱として売り出そうとしたのが『侠花列伝・襲名賭博』と本作である。>

アクションと言いながら松原智恵子の主演だけあってほぼ全編任侠メロドラマ。冒頭から意味不明なほど、猛烈に、かなり一方的に村次(渡哲也)にヒートアップする加代(松原智恵子)。セットの中で繰り広げられるふたりの出会いは、空間こそ濃密なのだが、加代は村次の何に惹かれたのかよくわからない。まあ、メロドラマのフォーリンラブは理屈じゃないですね。
仇の親分(高品格)への襲撃をしくじった村次は間もなく入獄するも、相手方のヤクザの腕を一本斬り落としただけなので刑期は1年半。思えばこの「1年半」という情念の引き鉄の軽さが、ドラマとしてもかなり軽く感じさせてしまうのかもしれない。この1年半の間に出会った男がことごとく傷つき、恩人の息子さえ岡惚れさせて死に至らしめてしまうファムファタール。当然ながら「女だてら」のパートは扇ひろ子に完全委任で、松原智恵子は“ヤクザのバシタ”にはなり切れず、それでも男たちを振り回す無邪気な魔性の女を演じる(そんな演出意図はなかったと思うけれども)。
ファムファタールの誘惑に引き摺られながらも、踏み止まる、これまた運命の男・露口茂が美味しい役どころ。アクションや任侠の爽快感に欠けるメロドラマなのだから、逆に渡哲也が三角関係で嫉妬に身を焦がすような場面があったらもっと良かったのに、とは思う。ただしこの年、渡哲也は主演、助演合わせて年間12本のフル回転だった模様。

ガザ「ファジル5」射程地図

2012-11-27 15:29:21 | News Map

<イスラエルが十四日に大規模空爆に着手後、ガザを拠点とするハマスや他の武装勢力は、千発以上のロケット弾をイスラエルに発射。十五日にはうち一発が住宅を直撃、市民三人が死亡した。特に注目されたのは、イスラエルの商都テルアビブ、首都と位置づけるエルサレムにまで、ロケット弾が到着した点だ。ガザから遠く離れた重要都市まで標的tおなり、市民の衝撃は大きかった。攻撃には、イラン製の長距離ロケット弾「ファジル5」が使用されたとみられる。AFP通信などによると、射程は最大で約七十五㌔。長さ約六・五㍍という。従来、使われていた「カッサム」の射程は、せいぜい十数㌔。攻撃範囲はイスラエル南部にとどまっていた。>
(東京新聞11月24日付 ハマス武力強化に危機感/イスラエル イラン密輸阻止が課題)

延坪島砲撃から2年/北方限界線地図

2012-11-27 15:25:56 | News Map

<韓国軍は同時、二年前に砲撃を受けたのと同じ午後二時半すぎから延坪島(ヨンピョンド)一帯で対応訓練を実施した。北朝鮮側では八月中旬、金第一書記が黄海上の軍事境界線とされる北方限界線(NLL)を挟んで延坪島と向き合う茂島(ムド)、長在島(チャンジェド)の砲兵部隊を視察。「命令さえ下せばいつでも砲撃できるように」と命じている。>
(東京新聞11月24日付 延坪島砲撃2年 韓国の苦悩/「再現」懸念消えず/北、戦力増強 挑発続ける)

