ぼくは、霧笛の創始者ではない。創刊号は、西城健一氏と故小野寺仁三郎氏のおふたりでの発行だった。
西城氏に誘われた時、丁度、一冊目の小詩集「湾」を出した後で、(ブックレット1と銘打ち、引き続き、小説やら、詩やら発表するつもりだった。)とりあえずの腰掛、お手伝いぐらいの感覚で、第二号から、参加した。
ちょっと肌合いが違うぞ、とも思った。
お会いしたのは、当時、内ノ脇の踏み切り近くにあった「珈琲館ガトー」。ガトーのことは、書き出すと長くなる。
たしか、窓際のテーブル席に、仁三郎さんと西城さんと並び、向かいにぼくが座っていた。
今から三十年前、二十年前には、喫茶店という場所に、特別の意味合いがあった。格別の場所であった。喫茶店文化という言葉があった。
ひょっとすると、今は、そういうことは、ちょっと想像がつかないかもしれない。
吉祥寺、高円寺、下北沢、ジャズ喫茶、ロック喫茶、ライブハウス。
気仙沼で、「ガトー」は、そういう場所であった。
ガトーのマスター、故吾妻博氏。この名前を書くだけで、目頭が熱くなる。
ぼくも、四十六才になって、ぼくが経験したさまざまなことが、人生の中でどれほどの重要性を持った出来事であったか、測れるようになってしまった。
「かつて、気仙沼に珈琲館ガトーという店があった。」というものいいが、少なくともぼくにとっては、深い意味を持つ、と確実に言える年齢になってしまった。
吾妻博氏は逝き、ガトーは既にない。
霧笛はある。現存する。
小野寺仁三郎氏は逝ったが、西城健一氏は健在である。今日も、恐らく、市の西北の八瀬の大地を踏みしめて、元気に、詩を書いている。
ぼくは、相変わらず、県の東北の港のまちで、夢見ごこちに転寝している。
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