ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

現代思想 2022 12月臨時増刊号 総特集中井久夫1934-2022 青土社

2023-02-16 21:33:00 | エッセイ
 中井久夫氏は、2022年8月8日、88歳で病没された。その追悼号である。

【中井久夫の臨床力】
 冒頭は、精神科医加藤寛とノンフィクションライター最相葉月による対談「「こころ」を置き去りにしない社会へ」。
 加藤は、中井の『看護のための精神医学』(第二版)冒頭の「医者が治せる患者は少ない。しかし、看護できない患者はいない」という言葉を引いて、「本当に素晴らしい言葉」と語り、さらに、

「私が座右の銘にしているのが「広い意味での精神療法とは、患者にたいする一挙一動、たとえば呼び出すときの声の調子や薬を渡す手つきへの配慮を含むものである」という一文です(九頁)。…続けて先生は「これがわかっていなくて狭い意味の精神療法に熟練した人は、医師であろうと看護師であろうと、患者にたいしてかなり危険な治療者である」(九-一〇頁)とも書かれています。」(17ぺージ)

 それに応答して、

「最相 最近は精神科を受診すると先生がこちらを見ずにパソコンばかり見ていることもありますが言語道断というか、これで治るわけがない思ってしまいます。」(18ページ)

 また、最相は同書から引いて、

「最相 私は…「だれも病人でありうる、たまたま何かの恵みによっていまは病気でないのだ」という謙虚さが、病人とともに生きる社会の人間の常識であると思う」(第二版、六頁)という一文がとても好きです。この姿勢がないと、どうしても隔離や排除、差別につながってしまう。」(21ぺージ)

 臨床における中井久夫の姿が、まざまざと目に浮かぶようである。
 山中康浩(精神科医)は、「追悼・中井久夫」で、中井久夫を、名古屋市立大学精神科の、上司にあたる助教授として自分たちで選んで招聘した医局員であったが、

「われわれが、中井久夫を選んだ理由ははっきりしている。それは彼の深い洞察に裏付けられた真の臨床力であ…る。」(23ぺージ)

 杉林稔は、中井を師と仰ぐ精神科医であるらしいが、「中井久夫から学んだこと」において、記憶に残っているあるエピソードを記す。「いくつかの病院でいわゆる名医と呼ばれる有名な精神科医たちの診療を受けてきた」が、はかばかしい結果が見られなかった患者にたいして、中井が発したひと言である。

「中井はひとしきり患者の話を聞いたのちに訝しげにこう言った。「ひょっとしたら君はもう治っているかもしれない」。…それから中井は、患者がさまざまな苦痛を体験しているにもかかわらず健康な部分がたくさんあることを丁寧に説明した。それは確かに言われてみればその通りだと思えるような説得力を持っていた。
 …「もう治っている」と返すことは、それまで治療に苦心してきた名医たちを擁護することであり、また患者自身の持つわだかまりを解きほぐすことにもなる一挙両得の妙手だった。…胸のすくような見事な場面であった。」(43ぺージ)

 師匠をいささか持ち上げ過ぎと見えなくもないが、下記のところは、中井の中井らしさの一つの要点であろう。卓越した折衷派と言えばいいか。

「中井は…他の領域が得意とするアイデアや概念をサラッと使いこなした。…各領域のエッセンスを深く理解した上で、それを他の領域の概念に翻訳したり接続したりというかたちで自由に使いこなすということを難なくやってのけた。」(45ぺージ)

【中井久夫の臨床力―対話】
 森川すいめいは、精神科医、オープンダイアローグの紹介者、実践者のひとりであるが、「中井さんは対話をとても大切にされていた」と題して、オープンダイアローグに通じるものを見出す。

「中井さんは、…この日本の精神医療制度の中で対話を続けていた。精神病状が憎悪したら、できたら一五分以内、可能ならば四八時間以内に話を聞くことがいいという。往診で行くときは二名以上で行くほうがいいという。対話的であるべきだという。中井さんの行動はこころを助けた。ひとと対話し寄り添い続けそしてこうあったほうが助けになることを理解していき、そのように行動し、これを若いひとたちに伝え、本に書いた。徹底的に寄り添うひとがたどりつく世界の見え方がそこにあるのだと思った。」(54ぺージ)

【世に棲むこと―反精神医学の翻案?】
 宮地尚子(文化精神医学)は「終焉の媒介者=翻訳者」と題して、『西欧精神医学背景史』や『治療文化論―精神医学的再構築の試み』を取り上げ、

「…精神医学的なものの見方にどっぷりはまりきって患者さんを客観的に観察しようとするのではなく、観察する側である自分自身や精神医学そのものも文化的に規定されたものとして相対化する視点が、中井先生にはありました。社会の目に見えないところにも多くの治療的(therapeutic)な営みがあって人間同士がお互いに癒しあう働きをもっているのであり、精神医療はそのごくわずか一部分でしかないのだ、という視点ですね。そこは私が医療人類学を学ぶなかで考えてきたところでもあるので、先生のご著書はとても頼りになるものでした。」(35ぺージ)