正義はきちんと行われているか/井上ひさし「イヌの仇討」

2012-11-27 12:37:23 | Books


<いきなり大風呂敷を広げるようで恐縮であるが、人間にとって最大の悪は病いと負傷と死に違いない。そこで人間はそういう悪の恐怖から逃れそれらの危険を避けるために、たがいに寄り付き合い結ばれ合って、社会という共同体をつくった。そうしてそれぞれの力をひとつの権威に預け任せることを発明した。つまり人間は社会的な動物になったわけである。
 では、その人間たちの最大の関心事はなんであったか。意見はさまざまに分れるだろうが、私の考えでは、
「正義はきちんと行われているか」
 これにもっともか関心が集まっていたのではないかとおもわれる。そして正義の根本は平等にあった。(中略)実際綱吉という人物は奇妙である。その治世を二つに分ければ、前半期(天和-貞享)の彼は名君だったといってよかろう(中略)重要なのはこの時期の彼が掲げた政治原理で、それは、
「賞罰厳命」
 である。「刑罰の公平な割当て」が政治を刷新し、人心を活気づけたわけだ。
 ところが後半期(元禄-宝永)の政治はひどかった。綱吉は一気に暗君、愚君、暴君に成り下がる。たとえば悪名高い生類憐みの令。近ごろ、これは簡単に悪法ときめつけるのではなく、「命あるものを、人類を含めて憐れむ心が大切である」とした綱吉の初志をすこしは評価したいという見解もあるようだが、しかし一禽一獣のために処罰された者十万、そのために家がこわれて流離散亡した者数十万というのでは困る。(中略)したがって赤穂浪士による上野介殺害は、大公儀(おかみ)がつくりだした不公平への抗議、実力による正義の回復だった。彼らの抗議は本所の吉良屋敷を通して、生類憐みの令や金銀貨の悪鋳とそれが引き起こしたインフレ(年率平均十五%の物価上昇)やその他もろもろ、幕政全体にまで及んだ。人びとの「正義は行われてほしい」という願いが討入りにそういう意味を持たせたのだ。
 忠臣蔵物語を、今も私たちが愛するのは、やはり不公平な世の中がつづいているからだろうか。>
井上ひさし『イヌの仇討』文春文庫「日本の仇討」より)

バランス/TwitNoNukes#14(11.25)

2012-11-26 00:56:19 | News


今月は持病の悪化もあってデモも抗議も参加できていなかったのだけれども、3ヶ月ぶりにTwitNoNukesの渋谷・原宿デモに参加。反原連の理念を代表しているのはやっぱし、どう考えたってTwitNoNukesである、ということでこの一週間は毎日リツイートし続けた。
しかし今回集合場所に行ってみて驚いてしまったのがドラムの多さで、これはちょっと危惧した通りになってしまったように思う。もしかしたら第二てい団は“怒りのドラムてい団”だったのかもしれないけれども(アナウンスしていたら申し訳ない)、ドラムや鳴り物が手っ取り早いユニティで、自己表現の方法なのは理解できなくはないのだが、やはりコールを打ち消すほどのヴォリュームになってしまっては本末転倒で、表参道の静音エリア以降で自発的なコールが盛り返すのも当然だと思うのだ。
まあ、オレもジャンベ購入しようかなとは思っているぐらいなのでドラム嫌いというわけではないんだが、やっぱり皆、声を上げたいんじゃないの? 本当にバランスって難しいものである。

それはそれとして。
改めて思ったけれども渋谷で継続してデモるってのは本当に意味がある。TwitNoNukesはデモの主体が歩行者=オーディエンスを巻き込みながら個人レベルの「ニュース」になっていく(そして、それは「現在」的で、本当に正しいと思う)。そして来月15日には日比谷公園発でデモが行われる。休日の日比谷周辺のデモというのはちょっと個々のモチベーションを上げていかないと正直しんどい。オーディエンスが極めて少ないぶん、メディアを巻き込むレベルのニュースが必要になる。
しかし投票日前日だし、派手にやりたいね。こういうときこそドラムの出番だろうと思えなくもない。
ジャンベ買うかな…。

Nuclear Free Now 脱原発世界大行進2
【日時】2012年12月15日(土)
※悪天候の場合は中止
デモ出発時間:14:30
デモ出発場所:日比谷公園中幸門
※13:00より日比谷野外音楽堂にて「さようなら原発世界大集会」
(呼びかけ:さようなら原発一千万署名 市民の会)開催。
【主催】Nuclear Free Now 実行委員会
【呼びかけ】首都圏反原発連合

