副題は、「今この瞬間に他者を思いやる」。
オープン・ダイアローグ関係では、このブログで紹介するのは6冊目となる。雑誌の特集で抜けているものもあると思うが、国内で刊行された単行本はすべて読んでいることになるかもしれない。私も、ずいぶん入れ込んでいるものだ。
原題は、“Open Dialogues and Anticipations”であり、この邦題は直訳である。だが、この直訳は、むしろ、内容を踏まえた意訳、より正確に内容を表現するための翻訳たりえているようにも思える。
本書は、フィンランドに発祥し、いま、日本でも大きな注目を集めている「オープン・ダイアローグ」と「未来語りダイアローグ」についての決定版ガイドブックであり、それぞれの創始者による著述、日本への紹介者の監訳による紹介書である。紹介書というよりも、最も包括的で決定的な理論書であり、これらのダイアローグが今後世に定着するにつれ、まず第一に参照すべき原著ということになるのだろうと思う。
タイトルのOpen Dialoguesとは、そのまま「オープン・ダイアローグ」だし、Anticipationsは、未来とか、先取りすることとか、期待とかいう意味になるが、Anticipation Dialogues(未来語りダイアローグ)の「未来」である。
だから、書名としては、「オープン・ダイアローグと未来語りダイアローグ」でもよかったはずである。では、なぜタイトルを「開かれた対話と未来」と名づけたのか?
それは、狭く固有名詞であるよりも、広く普通名詞であることを選択したということなのだろう。具体的個別的な手法の名称の列記であることを超えて、社会により広く浸透し、展開していくことへの期待が込められている。この書物が、二つの優れた手法、現実に活用されているシステムの紹介であるにとどまらず、現在の社会が「開かれた対話に満ちた未来」を有するものに生まれ変わっていく、そういう期待。この対話という方法は、社会に大きな変革を迫るような思想でもあり得るのかもしれない。
著者は、「はじめに」にこう記している。
「本書ではこれから、対話について、「対話性」について、ポリフォニー(多声性)について、間主観性について、そして社交ネットワーク[=人間関係のネットワークのこと]について検討しようと思います。対話性とは技法のことではありません。それはある種の立場や態度、あるいは人間関係のあり方を指す言葉です。その核心にあるのは「他者性」というものとの根源的な関係です。」(36ページ)
対話とは、単なる技法ではないという。技法を超えたもの。実際に実践され、実効ある手法でありながら、同時に思想的、哲学的な出来事であるということになるのだろう。
哲学だ、思想だというと、何か、実際には役に立たない絵空事、空理空論と捉えられる危険性がある。しかし、そうではないのだ。
私などは、ものの本をそれなりに読んできて、思想だとか、哲学だとか、文学だとか、実社会には何の役にも立たないと謗られてきた、みたいな被害妄想はどこかにある。(実際のところは、市役所職員として仕事するうえでも、地域に生活するうえでも、哲学や文学は相当に役立ってきたと総括してはいるのだが、一般的なイメージとしては、というか、実社会のなかで活躍する生活人、特に経済人から仮想敵として扱われるひ弱な、そうだな、文弱の徒みたいな。)
哲学、思想が、実際の局面で役に立っていると改めて示されるということは、私にとって、有難いことであり、ある意味、驚きですらある。いや、これは当然のことであって、驚いていてはいけないのだろうが。
「私と他者が、ある出来事において。お互いの存在を肯定し認めること。これが私と他者にとって、ただ1つの大切なことです。後にバフチンはこの手法をドストエフスキーの小説の批評に用い、関係性における対話主義を主張しました。バフチンによれば、ドストエフスキーの小説においては、1人の主人公が人生の真実を背負って立つのではなく、すべての登場人物がそれぞれの否定しがたい真実を持っています。人生を生き抜くただ1つの方法は、自立した個人と個人の対話を続けていくことだけ。バフチンはこれを「ポリフォニック(多声的)な生」と呼びました。」(37ページ)
バフチンは、ロシアの哲学者、文芸評論家で、まさしくドストエフスキーの文学をポリフォニーと論じたことで知られる。ドストエフスキーは、言うまでもないが「罪と罰」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」などの小説で知られるロシアの作家。人類史上最大の小説家と言っていいのだろうな。今後の人生の楽しみとして、いつか読み返したい作家のひとりである。
上の引用にすぐ続けて、
「私たちは対人援助の仕事において「対話性」の本質を探ってきました。そこで他者の尊重と、かけがえのない他者性の大切さに気づきました。この他者性こそ、日常において、あるいは心理療法、教育、管理経営、ソーシャルワーク、そして人間関係にかかわるあらゆる活動において共通する対話の核心です。」(37ページ)
と、この本の紹介はここまでにして、あとは直接わくわくする読書体験をどうぞ、と切り上げてもいいのだが、薬の問題というのが、やはり出てくる。
