聞き手は、鵜飼哲夫氏。
これまで重篤さんの刊行された書物は欠かさず読んでいるはずだが、聞き書きの形態ははじめてだと思う。聞き手の聴く力によって、自らペンをとって書く場合とはまた違ったものが読める、ということになるのかもしれない。自分ひとりではあえて書くという発想とならない経験や記憶が、聞き手の問い口の良さによって引き出される。
最後のあとがき風対談にこうある。
「畠山 いやぁ~、なんかね、かなり裏話っていうか、初めてしゃべるようなこともずいぶんありました。やっぱり聞き上手だからね(笑)。
鵜飼 いや、お話が面白いので細部を伺うと、そこでまた興味深いことを語られる。ですから当初三〇回の予定だったのが、取材のたびに回数が増えて三六回。「読売新聞」の連載「時代の証言者」の中でもかなり長いものになりました。
畠山 お陰というか、妻とのなれそめから、ふだんは面と向かっては言いにくい妻への感謝も言葉にできました。」(173ページ)
そうそう、奥さんとのなれそめもはじめて伺った。塩釜女子高校生物部でプランクトンの研究をなさっていたとは。まさしく、重篤氏の妻となられるべきひとであった、というべきである。
さて、プロローグにこうある。
「舞根湾は天国のような海です。」
幼いころから育ち、現に住まっている場所を「天国のような」と語ることができるというのは、いったいどういうことだろう。こんな言葉を言えるひとが、この世に存在しうるのだろうか?
ここに存在した、ということである。宮城県気仙沼市唐桑町舞根に。
畠山重篤は、天国のような舞根湾において生きてきたのである。
なんということだろうか。
第1章「少年時代」で、幼いころの記憶が語られる。決して裕福だったわけではないが、自然の生き物に恵まれたまさに天国のような海辺である。そして、もう一方には、書物がある。
「貧しいから、めったにものは買ってもらえませんでしたが、両親は町に出ると、一冊づつ本を買ってきてくれた。生き物好きでしたから『シートンの動物記』などを愛読し、いつしか読書感想文を書くと入賞するようになりました。思い出深いのは小三のころ、母親に読んでもらった『グスコーブドリの伝記』です。」(22ページ)
2冊目の著書『リアスの海辺から』(文春文庫)の前半は、自ら筆を執って描いた少年時代のことであった。舞根湾での生活である。一読、これは、海の宮沢賢治か、と。岩手県内陸の農の宮沢賢治に対して、リアスの海辺の漁の畠山重篤と並び称される、そんなことがありうるのではないか、と興奮したものである。
興奮のままに、そのことをお話しした折には、あからさまに肯定されるでもなく、にこにこと黙って聞いておられたように思う。
当時、重篤氏の文章力は、聖書を読みこんだところに大きく拠るものかと想像したものだが、シートンの動物記でもあり、宮沢賢治でもあったわけである。考えてみれば、この地にあって、宮沢賢治に出会っていないわけはない、ともいうべきであるが、今回、文字で改めて確認できたということになる。
「森は海の恋人」という名称のもととなった「森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく」の歌を詠んだ熊谷龍子氏のエピソード、
「まるで歌から出てきた森の妖精のような方でした」(63ページ)
とか、『リアスの海辺から』の後半にまとめたリアス式海岸の本家、スペインの巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラのこと、
「スペインの川の流域はそれほど森が豊かで、「エル ボスケ エス ラ ママ デル マル」、つまり、「森は海のおふくろ」という言葉があることも知りました。」(85ページ)
とか、『牡蠣とトランク』(ワック)に詳しい、震災後のルイ・ヴィトンとの関り、
「ヴィトン社のルーツは木のトランクなので、森林を大切にする気風があるとの説明で、かねて「森は海の恋人」の活動に関心があったというのです。」(106ページ)
とか、これまでの著書で詳しく紹介されたエピソードが、分かりやすく簡潔に触れられている。
ところで、「森は海の恋人」を英語でいうとどうなるか、ということについて、NPO法人森は海の恋人のHPの冒頭にも記されているが、
“The forest is longing for the sea, the sea is longing for the forest”
(森は海を恋い、海は森を恋う。)
ということになるらしい。“long for~”というのは、何かに恋い焦がれる、とか、慕うとかいう意味とのことである。
この英訳については、当時の美智子皇后陛下が考えてくださったとのエピソードがあって、重篤氏自身、朝日森林文化賞受賞後に面会が叶ったという流れの中で、とても大切に語られている出来事である。当然、著書にも書かれている、と思ったが、ちょっといま、見つからない。何かの映像では語っている姿が記録されているようだ。私自身は、直接うかがっている。ご自宅の坂の途中の書斎でだったか、気仙沼バプテスト教会での講演のときだったか。重篤氏の半生、といったとき、相当に重要な話題ではあるはずである。
重篤氏は、2012年1月から2年間、読売新聞の書評委員を務められた。(鵜飼哲夫氏は、編集委員で、このときの担当デスクだった由。)そこで、山浦玄嗣氏のお名前が登場した。
「ちょっと話が前後しますが、震災の年の晩秋、読売新聞から書評をする委員への就任依頼がありました。
…(中略)…
最初の書評は、津波で経営する医院が半壊した岩手県大船渡市の医師、山浦玄嗣さんによる『イエスの言葉 ケセン語訳』でした。」(107ページ)
読売新聞の書評は読む機会に恵まれていないのだが、これは私としては驚きであった。
山浦さんは、お隣岩手県気仙地方の大船渡市で開業する外科医師であるが、「ケセン語」の研究者であり、カトリックのクリスチャンであり、ケセン語訳聖書の翻訳者である。小説家であり、劇作家、演出家、役者でもある。
このお二人、三陸リアス海岸南部(旧伊達藩、上代のケセン地方ともいえる)の湾奥に住まい、美しく力強い言葉をものする卓越した語り手、書き手であり、かたやはプロテスタント、かたやはカトリックのキリスト者である。私にとって大きく屹立する先達、巨大な山壁であるような存在である。
このお二人の対談を、できれば私が聴き手を務めて実現したい、というのが、実は、私にとっての夢である。私の知る限りでは、このお二人、まだ直接の面識はないはずである。
ところが、すでに、重篤さんは、山浦先生の著作を、書評で取り上げられていた。この事実を知ったことが、この本の読書で、最大の驚きであった。
さて、「天国のような舞根湾」である。
いま、NPO法人の副理事長を務める三男の畠山信氏が中心となって情報発信されているが、震災後、舞根湾の奥の休耕田が干潟、汽水域として生まれ変わろうとしている。どこもかしこもコンクリートの防潮堤に囲まれてしまった海岸線のなかで、ここだけは、新設工事が行われず、あろうことか、既設の防潮堤を取り壊すなどという、世の常識では想像もできないような工事が行われた。
熊谷龍子氏の「森は海の恋人」に関わるもうひとつの重要な歌がある。
「森と海と溶け合うという汽水域 朝靄のようならむ水の濃度は」
※下記は参考まで。
畠山重篤 牡蠣とトランク ワック株式会社
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/7711b7ef5daedde7125d18ff233430b2
山浦玄嗣と畠山重篤
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/04b5e255b729b6cb912193de74c983ab
熊谷龍子 森の窓から [歌とエッセイ] 遊子堂
https://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/e74067f02523d6b6ef07c26f120a028f
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