しかし天皇杯4回戦当日…キックオフは夕方で良かったけど中抜けは決定的…。

そこに「勝ちたい気持ち」はあった/第33節 川崎戦

2012-11-25 23:29:22 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14


アフシン「いい流れだった。コンビネーションフットボール、スペースを作る動き、素晴らしかった。/ただもっと危険な所へとび込んでいけ。/我々のサッカーをこのまま続ければ追いつき、そして勝てる。勝ちたい気持ちを見せろ。」(J's GOAL11月24日付 ハーフタイムコメント

等々力で川崎戦
湯浅さんのコラムじゃないが、他サポが観てもエキサイティングなゲームになった。結果的にはまたもや「内容は良かったが…」を証明するようなゲームになってしまったが、ガンバ戦ではできなかった「内容」が十分できていた(前節のガンバ戦でオレが期待していたのは「こんな内容」だったのだ…)。この日の吉田と平岡の対応や出来には疑問を持たざるを得なかったけれども、全般的にゲームをコントロールしていたのは清水だったし、勝ちに値する内容だった。
プレーヤーたちは十分に「勝ちたい気持ち」を見せていたと思う。
願わくば同点に追いついてからの10分、15分程度の怒涛の波状攻撃の時間帯にゴールが決まっていれば…久々に起用されたタカのゴールへ向かう姿勢も素晴らしかったのだが(タカのチャントは本当に盛り上がる)。ガンバ戦後の「次の一点」は川崎の先制点だったが、やはり追いついてからの清水の「次の一点」が勝負の分かれ目だったような気がする。最悪の11月はとにかく次の一点に泣かされた。
それでもオレたちはサポートし続けなければならない。



「勝ちたい気持ち」を見せてアグレッシヴにプレーを続けるプレーヤーにゴール裏はエキサイトしていた。結果的には11月の戦いは無残にも終わったわけだが、11月の戦いに呼応するようにこの日の等々力でのゲームのゴール裏は一番声が出ていたように思う(個人の感想です)。
つまりサポーターにとっては声の大きさや感情の爆発こそ、剥き出しの「勝ちたい気持ち」に他ならない。
ブーイングや「オフサイドコール」に批判があるようなのだけれども、スタジアム全体が「発狂したときの日本平」っていうのはこんなものだろう。ゴール裏以外のサポーターが個々に叫び始めるときにスタジアム全体は本物の熱狂に包まれる。その功罪はあるし、中には聞くに堪えない野次もあるだろう(オレだって少なくともゲーム中での味方への口汚い野次には言い返すこともある)。まあ、それだって熱狂の一部だし、それが「本気で勝ちたい気持ち」ということでもある。
昨夜の川崎戦のゴール裏にはそれがあったし、結果にはがっかりしたとはいえ案外ポジティブになれたのは、そういう本気の声に包まれたからだと思う。ゲーム終了後にプレーヤーへ拍手を送ることができたのも、やせ我慢して、エエカッコせずに、きっとオレたちも本気で燃焼したからだと思うのだ。
キックオフ前の他会場の結果を受けて、勝ち点3で上位再浮上の可能性もあったにも関わらず、ほとんどすべての可能性を失った11月の最後にこんな負け方をしたにも関わらず、だ(中継で観ていたら欲求不満が溜まったことだろうけれども、テレビってのはそもそもそういうものだから仕方がない)。
批評する気持ちはわからないでもないけれども、「行動」を批判する気持ちにはなれない。

チャントはコールリーダーにコントロールされているものだし、ある程度はそうすべきものだとは思うけれども、個人の「熱狂」は一部のグループにコントロールできるものじゃない(逆に言えば、そこまでのコントロールの責任をリーダーが感じて、背負う必要はないと思うです)。