〈薬物偏重の時代は終わった〉との小見出しに続けて、
「何十年もの間私たちの西欧世界においては、実験室のような設定のもとで実証的な研究を行い、環境から現象を分離するやり方が正しいと信じられてきました。メンタルヘルス研究も例外ではありません。事実、精神医学領域では、1950年代に初めて抗精神病薬が登場してからというもの、製薬会社は新薬開発のため神経生物学研究に多額の投資を続けてきました。精神病のみならず、うつ病、不安障害、依存症その他のさまざまな障害に対する治療薬が求められたのです。」(44ページ)
これなんだよな。大きな問題がここにある。「薬物偏重」。
生半可な科学偏重主義。生半可なのに経済と結びついて身動きできなくなっている。生半可なのに極限まで行き過ぎたエヴィデンス偏重主義。いつでもどこでも同一の取り扱いを求める過剰なマニュアル化。生身の人間はどこに消えてしまった、みたいな。
このところをあんまり深く追及すると、現代社会に生きづらくなってしまうみたいな問題。特に医療業界には住みづらくなるのだろう。
地域社会で生きていくうえでも、この問題の取り扱い方は、よっぽど慎重でなくてはならない。やれやれ。
「薬物偏重以外にも、この分野ではさらなる細分化が起こりました。…この動向は人間のとらえ方を一層断片化し、人間を症状照準型の治療の対象に変えてしまいました。しかし…この種の実践は袋小路に向かっています。なぜなら、最初の抗精神薬の開発時になされた一大予測がいっこうに成就しそうにないからです。」(44ページ)
訳注によればこの一大予測とは「精神疾患は生物学的な原因から起こっており、その原因のほとんどは薬物によって解決できる」というものである。
言い換えれば、「精神疾患は、生物学的な原因からのみ起こっているとは言えず、一部を除いては、薬物によって解決できるとは言えない」ということである。ただし、急いでつけ加えれば、薬物で治療できる精神疾患もある、ということでもある。
デカルト以来の心身二元論というか、プラトンのイデア論以来と言ってよいのかもしれないが、いわゆる西洋哲学的なというか、俗流科学的なというか、そういう考え方と、仏教的な心身一如というか、東洋的叡智というか、そういう思想の二大潮流の話でもあるのだが、そんなことを言っても、通じる人には通じるし通じない人には通じないということになる。
いずれ、フィンランドを中心に、現実的な効果が実証されている、この積み重ねは、虚心坦懐に、曇りのない目で、しっかりと見なければいけないわけである。この事実の積み重ね、この現象こそ、デカルト的な明晰判明知を働かせて受け止めていかなければならないはずである。狭い意味での実証実験によるエヴィデンスに固執するのは、本来の科学的態度ではないはずである。
「対話的実践は、一個の人間であるクライアントとのミーティングにおいて、まったく新たな可能性をもたらします。いうまでもなくこの実践は相互性にもとづいており、しばしば被援助者や専門家を戸惑わせるものです。実際、対話が持つ治癒力にはいつも驚かされますし、ときに謎めいた感じすらするほどです。
どうも変化のかんどころは「相手を変えるための戦略的介入」などとは別の場所に生じているようなのです。私たちは本書で、この不可思議な現象の本質を探究していきたいと考えています。」(45ページ)
ここに、「相手を変えるための戦略的介入」という言葉が出てくる。
戦略的とは、ここではいい意味ではつかわれていない。むしろ悪しき意味である。戦略的介入とは、人間のここに働きかければこういう変化が生じるはずだ、このボタンを押せばこういう反応が返ってくる、だからここではこういう対応をとって、患者をこういう風に改善していこう、そこから治療していこうとする、そういう振る舞いのことだろう。心理の専門家は、そんなマニュアルを学んで、知識として持っているに違いないと、一般には思われているかも知れない。ひょっとすると専門家自身、そんなふうに勘違いしている場合すらあるかもしれない。
ところが、そんなマニュアルなどどこにもないのだ。そんな便利なボタンなどどこにもない。
専門家も患者も家族も関係者ぜんぶ、ひとりの人間として平場で対話する。いまここの一回性のなかで対話し、行動して解決策を共に探っていく、というようなことだろうか。
ところで、だからと言って、専門家の役割が否定されているわけではない。支援者としての専門家の役割は、そのまま、非常に重要である。
いずれ、この本には、「相手を変えるための戦略的介入」などとは別の、オープン・ダイアローグと未来語りのダイアローグによる「不可思議な現象」が、詳しく紹介されている。驚きにあふれた、読むべき書物である。
(そのつどそのつどの「いまここ」の一回性か。これは、この先、私自身が考えを深めていく上でのメモ。)
最後に蛇足ともなるが、やはり、オープン・ダイアローグと、鷲田清一氏らによる「哲学カフェ」とは親和性が高い。どちらも「対話」の持つ力を基盤として成り立っていると言えるのだろう。私が行っている「気ままな哲学カフェ」の場でも、なにかその不思議な力は実感している、というふうに言っておきたい。
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