平川克美氏の昨年11月刊行の著作である。
序章は「株式会社という幻想共同体」。冒頭は、こう始まる。
「本書は株式会社について論じたものである。」(11ページ)
平川氏の論じる株式会社は幻想であるという。ということは、現実のシビアな世界に日々生きるビジネスマンには、無縁の、不要な書物、ということになるのだろうか?日々の蓄積した疲労を癒やすファンタジーノベルのようなものなのだろうか?
もちろん、そうではない。
ここでいう「幻想共同体」という言葉は、吉本隆明の『共同幻想論』でいうところの「幻想」であり、「共同体」である。日々の人間の現実に切り結び、現実を左右していく、まさにその駆動力としての幻想である。人間社会の「制度」、「組織」のことである。
「これから縷々言及することになる「株式会社」とは、所有と経営が分離し、株主が主権を有することを前提として、株式市場において公開された会社、あるいはその先駆的形態の法人だと考えていただきたい。」(11ページ)
結論を先取りして言ってしまうと、この書物は、「株主主権」だとか、「所有と経営の分離」だとかいうことの現代社会における弊害について縷々論じている書物である。
株式会社とは言っても、世の大多数を占める個人経営の会社、借金をするのに社長の個人保証を必要とするような中小企業、零細企業は含まない。有限責任の株式を発行して設立される、本来の意味の株式会社である。この書物によって発生史をたどり、現在の社会でのあり方を見ると、産業資本であるよりは、金融資本としての性格が大きい会社、と言ってもいいだろうか。
平川氏が、名著『小商いのすすめ』(ミシマ社、2012年)で論じる小さな個人企業とは対極にある大会社、グローバル企業のことである。
【株式会社化した現代社会】
「ところで現代社会は株式会社化しているとよく言われる。」(16ページ)
もちろん、平川氏は、「株式会社化」という言葉を、否定的な意味合いで使っている。ところが、世の大多数は、社会の「株式会社化」を肯定的に捉えているかのようにも見える。効率化をどんどん進めることによって、世の中は進歩し、どんどん良くなっていくと、みながみな考えているかのようだ。しかし、ここで私として性急に端的に言い切ってしまえば、そんなのは勘違いでしかない。ただし、平川氏はそういう結論に至るとしても、丁寧に論を進めていく。肯定的な側面とそうでない側面と歴史をたどりながら検討していく。
「私たちの社会には、民営化してよいものと、およそ民営化には馴染まない部門がある。
それだけではない。何でも民営化すれば良いという考え方を支えているのは合理性への信仰と、それを追求している株式会社への浅はかな信頼だろう。しかし、よく考えてみれば合理性の追求とは効率化の追求と同じであり、複雑系である人間の行動を金銭という物差しに還元する思考の中にしか存在しない。
効率化とは…金銭合理性というところに帰着してゆく。」(16ページ)
「…社会の共通資本である教育、介護、医療、上下水道、電気、郵便、輸送、通信といった分野が全て民営化されれば、サービスの質は支払った金によって差別化されることになる。支払いができないものは、サービスを受けることすらできなくなる。
公共部門とは、…国民国家を維持してゆくためには必要不可欠なもののはずである。
地獄の沙汰も金次第なんていう社会は、誰も望んでいないだろう。」((17ページ)
これは、宇沢弘文の『社会的共通資本』(岩波新書、 2000年)を踏まえた議論である。
「自己責任や、競争原理といった言葉が氾濫する風潮は、その社会のモラルを根本から変えてしまうこともありうるだろう。」(18ページ)
そんなふうに、「モラルを根本から変え」られた社会に、われわれは生きてしまっているのだろう。なぜ、こんなことになってしまったのか。
【本書の構成】
序章で、氏は、本書の構成を明らかにしておられる。
「第Ⅰ部株式会社の500年―その歴史」
「第1章から第5章までは、株式会社発生から法人資本主義全盛までの大きな流れと、株式会社を支えた思想についての歴史的考察を行う。」((25ページ)
「第Ⅱ部株式会社の「原理」と「病理」――コーポレート・フィロソフィー」
「第6章以下第12章までは、私が以前著した『株式会社という病』をベースにして、大幅に加筆修正したもの。株式会社というものは、原理的に病が内包する存在であり、自然人たる人間が不断に監視し、歯止めをかけてゆかなければ、制御不能の経済モンスター(妖怪の時代)となってしまう可能性のある存在でもあることを示す。」(26ページ)
第Ⅱ部のもとになったという2007年刊の『株式会社という病』(NTT出版)は読んでいるが、このブログで読書の紹介を始める前であった。
「終章で、グローバリズム以降の株式会社と国民国家の角逐について論じる。今日のように、先進諸国において、総需要が減退し、経済成長が難しくなると、株式会社はその存在の根本を脅かされることとなる。株式会社の生存をかけた戦いが最も安易に向かう先に戦争がある。」(26ページ)
以上で、本書の紹介としてはお終いとして良いところだが、以下何箇所か、読むべきところを引いておきたい。
【ヴェニスの商人の時代】
第Ⅰ部第1章は「ヴェニスの商人の時代」。有名なシェイクスピアの戯曲の、2004年のアル・パチーノ主演の映画の話題から入る。
「…シェイクスピアが『ヴェニスの商人』…を書いていたその時代こそ、今日の株式会社の揺籃期であった…」(32ページ)
キリスト教世界におけるユダヤ人のこと、利子、利潤のこと、文学、芸術にも造詣の深い平川氏の、興味深い議論が展開する。(平川氏は、早稲田の理工出のビジネスマン、IT企業経営者であったが、実は相当の文化人、教養人である。)
序章では、経済学者・岩井克人の名著にも触れられていた。
「…岩井克人による『ヴェニスの商人の資本論』、『貨幣論』など重要な仕事…」(14ページ)