今季のリーグ戦は残すところあと1ゲーム。この日の川崎戦も優勝(ACL圏内)にも残留にも関係ない「消化ゲーム」だったわけだが、伝統的にこういうときの清水は大概素晴らしいゲームをするものだ。もはやACL圏内もなくなった清水、さらに最終節の対戦相手である大宮も(今季も!)この日のゲームで無事残留を決め、ノープレッシャーでの「消化ゲーム」になった。
残されたチャンスである天皇杯のためにも、素晴らしいゲームになることを期待している。

終わりなき思考停止/「村八分」

2012-11-21 21:53:57 | Movie/Theater
村八分
1953年/近代映画協会・現代ぷろだくしよん
監督:今泉善珠
脚本:新藤兼人
音楽:伊福部昭
出演:中原早苗、藤原釜足、英百合子、乙羽信子、山村聡、日高澄子、山田巳之、菅井一郎、殿山泰司、久松保夫、横山運平
<静岡県下上野村村八分事件を取あげたもので「原爆の子」を製作した近代映画協会に現代ぷろだくしよんが協力している。製作は、「原爆の子」の山田典吾に絲屋寿雄の共同。脚本は「千羽鶴(1953)」の新藤兼人、監督は「原爆の子」の第一助手新人の今泉善珠。(中略)静岡県選出参院補欠選挙の発表の日、朝陽新聞静岡支局へ富士山麓の野田村の一少女から、同村で行われた替玉投票の事実を訴えた投書が舞い込んだ。支局長は吉原通信部の本多記者に、早速この事実の調査を命じた。本多は野田村在の吉川一郎の娘、富士原高校に在学する満江がこの投書の主であることを確めたが、これを知った同村ボス山野の手配で厳しく口どめをされた村民たちからは何一つ手がかりを得ることが出来なかった。しかし、根気よくこの村へ通っている間に、本多は一老人の口から竹山集落の違反の端緒をつかみ、村役場で確証を握った上、このことを記事にして支局へ送った。これが朝陽新聞に報道され、司法局がこのため活動を開始したと知って村民は色を失い、その反動が、投書の主満江一家の上にふりそそがれた。>(映画.com

1952年に起こった静岡県上野村村八分事件。この実際の“事件”の翌年に新藤兼人の脚本によって映画化された作品。50年代前半という時代背景もあって左翼を色濃く感じさせる描写になっているものの、これは現代にも通じるホラーでもある。
村役場を巻き込んで投票の棄権防止運動と称して投票に行けない人々の投票券を集め不正投票を行った村の有力者、それを告発するために新聞社に投書する少女、そして不正投票を取材し記事にする新聞記者。現状維持という村の正義、不正を告発するという個人の正義、そして「間違っていないんだからとにかく正義」というメディアの正義。それぞれがそれぞれの“正義”に従って事件は動き始める。何てったって不正投票は悪いのだから、それに関わった弱い、貧乏な村民は“理不尽”に晒されて、糾弾される。罰金も課される。ここで有力者、村役場、村民たちが「ごめんなさい」すれば、この話も終わってしまうわけだが、弱い村民たちの不満と悪意のはけ口は、結局不正の本質ではなく、すぐ隣にいる一番弱い“正義”に向かっていく。村民の“日常”は現状維持と強固な思考停止によって成り立っている。

村民たちによる一家への村八分は新聞記者が全国に報じ、さまざまなメディアが村に集まってくる。
そんな中、取材に訪れたラジオ局のアナウンサーが村民に直接訊く。ここが、ある意味クライマックス。

「この村で起こった村八分について皆さんのご意見を聞かせて頂きたいと思います。お爺さん、あなた吉川満江さんについてどうお考えをお持ちですか?」
「おらっち、何も考えちゃいねえ」
「あなたは吉川さんの家を八分なさらないんですか?」
「何にも考えていねえだ」
「どうもありがとうございました。それではこちらの娘さんにひとつ…」
「嫌だよォ!」

