この一週間は団体系の幟旗問題から3.11のデモ(福島で行われる「
原発いらない!3.11福島県民大集会」や国会を人間の鎖で囲む
3.11東京大行進)への批判を巡って、Twitter上でさまざまな意見が交わされた。
幟旗問題はひとまず置いておくとして、3.11問題については、大抵の批判は揶揄や感情論といった、20年数年前にも見たような光景だったので、まあ、オレ自身がそれによって考え方が変わるなんてことはない。ハナからデモに批判的な人間というのはいつだって機会を伺っているもので、一周年だろうが、月命日であろうが、日付などというものはほとんど意味がない。
中には右からデモの針谷さんのように、追悼の日というだけではなく「運動への影響」を懸念するという意見もあった。もちろん、それは理解できる。
しかし、それでも3.11は追悼の日であるというだけではなく、この一年間に行われた政府、霞ヶ関の対応に向けた告発の日であり、抗議の日であると感じている人たちがいる以上、デモは起こって当然なのだ。追悼は人それぞれの心のあり方の問題であり、行動もまた人それぞれの心の発露なのだから、それ自体を批判しようとしても意味がない。
また「楽しいデモ」も問われた。
デモの集団と言っても所詮は「社会」なのだから、真剣に叫び続ける人もいれば、デモが楽しいから参加している人もいる。そんな有象無象の集団に、参加している人間だって全体を把握できるわけがないのに、外から無責任に眺めているだけの人間が全体を理解しようというのが無理な話だ。
だからこそ、最低限のルールとしてシングルイシューであるべきなのだ、ということがいつになったらわかるのだろう。
有象無象の前に、シングルイシューを確認し、行動の前提にしなければ何を訴えたいのかわからなくなってしまう。
マニックスの「4 REAL」事件を思い出した。そういう下らない揶揄を書き続ける連中は、参加者がその言葉を腕に刻んだら納得するのかね?
こんな風に、この一週間は自分(たち)の行動について改めて「真剣」を、「本気」を測られた(測った)。
その週末に杉並で「楽しげ」なデモが行われるというのは実に皮肉なものである。
杉並には脱原発という意味ではもはやホームと言ってもいいコミュニティが形成されている。それは杉並(高円寺)に限らず中央線沿線の古くからのカルチャーだろう。オレも10年以上前は住んでいたので、それは、わかる。
ただ、正直言ってデモンストレーションというのは、アピールする(しなければならない)他人がいる「アウエイ」でこそ意味があると思っている。予定調和とまでは言わないけれども、お互いの意志を確認し合うためだけならば、それはコミュニティ内のイベントなんだろう(もちろん、それはそれでまったく否定するつもりはないけれども)。
おそらくオレは明後日の杉並でのデモには行かない。
しかし、まあ、それでも意志を持って“有象無象”の中で歩き、声を上げる人たちは支持しますが。
とはいえ、その翌日の20日には経産省前で直接抗議行動が予定されている。
また今月25日にはNNMHのデモが渋谷で行われ、3月末には9回目のTwitNoNukesのデモも行われる。
「公」の一周年とは違う、「ひとりひとり」の一周年がそこで問われるはずだ。
「敵」は目の前にいるのだから、まあ、息切れしないように、それなりに楽しく、真剣にやろうぜ。
まあ杉並に行けないのは20日の抗議行動までに、本気で仕事を終わらせておかなければならないって現実があるわけですが。4 REAL.