渋谷で11回目のTwitterデモ。前回よりもよりも参加者はちょっと少なかったか。その分、警備の警官の密度がいつもよりも濃かったような気がするが(あの人たちは暇だと必要以上に仕事しちゃう人たちだから…)。
二日酔い気味で太陽の陽射しに当たった立ち眩みしそうになった瞬間に嫌な予感がしたのだけれども、何とか10分前には集合場所のみやした公園に到着。第二集団の後方あたりで、悪霊さんのリードに併せて声を上げる。途中トラメガおじさんに声をかけつつ(熱意は理解しつつもリードが被ってるので止めてもらった…が、このおじさん、レスポンスをトラメガでやったらオレたちが声を上げる意味ないんだが…)ゴールまで歩く。嫌な予感が的中し、途中強い陽射しで汗をかき、強い風ですっかり身体が冷えるという二日酔いには堪える状況になってしまったので途中離脱したのだけれども、表参道で何とか追いついた。
表参道を下りながら悪霊さんの「一緒に歩こう」「一緒に叫ぼう」というリードに声を上げながらちょっと考えてしまった。もちろんこれまでも使われてきた言葉だけれども、ちょっと違う意味合いに聴こえてきた。
たぶん前日にTwitterでアジカンのゴッチさん絡みのリツイートの中に、相変らずデモの祝祭性を問うような、うんざりするツイートがあったことを思い出したのだと思う。
確かに去年の今頃、デモの祝祭性については、こんな野次馬だけではなく、実の参加者ですら考えながら歩いていたはずだ。それなりに話題になっていた、祝祭に満ち溢れた素人の乱の高円寺デモに違和感を覚えていた人だって少なくなかったと思う。状況がさっぱりわからないまま、危機感が高まっている中での「祝祭性」は、とてもじゃないが個人的には受け入れ難いものがあった。オールドスクールの方々ならともかく、オレは「人が集まった」というだけで単純に喜ぶことなどできなかった。
ということで、「以前」ならばきっとそんな批判は「周回遅れ」と切り捨ててしまっていただろうと思う。事実、抗議行動にフェーズを移しつつあったオレたちにとって、そんな下らない批判につきあっている暇はなかったはずだ。
しかし、「以前」というのは5月5日までのことを言う。
この日本で原発が全停止(定期検査入り)して3週間が経つ。
状況は変わってしまった。
「一緒に歩こう」「一緒に叫ぼう」というコールに、「以前」よりもずっとポジティブなメッセージとヴィジョンを感じた(まあ個人的にはこっ恥ずかしくて叫びづらいフレーズではあるんだけれども)。
5.5以後のデモはもっと祝祭性を帯びたものであってもいいんじゃないか。
もちろん再稼動の可能性は日に日に高まっているし、それに対する抗議行動の重要さはも高まっているわけだが、現状を踏まえてデモが「原発なき日常」をメッセージする場であってもいい。その表現は攻撃性を帯びた自己主張(ゲンパツイラネエ)だけではなく、もっと祝祭性を帯びた、ポジティブに現状を伝えるメッセージであってもいいはずだ。
それが「みんな」であり、「一緒」という言葉になる。言葉の重みが変わったのだと思う。
一周年を過ぎ、11回目のTwitterデモに感じたのは、そんなポジティブだ。
まあ、いつひっくり返ってもおかしくない、危ういポジティブではあるんだけれども、抗議行動と同じように、デモの「表現」も状況を色濃く映し出す必要性がある。
それが5.5以後なんだと思う。