メディアによる「外の目」に晒された村民たちは最初怯え、そして開き直り、最終的にはお互いの意志を確かめ合う(束縛し合う)ように集団の中で囁く。
さらに恐ろしいことに無責任な正義漢である新聞記者は村民たちが囲む中、少女の母親をマイクの前まで引っ張り出す。「みんなに何をされたのか言え」と。今となってみればそもそも投書の少女の所在を村役場に問い合わせたり、この新聞記者の行動は責任重大だと思うのだが、ここまで来ると無邪気な正義のホラーである。

物語は「お姉ちゃんは間違っていなかったんだわ!」ということで実に左翼風に、ポジティブに(一応の)ハッピーエンドを迎えるわけだが、60年経っても問題は投げ出されたままなのではないか。
オレたちの中にも拭い去れないムラ=田舎がある。60年経っても解消されないのか、60年経って蘇ってきたのかはわからない。

運は見えるか/「10億分の1の男」

2012-11-21 13:47:22 | Movie/Theater
10億分の1の男
INTACTO
2001年/スペイン
監督・脚本:フアン・カルロス・フレスナディージョ
脚本:アンドレス・M・コッペル
出演:レオナルド・スバラグリア、ユウセビオ・ポンセラ、マックス・フォン・シドー、モニカ・ロペス、アントニオ・デチェント
<フェデリコは幼い頃、未曾有の大地震で生き埋め状態のところをサムに助けられた。その時サムから“運”を奪う能力を授けられ、以来彼の経営するカジノでお客の運を奪い取ってきた。だがある日、彼はサムのもとから去ろうとしたためその能力をサムに吸い取られてしまう。7年後、銀行強盗で逃走中のトマスは飛行機の墜落事故に見舞われたが、搭乗者237名の中で奇跡的にたった1人生き残った。彼は女刑事サラの監視下で入院していたが、そこへ強運な男を探していたフェデリコが現われる。彼はトマスを連れ出すと、あるゲームへの参加を強引に迫るのだった。>(Yahoo映画

運というのは目に見えず、理不尽なものである。
ただし運が向いてきたときよりも、運を逃してしまった(逃しつつある)ときの方が“目に見える”ことがある(まあ、これは逆にも言えることでもあるけれども)。自分のフォームを崩さない、ということである。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という有名な言葉はまさにそういうことで、負けはたいてい自分のフォームを崩して勝ちに行ったり、取り戻しに行ったりするときに起こる。その意味で運は形のあるもので、運の動きは目に見えるものではある。
いやにクラシカルな“ゲーム”を採用した最終決戦の結末は容易に想像できた。

カジノを舞台にしたストーリーならともかく、人生丸ごと賭けた特殊設定のギャンブルとなると日本には福本伸行先生の「カイジ」シリーズという、その手の金字塔がある。人生と色恋と賭け事をこってり描いた作品ならば塩崎利雄さんの名作「極道記者」がある。ヴィジュアル的には悪くはないとはいえ構成や設定にはどうしたって物足りなさを感じてしまう。
運否天賦に、ここまで“楽天的”に命を賭けられるのは合理主義のファンタジーなのかもしれない。

一緒に走るということ

2012-11-18 20:42:51 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14
オレのエスパルスクラスタリストのTLに昨夜のコレオ批判と2002年から2005年頃までの“暗黒期”のゴール裏を回顧するツイートがいくつか見られた。
2ちゃんの罵倒スレの常連でもないので詳しいゴール裏事情はわからないけれども(まあ、そもそもわかる必要はないけれど)、まあ“あの時代”ネットでもゴール裏批評が熱く盛り上がっていたのは確かだった。それは大きく分けてシャペウ的サポートのあり方に対する批評とコールを主体にしたサポートの提案だった。“あの時代”が熱かったのは、それはチームの低迷に対して「自分たちがチームのために何ができるか」自分たちのあり方について考え続けたからだと思う。
結局この10年、批判されつつも(振り付け)サンバとコールは共存し、最初の10年とは違う新しいエスパルスのサポートスタイルは継続している。サポーターがプレイするわけじゃないんだから応援なんてどうでもいいというわけにはいかない。それは意志表示で、やっぱり自分たちも一緒に“走っている”ってことなんだから。