【いびつな「経済的人間」】
第Ⅱ部に入って第6章は「経済的人間」である。「経済人」という言い方もあるだろう。経済学の最も重要な公理のひとつである。経済学は、人間がすべからく「経済人」であるという設定から議論を開始する。主流派経済学は、というべきか。人間はすべて合理的な利益を求め、効率化を求める存在であると仮定する。
言うまでもなく、人間は「経済人」であるのみではない。「経済人」であるために、感情だとか身近な人々との関係性だとか、多くのものを切り捨てなければならない。生身の人間から、多くのものを切り捨てた一種の抽象的な概念である。しかし、この抽象概念が、巨大な、コントロールしえないほどの力を持ってしまった。
「昨今は、教育の現場でも、医療や福祉の場においても、さらには家族の中でさえ、効率を追求する市場主義的な価値判断が必要以上に幅を利かせるようになっている。実学優先の風潮のまえで、学者にも病院にもビジネスマンが闊歩し、お金儲けや立身出世の役に立たない文学部や哲学科は廃止されるか、残されたとしても大学の生き残り競争に寄与できないお荷物として肩身の狭い思いを甘受しなければならない。…いまや人間とは、エドゥアルト・シュプランガーが100年以上も前に言った経済的人間(homo oeconomicus)そのものになったと言えるほど経済的価値観が肥大化した動物になっている。…人間は誰でもお金が好きであるが、お金のためだけに生きているわけではない。…お金そのものが目的で…お金によって働かされているのだという、主客の転倒が起こっている。どこかで誰かが人間を回復させる処方を書かなければならない。」(160ページ)
文学部だの哲学科だの教養だの、私など、真っ先に切り捨てられるべき種類の人間となる。しかし、「回復させる処方」を書きうる人間となりたいものだとは思う。
【ヒューマンサイズの生活、定常社会】
第7章は「株式会社の性格について」。
「…人間は経済的な発展によって必ずしも、幸福にはなれていない…。利便性を計る尺度と、豊かさを計る尺度は、そもそものはじめから度量衡が異なっている。私個人の実感としても、これまでの人生の中でもっと豊かな時代は別のところにあったように思える。…自分と世界とが調和的であり、ヒューマンサイズの生活とでも言うべきものがあった時代と言うものを思い浮かべることが出来る。」(176ページ)
「しかし、アダム・スミスが生きていた時代から1世紀経て、ジョン・スチュアート・ミルが描いた理想的な社会は、経済発展も人口増加もないが、活発な人間活動が行われ、新しい文化が創造されるといった社会であった。ミルはこれを定常状態(stationary state)と呼んだ。発展する必要のなくなった社会という意味である。そこでは、人々は経済発展のために使ってきた自分の持つリソースを、芸術や、学習や、自分の生活の質を高めるために使うことができるようになると。
しかし、歴史上、この定常状態が実現されることはなかった。」(177ページ)
「私には。今日にまで引き続いている経済発展という呪文が一つの文明の病であり、普遍性を持たないイデオロギーに過ぎないということを、ジョン・スチュアート・ミルという一人の文明人は最初から予感していたように思える。」(178ページ)
現今の生きづらい社会、グローバルで均一の尺度ですべての人間が序列化されているかのような現代社会に対して、それとは全く逆の、ヒューマンサイズの生活、生身の人間の寸法に合わせた経済活動、成長という幻想を脱却した定常社会を対置することが必要なのである。そうでなくては、人類が生き延びていくことは叶わないのではないか。
【落語「芝浜」のこと】
第12章「個人の倫理と国家の倫理」で、平川氏は、落語「芝浜」を引く。
私自身は、落語というものには、テレビを見ているふつうの視聴者として触れているのみで何ごとか語る資格は持ち合わせていないのだが、「芝浜」には泣かせられる。天秤棒を担いだしがない行商で酒好きの魚勝のはなしのあらすじは、本書において、平川氏も紹介された上で、
「魚勝にとって、大金を手にして働くことをしなくとも生きていけるというのは夢だったが、毎日勤勉に働いて堅実な生活をすることが、その夢よりも大切なことであることがわかった…」(322ページ)
「お金は大切なものである。そのため誰もが一生懸命働かなければならない。同時にお金は人の心を狂わすものでもある。それでも、お金は誰もが欲しい。だからこそ、人間はお金と交換できない何かを持っていなければならない。いや、それは誰もが本来持っているものである。それはお金では買えない。…江戸期の落語の主要登場人物であった、職人、商人、そして武士にとっては、自らの職に対する忠誠こそが、最上位に位置する価値観であったことがうかがえるのである。
時にそれは、矜持となり、時には意地となって現れる。職人は自らの腕に、商人は正直であることに、侍は美意識に、それぞれおのれの生きる倫理の価値を置いたのである。これらはいずれも計量不能の「見えざる価値」である。」(322ページ)
人間の矜持であり、意地、また広く言って人情のようなもの。お金も大切であることは論を待たないが、お金だけが大切なものではない。「計量」そのものの権化たる「お金」の、真逆にある「計量不能」のものの大切さ。
「貨幣こそが、こうした共同体的な倫理を破壊するパワーの源泉であったのだ。貨幣が壊すのは、倫理観そのものではない。倫理観を醸成する共同体のローカルな規範を、貨幣のグローバルな規範が上書きしてしまうようにして、なし崩しにしてしまうのである。」(323ページ)
現代社会を生きるわれわれにとって今必要なのは、恐るべき貨幣の力を野放しにしない意志、なのだろうと思う。
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