 大沢真幸(社会学者)は、「リゾームではなくオリヅルラン 社会学者はなぜ中井久夫を読んできたのか」で、ドゥルーズ=ガタリを引き合いに出しながら、中井の語る統合失調症者の少数者として生きることの希望について書く。

「私たちは普通、病から回復して社会に復帰するときのベストのやり方は、心身からその病が完全に消えてなくなり、多数者と完全に同化することだと考えている。しかし、中井はこの通念を拒否する。少数者として生きるということは、統合失調症寛解者が、その統合失調症への親和性を維持したまま、社会の中にその場所を得るー患者として「世に棲む」―ということである。」(60ぺージ)

「統合失調症の患者には、人間的魅力がある。…治療者に対しては、こう提案される。「長期的にみれば、病気をとおりぬけた人が世に棲む上で大事なのは、その人間的魅力を摩耗させないように配慮しつつ治療することであるように思う」と。中井は「心の生毛」というすてきな比喩を使っている。心の生毛を剃ってはならないのだ。」(60ぺージ)

「中井久夫の寛解過程の理論は、破局や革命の後にポジティブな秩序をもたらしうる、ということについての希望を与えてくれる。同じように統合失調症を参照しながら、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』や「千のプラトー」からはそのようなポジティブなものを引き出すことはできない。」(62ぺージ)

 村沢和多里(臨床心理学)は、「流動の臨床哲学」において

「例えば、中井は『西欧精神医学背景史』において、現在の精神医学の状況を中世の森の魔女の文化や、西欧思想、政治的関係などの交錯するプロセスとして描いている。」(65ぺージ)

「…中井の理論は、「反精神医学の旗手」の一人として著名なイギリスの精神科医R・D・レインのいわゆる「分裂病旅路説」と重なる部分も多い。」(67ぺージ)

「レインは、精神病(特に統合失調症)を、家族が患者をある種のスケープゴートに仕立てることによって生み出される出来事であると論じており、また、精神医学はスケープゴートにされた患者に「統合失調症」というレッテルを貼ることで、医療行為という名目のもとに社会的排除を推し進めていく統制システムであると批判している。」(67ぺージ)

 松本卓也(精神病理学)は、「臨床の臨界期、政治の臨界期」で、巧みな少数者として生きることについて述べる。

「しかし、「ふつう」すなわちマジョリティの生き方ができるようにするというのが治療であるという素朴な考え方は、とりわけ統合失調症者に対してはときにきわめて過酷なものとなる。元来「ゆとり」がなく、「手のかからない良い子」であったり、「巧みにめだたぬ術を会得」したりせねばならなかった患者にとって、マジョリティの生き方にあらためて加入することは、「ゆきつくところも経路もわからない、安全を保障されない旅路」にほかならない。そのような危険な旅路のなかで委縮した生き方をすることは、決してありうべき回復ではない。」(132ぺージ)

「そこから、「寛解患者のほぼ安定した生き方の一つは(…)巧みな少数者として生きることである」という結論が出てくることになる。…「巧みな少数者」として生きることは、「ふつう」のひとびとと同じ世の中を生きていながらも、その「ふつう」の世の中の別のあり方を生きることである、ひいては「ふつう」ではない仕方で「思いもよらない」仕方でひらきなおす、ということにほかならない。」(133ぺージ)(下線は、原文傍点)

 松本も、R・D・レインの「統合失調症旅路説」を取り上げ、ふつうの社会のほうが「狂って」いるのかもしれないという考えを、「日本の精神医療にとって受け入れやすいように翻案したものであ」り、「ドゥルーズとガタリの「逃走線」という概念の翻案でもある」(133ぺージ)と述べる。

【回復の語彙、精神医学の回復】
 北中淳子(医療人類学)は、「精神医学の危機と回復 医療人類学から見た中井久夫」と題して、

「現在、精神医学は新たな危機に陥っている。二〇世紀末の神経科学的精神医学の隆盛は、原因解明と治療への希望をもたらした。一九九〇年代末には精神障害は脳の問題であり、薬さえ飲めば多くの問題がすべて解決できるかのような楽観的言説も蔓延った。ところが原因究明が難航する中で、…大手製薬会社が向精神薬開発から撤退し、…精神医学の前提自体が見直され始めている。」(191ぺージ)

「…統合失調症が「「魂の死」というべきものをもたらしうるにもかかわらず、生命過程が巧みに守られている」ことの不思議さを病の生態学の視点から熟考した中井の論考は、再読するたびに多くの洞察を与えてくれる。…時代が一巡したかのような印象さえある中、今こそ中井の精神科治療学が切実に求められている。」(196ぺージ)

 高原耕平(臨床哲学)は、「「回復の語彙」を探す 中井久夫と被災地の共同体感情」で、『中井久夫集11 2009-2012患者と医師と薬のヒポクラテス的出会い』からの引用をしながら、