それはあの頃よりも余程チームのヴィジョンがはっきりと見えている今でも、それでも考え続けなければならないことだろうと思う。昨夜はあの暴風雨の中で1万2000人がスタジアムに集まった。それは12000人「も」なのか、12000人「しか」なのか。観客動員が下がり続ける中で改めて考えてしまう。暗黒期を受けて健太時代のサンバとコールが共存したゴール裏は素晴らしいサポートができていたと思う。アフシン時代の今、それはできているのだろうか。

次の一点のために/第32節 G大阪戦

2012-11-18 15:05:31 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス11~14


アフシン「「どこから話し始めていいかわかりません……。まず、最初からすべてがうまくいかなかった点があると思います。(中略)彼らは日本最高のクラブのひとつだと思いますし、こうした状況にいるべきではないと思います。ただ同時に、われわれは自分たちのベストを出せなかったと思います」(J's GOAL 11月17日付


昨日は暴風雨のアウスタでガンバ戦
前日まではとても行けそうもない体調だったが、雨予報でも有志によるコレオグラフィも企画されているという情報もあったし、何によりも連敗している状況では行かないにはいかない。
1万人台前半のアウスタのスタンドはオレンジ色のポンチョで人数以上に“コレオ”されていた。しかし風雨は想像以上に酷く、ピッチの上空で雨が文字通り渦巻き、屋根のないメインスタンドではあっという間に雨が沁みこんで来るのがわかった。

ゲームは熱が上がるどころか時間が経つごとに醒めていくような内容になった。今となっては、そもそも序盤に浩太が負傷交替したのがとても痛かったように思う。神戸戦と同じように“いつも通り”、ガンバにゲームを支配されると、若者たちは熱くなるどころかどんどん萎えて淡白なプレーを繰り返した。決してガンバが怒涛の攻撃を繰り返したというような内容ではなく、まったく、“いつも通り”のアウスタのガンバ戦で、彼らの思う通りにゲームをコントロールされたといった印象だった。
11月に入って驚愕の公式戦3連敗。ナビスコカップ決勝での敗退からACL圏内後退まで一気に状況は悪化した。

今野(G大阪)「グラウンドがすごくいいから、芝生の状態が。だから、濡れていても水は浮いてなかったので、ちょうど良い感じでした。(今日はガンバらしいサッカーができたという感触がありますか?)そうですね。そう思います」

遠藤(G大阪)「ピッチ状態が良かったので、あんまり雨も風も気にならなかったですし、基本的にロングボールでどうこうというチームではないので、あんまり気にはならなかったですね」
(以上J's GOAL 11月17日付


どう考えても清水がガンバに分が悪い要因として、日本平のピッチがガンバのサッカーにはおあつらえ向きの高品質ピッチにあることは間違いない。ただでさえ良好が保たれている上に、普段はキックオフ前(ハーフタイム中)に散水までする日本平の高速ピッチはガンバ相手には両刃の剣だといえる。

激しい風雨だけが理由ではなく、ゲームの終盤に席を立つ人は少なくなかった。そしてゲーム終了後のスタジアムはメイン、バックの一部の拍手をかき消すようにブーイングと野次が飛んだ。当たり前だ。こんな最悪のインポテンツなゲームを見せられて最後まで見届けろという方が無理というものである。
最後まで全員が全力でファイトし続けた完敗ではなく、自ら萎えてしまったような完敗である。

体調も良くなかったのにアウスタまで行って良かったのか、それとも行かなきゃ良かったのか。
これは結果だけ(じゃなくて今回は内容も、だけれども)を見れば行かなきゃ良かったと思うし、やっぱり“それ”を見るだけでも、行って良かったのだと思う。
それでもサポーターはチームの「最悪」を共有するのである。「最高」は今日の「最悪」のその先にある。まったくサポーターというのは業が深いマゾヒストである。ブーイングと野次と罵声を飛ばしながら、それでもオレはまたスタジアムへ行く(次節は体調も少しは回復しているだろう…たぶん)。24日は等々力で川崎戦。

