鷲田清一である。
【哲学者永井玲衣氏によるインタビュー、哲学と表現】
冒頭は、永井玲衣氏による鷲田氏へのインタビュー「哲学を汲みとる」。
永井氏は、上智大学で博士課程まで哲学を学ばれ、立教大学の兼任講師を務められているようである。『水中の哲学者たち』(晶文社)をものされている。
インタビューにあたって、永井氏はまず、鷲田氏の言葉に「くりかえし出会い直している」と語る。
「人びとと哲学する対話の場をいろいろなところで開いたり、文章を書いたりしています。今回鷲田さんにお会いできることが嬉しいのは、、哲学と共に生きる中で、くりかえし鷲田さんの言葉に出会い直しているからだと思います。私は…、「哲学する」ということと「表現する」ということがとても密接であり、哲学することこそまさに表現であるいうことを受け取ってきました。」(p.9)
立教大学の哲学というと、震災後くりかえし気仙沼図書館を訪れ、哲学対話の場を開いていただいた河野哲也氏がおいでである。永井氏は、鷲田氏の直系の弟子筋ということにはならないのだろうが、現在の日本の哲学界において、臨床哲学、哲学対話、哲学カフェが大きな潮流となっており、その流れのおおもとに鷲田清一が存在していることは間違いないと言っていい。
永井氏は、その潮流の先端に位置を占めた新進気鋭の哲学者ということになるのだろう。(早速、いま、その著書を注文した。)
しかし、「哲学と共に生きる中で」と、さらりと言える、というのはずいぶんと羨ましいことである。職業としても哲学を選びえたのであるから、当然のことではある。いや、私だって実は、大学に入ってから、いや、その準備期間たる高校生の頃からとは十分に言えるはずだが、哲学と共に生きてきた。職業生活においても、表現活動においても、つねに哲学は、立ち戻る参照点として存在してきた。「気ままな哲学カフェ」主宰を名乗ってもいる。
【哲学は軽はずみで優しい試み】
鷲田氏は、永井氏の問いに応答して、哲学と表現について次のように語る。
「…僕は表現というのは考えること自体だと思っています。表現は、…表現以前にある自分の思考や感情を表出することではなく、むしろそのつど自分を編み直していくことだと思います。…表現するものとされるもののあいだには、いつも何らかのずれがあって、そこに幸福な一致はない。」(p.9)
鷲田氏の哲学する営為において、『マリ・クレール』との出会いは、大きな出来事であっただろう。
「僕自身、三〇代の半ば…までは、表向きには、「学校哲学」や「哲学―学」と揶揄されてきたバリバリの「学術」論文ばかり書いていました。…それから『マリ・クレール』で思想や学術関係の書評をするようになりました。ファッション論を始めるより前のことです。当時の『マリ・クレール』には映画評や書評の欄がたっぷりあり、思想の本もしょっちゅう取り上げていました。」(p.9)
雑誌『マリ・クレール』の日本版といえば、編集者安原顯であり、吉本隆明とか蓮實重彦とかが活躍していた。吉本が、コムデギャルソンを着て登場したのは「アンアン」だが、まあ、その辺の雰囲気である。ファッションが時代の先端で、思想の先端でもあったような時代。哲学も、ファッションのように軽やかに、重苦しい旧時代から逃走しようとした時代。
「ヨーロッパでは「エッセイ」というと、もちろんモンテーニュの『エセー』やパスカル的なエッセイもあるけれども、他方で…緻密に論理を導いていくエッセイ、つまり試論もある、とても広くて自由、まさにessayer=試みるということです。…僕は哲学のやり方をもっと自由にしたいし、してきたつもりです。…哲学はもっと「軽はずみ」の言葉でやっていい、「試み」だということです。」(p.10)
鷲田氏は、哲学が、軽はずみな試みであっていいものであり、興味深い発見に満ちたものであるとともに、「本質的に優しいもの」だと語る。
「僕が哲学に惹かれたのは、一つには哲学がとても発見的だからです。…
それからもう一つ――これが僕は一番大事だと思うのですが――哲学は本質的に優しいものだということです。」(p.12)
【哲学カフェ、あるいはケアの場】
「ケア」という言葉が登場する。
「『水中の哲学』のなかで永井さんは、哲学する、思考するというのは知のケアだといっておられますね。」(p.12)
ここでのケアは、「サッカー選手のボールのケア」や、「狩猟民族の野性的な知覚のケア」(遠くの音や枝のそよぎを感知すること)に似ているという。
「哲学もまた思考をケアする。だとすると哲学に固有のセンスとは、考えることの発見性や優しさ、野生といったものをつねに手直ししながら活かしていくものだと思う。僕が哲学にもフィールドワークが必要だと考えるのも、そういうところからです。」(p.13)
注視するという意味の「ケア」は、もちろん優しく人を見守り手をかけて世話をする「ケア」でもある。
哲学カフェについて、鷲田氏がひとしきり語った後、永井氏が