「…「回復の語彙」という表現は良いなと思う。わたし自身にとって「心地」の良いことばなのかもしれない。被災地での精神医療や、心的外傷治療にあたっておられる医療者・専門家の方々はそれぞれにこの「回復の語彙」を体得していると想像する。では社会は災害と外相について「回復の語彙」を手にしているだろうか。…実際PTSDの診断基準となる諸症状の記述を専門書以外で目にすることも稀ではなくなったけれど、それは「悪化の語彙」であって、回復の語彙を欠いたままでは「症状への注目という悪しき「精神交互作用」」に陥るのかもしれない。」(163ぺージ)

【ヨーロッパ、あるいは神の国へ】
 伊藤亜紗(美学)は、特集の末尾に置かれた「地中海への往診 中井久夫とヴァレリー」で、中井にとっての「こころ」は人間の内部に孤絶してあるものではなく、外部の人や物との関係の中に宿るものであるという。

「私がヴァレリー越しにそうだと思い込んでいた「こころ」とは、デカルトが身体と対置させたそれであり、フロイトが自我や超自我の劇場として論じたそれであった。しかし、中井先生が日ごろ相手にしている「こころ」とは、「わたしの内面」のような人称をもつ求心的な何かではなく、むしろわたしのまわりにある人や物との関係があって初めて宿る何かだったのである。」(234ぺージ)

 そして、伊藤は、ある書物から、中井久夫の言葉を引く。

「「こころ」というのはその人を取り巻く(治療者も含む)無数の人や物との交流のなかで息づいているものだと思うんです。先にも言ったけれど、「ここ」にいる人のうちに何らかの「実在」というのかな、が目に見えないかたちで宿ったもの、局在化したものということができるかな。その人の住んでいる世界…宇宙…そういうものが…局在化したもの、と言うべきかもしれない。」(235ぺージ 村澤真保呂、村澤和多里『中井久夫との対話―生命、こころ、世界』河出書房新社2018)17ページより)

「中井先生が患者の家に往診をしていたのも、その人が暮らす宇宙を物理的に知り、また自らその一部になるためであった。」(235ぺージ)

 中井は往診してきたかのように、ヴァレリーの故郷、地中海のまちセット、自宅の書斎を描写しているが、

「中井先生は実際にセットに行かれたことはなかったようだ。もしこの「地中海への往診」が実現していたらどんなに素晴らしかっただろうと思う。」(236ぺージ)

 特集の冒頭近くに戻ると、上野千鶴子は「中井さんは「神の国」へ行ったのか?」と題して、中井が「大好きなおじさま」だと書いている。

「バレンタインズ・デーにチョコレートを送る、大好きなおじさまがわたしには三人いた。そのおひとりが、中井久夫さんである。」(29ぺージ)

 中井による「ギリシャの詩人、カアヴァフィスの訳詩集」のことや、これはむしろ上野自身にとっての問題であるフロイトがすでに気付いていた(のに封印した)家庭内の娘に対する性虐待の存在について記し、そこからPTSDの問題についての中井の貢献を語ったあとで、

「わたしにとって最大のショックだったのは、中井さんのカソリックへの改宗を知ったときのことである。あに中井さんが?人生の最後に神に救いを求めるなんて?!」(32ぺージ)

 上野が納得できずに中井に訊ねると、

「そうだね。便利なものだね」(32ぺージ)

と答える。

「中井さんは大きな「謎」を残して去った。」(33ぺージ)

 カトリックは、便利なもの。
 岩手県大船渡市在住の外科医にして、「ケセン語聖書」の翻訳者山浦玄嗣は、カトリック者であるが、その著書『イエスの言葉ケセン語訳』(文春新書2011)を読むと、その含意に得心がいくかもしれない。

 さて、この特集には、以上のほか下記の論考が掲載されており、それぞれ紹介したいところではあるが、ここまででも相当のボリュームとなっており、涙を飲んで割愛させていただく。
 ただし、齋藤環、東畑開人の対談については、その2として稿を改めたい。紹介し、考えてみたい分量が多い。

桧垣立哉(哲学)「予兆を制する予兆」
山森裕毅(哲学/記号論)「中井久夫と回復のマイナー科学」
江口重幸(精神科医)は、「中井久夫の「方法への回帰」」(『私の日本語雑記』を取り上げて)
松本俊彦(精神科医)「中井久夫と依存症治療」
牧瀬英幹(精神分析、精神病理学、描画療法)「風景更生法「風景になる」ということ」
小泉義之(哲学)「精神病棟の始末 中井久夫寛解過程論再訪」
上尾真道(精神分析思想史)「治療の〈風景〉の構成 二〇世紀精神医療史の中の中井英夫」
美馬達哉(医療社会学、神経科学)「失われた抵抗を求めて楡林達夫を読む」
中村明(日本語文体論)「『私の日本語雑感』寸感」


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