次のゲームの「次の一点」がとてつもなく重要になる。
多くの目標を失いかけている11月だが、川崎戦で最高の一点を見せて、状況を吹っ切って欲しいと思う。

トシ「まあ追い付く場面とか、あの最初の時間帯とかは『自分達はまとまっている』と感じたんっすけど、すぐに逆転されてから個人になってしまった…バラバラ。(中略)シュートも撃つカタチまで上手く行ってないなら個人的に誰かが撃って流を作るしかないと思ったし。自分はそういう姿勢は出そうとは思いましたけど。(Qその姿勢は大事だと思うけど、個人で突破できる限界があるでしょ?その辺は感じている部分はある?)感じ過ぎてますね。今は…」(Sの極み 11月17日付)

もう18歳/「ハイティーンやくざ」

2012-11-17 03:24:34 | Movie/Theater
ハイティーンやくざ
1962年/日活
監督:鈴木清順
出演:川地民夫、初井言栄、松本典子、杉山俊夫、松尾嘉代、佐野浅夫、田代みどり、上野山功一
<吉村望と奥園守が共同で脚本を執筆、「百万弗を叩き出せ」の鈴木清順が監督した青春ドラマ。撮影は「事件記者 影なき侵入者」の萩原憲治。>(Goo映画

舞台は東京近郊のある町、チンピラ相手にも一歩も引かずに渡り合う正義漢である高校生・次郎。その腕を見込んで商店街の人々もやくざを追っ払ってもらおうと次郎に金を払い、用心棒代わりに利用する。しかし親友で今はやくざの子分となっていた芳夫に密告され、恐喝容疑で警察に補導されてしまう。そして新聞の見出しに「ハイティーンやくざ」の文字が…。
しかしこの映画、徹頭徹尾、青春映画なのである。何よりも川地民夫の青春アイドル映画である。
主役の“ハイティーンやくざ”次郎も言葉こそハイティーンらしく乱暴で、アルバイトをしている競輪場で車券を買ったりする程度の“悪さ”はするが、詰襟のカラーは上までしっかり止めているし、大学へ進学する夢もある。何よりも、次郎はやくざが嫌いで、この用心棒役にしても正義感からの行動でしかないのだ。
次郎の補導によって家族にまで商店街の人々から白い目が向けられ、家業の喫茶店(ロビン)も閑古鳥が鳴き、母親と姉はこの町から出て行くことになる。警察から釈放され、母を見送る次郎はこう話しかける。

次郎「母ちゃん、町をきれいにしようと思った俺の気持ちは間違っちゃいなかったんだよ。ただやり方を間違えたんだ。俺は俺ひとりの力でできると思っていたんだよ。でも、本当にやくざを追っ払うんなら、町の人の力が合わせなきゃできないんだ。俺はここに残ってそれを町の人にわかってもらうよ。おかげでずいぶんいろんなものを失くしちゃったなァ。ロビン、学校、芳夫…友達まで失くしちゃった…どうしたんだよ、母ちゃん」

たき(母)「次郎、おまえひとりで寂しくないかい?」

次郎「嫌だなァ、俺もう18だぜ」

この後に「手をつなぐ」とかいうやりとりがあるのだが(この辺りが蛇足で、説経臭い所以か)、「嫌だなァ、俺もう18だぜ」の笑顔、爽やかさ、清々しさはどうだ。まさに青春スターの輝き。このとき川地民夫、24歳。
次郎は家族と離れ、ひとり町に残り、やくざに利用されているだけの芳夫を正義の鉄拳と自爆的友情で立ち直らせ、街からやくざを追い出すことに成功する。
清順作品とはいえ主人公がタイトル通り、ハイティーンで詰襟の高校生設定のため(それこそやくざやチンピラならともかく)同時代の青春映画の域は出ていない内容だとは思うが、芳夫との造成地(?)でのアクションシーンの構成に見所あり。造成地(?)を挟んで団地の反対に田んぼが拡がる田舎風景というのがまた昭和30年代。