「哲学カフェに来てくださる方も、こんな場所はなかったと言ってくださる。哲学カフェのようなみずみずしい哲学の場が…立ち現れていく…」(p.15)
「哲学をするときに使う身体の器官というと、すぐに「頭」となってしまうところを、鷲田さんが「聴く」、つまり、「耳」が前景化してきたのは衝撃でした。」(p.16)
「聴く」ということは、語り手があってはじめて成立する受け身の行為ではあるが、決して受け身のみで終わることではない。ある人が、他の人の語ることを、積極的に聴きに行くという姿勢がある。「能動」と「受動」を包み込んだと言えばいいか、國分功一郎氏のいう「中動態」的な出来事である。安心して語ってもらえる場を、能動的につくることでもある。
鷲田氏は、続ける。
「哲学カフェでは、…特に大切なのは安心して話せる、あるいは安心して黙っていられるということです。参加者は初対面に人と話すとき、こんなことを言ったら誤解されないだろうかとか、誰かを傷つけないだろうかとか、つい不安になったいます。だから、ふだんなら怖くて言えないようなこともここでは口にできるという安心感をどう作るかがとても重要です。」(p.17)
私が何度か行ってきた「気ままな哲学カフェ」の場も、それまで誰もが経験したことのないような安心して話せる、聴ける場所とはなっていたようだ。参加者は、くちぐちにそう語った。
「臨床哲学のフィールドワークを始めた一九九〇年代は、「ケア」といえば何よりもまず看護と介護の世界のいとなみのことでした。その「ケア」という概念を極限にまでひろげたかったのです。…人にはそこにいるだけで他者のケアとなっているような場面がある。」(p.19)
と、以上、冒頭の永井玲衣氏との対談の紹介をさせていただいた。ここまでで、鷲田清一の哲学の魅力への導入の端緒とはなっただろうか。
【なまめかしいテキスト、その他】
以下、40名ほどの「エッセイ」が続く。そのすべてを紹介したい思いはあるが、私の読み親しんだ著者たちを中心に、何人か簡単に触れておきたい。
二本目には、宗教人類学の植島啓司氏が「鷲田さんとの交流」と題し、若い頃関西大学哲学科での同僚であったが「『モードの迷宮』の最初の原稿を受け取ったときの衝撃はいまでも忘れられない」と記し、以下のように鷲田氏の文章を引用する。
「ファッション・シーンにくりかえし登場するミニ・スカートやシースルーのブラウス、あるいは風がそよ吹くたびに身体の輪郭をなぞってしまうフルイド・ルック、長い切れ込みを入れたスリット・スカート…それは誘惑しながら拒絶し、欲望を煽りたてながら同時に挫いてしまうのだ。」(p.28)
なまめかしい誘惑と拒絶。拒絶されるからこそ誘惑される。あるいは、決してたどりつかないことをこそ欲望する。
ボードレールの“Je te haine, autant que je t’aime.”(おまえを愛すれば愛するほどに、おまえを憎む)という詩句を思い出すような、人間の欲望の根幹に迫るテクストである。
詩人の佐々木幹郎氏が「触れること、見守ること―鷲田清一との三十五年」を書いている。
もう十年近くも前になるだろうか、仙台メディアテークで、鷲田氏の弟子にあたる西村高宏氏がファシリテーターを務める哲学カフェに参加した折、会場の一番後ろで、鷲田氏と共に、佐々木氏が静かに聴いておられた。このときは、私の詩「船」を、妻と二人で朗読させてもらったのだった。会場参加者の発言のひとつとして。
高橋源一郎の「鷲田さんの「授業」を受けた」とか、東北大学総長だった野家啓一が、「臨床の知や臨床哲学を唱えた中村雄二郎」(と木村敏)のことに触れているとか、哲学の小泉義之が、鷲田氏が“べてるの家”に触れていることなど書いているとか、ノンフィクション作家の柳田邦男の「「傾聴」の進化、祈りへ」とか、京大総長だった霊長類学の山際寿一の「やわらかい思考と実践の哲学者」なども紹介したいところだが、ここでは割愛する。
【感度のよい身体と精度の高い文体】
内田樹の「鷲田さんの哲学」から、一部、引用する。これは、よいまとめになっているだろうか。
「感度のよい身体と精度の高い文体の二つを武器にして、鷲田さんは自分の哲学を創り上げた。これは本当に独創的な仕事だったと思う。ただし、これは鷲田さんだけのものであって、余人が模倣することを許さない。だから、これからあと「鷲田派」や「鷲田主義者」が哲学史の上に登場することは決してないはずである。…奇跡的に一回的に現われたものであり、後世の読者たちはその光芒を辿ることで満足しなければならない。」(p.171)
そうそう、コシノヒロコ、堀畑裕之(matohu)など、服飾デザイナー、ファッション関係の方々も6名ほど書かれていることを付け加えておく。堀畑氏は『言葉の服―おしゃれと気づきの哲学』(トランスビュー社)を読ませていただいた。最終章は、鷲田氏との京都の町歩きをしながらの対話である。
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