60年代カバーポップス時代の重要人物である田代みどりがラーメン屋の娘役で出演し、芳夫役の杉山俊夫と共に主題歌「イカレちゃった」をデュエットしている。これがいかにも青春映画らしく、というかいかにも昭和30年代らしく、青春のサムシング(だけ)を謳い上げるなかなかイカした楽曲。この辺は「信じられぬ大人との争いの中で」とか「この支配からの卒業」とかうっかり歌ってしまう80年代の青春とは違う。青春歌謡や後年の橋幸夫のリズム歌謡にも通じるリズムで「何かが欲しくて、何かが燃えててノックアウト」だ。
しかしまあ、やはり60年代とはいえ、半世紀前の映画ともなると風俗の記録映画としても観られます。

サイコと妄執/「ザ・バニシング 消失」(1988)

2012-11-16 20:21:37 | Movie/Theater
ザ・バニシング 消失
Spoorloos/The Vanishing
1988年/オランダ=フランス
監督:ジョルジュ・シュルイツァー
出演:ベルナール=ピエール・ドナドュー、ジューネ・ベルフォーツ、ヨハンナ・テーア・スティーゲ
<オランダ産のサイコ・サスペンス。レックスの恋人サスキアは、三年前に突然の失踪を遂げた。必死で探し続ける彼に、レイモンドという男が近づいてくる。レイモンドは、自分がサスキアを誘拐したのだと言い、犯行を再現するからレックスに同行しろともちかける。レックスは彼と行動をともにし、犯行を検証してゆく。>(Yahoo映画

謎解きよりも人物や心理描写に重きを置いていると見られる演出は、1988年の作品なのに70年代の古いホラー映画を観ているような気分にさせる。

ホラー映画のキャラクターというのはエキセントリック気味に描かれるのは了解している。
犯人役のレイモンドの設定やキャラクター作りはいかにもクラシカルなサイコキラーなのだけれども、何よりもそれに対峙するレックスもサスキアへの妄執では負けず劣らずのサイコに見える。またその他の登場人物もエキセントリックでこってりとしている。オープニングのレックスとサスキアのドライブシーンにしても、ストーリー上は“幸福”とされるレイモンドの家族だって怪しい。
何でこうも揃いも揃ってエキセントリックなのだ。
ダレる展開はまったくなく一気にラストシーンまで見せる展開は悪くないものの、“3年間探し続けた”形跡がエキセントリックにしか表現されないレックスや、サスキアに妄執するレックスの元をあっさり去る次の彼女とか、レイモンドに疑念の目を向ける次女とか、もう少しストーリーを展開できる要素があったと思うんだが…キャラクターの濃さに比べて構成のあっさり感は一体何なんだろう。要するにレックスとレイモンド以外の造形が雑だったんじゃないか。

とにかくまったく救いようのないラストシーン(結末)も含めて観る者を嫌~な感じにさせる映画である。
これ、カルト的に人気があったって解説があるけれども、それは傑作、ヒチコック云々というよりも、あまりにもこってりしたキャラクター造形が突っ込みどころ満載だからという意味なんじゃないだろうか(深夜帯に放送されたら、実況では楽しく盛り上がるタイプの映画だと思う)。エキセントリックな演出は勿論、拉致を失敗し続けるレイモンドなど正直、ほとんど笑いながら観ていたんだけどw ちょっと「傑作」とは言い難い。

それはなぜかと言えば、やっぱしレックスが3年間サスキアを探し続けたという描写にリアリティが欠けているからに他ならない。3年を経てレックスがサイコ(妄執)しているのならわかるけれども、この男、どう観たって最初のドライブシーンからそんなにキャラが変わっていない。
この映画の見所はサイコと執念(妄執)の対決なわけ(になるはず)だから、それは致命的だと思う。