齋藤環氏は、精神科医、オープンダイアローグの日本における紹介者で、このブログでは、このところ立て続けに登場している。
與那覇潤氏は、歴史学者、私として読むべき著者のひとり、と思っているが、実際に読んだのは、同じく歴史学者の東島誠氏との対談『日本の起源』(太田出版)のみであった。2013年に読んで、ブログに掲載している。
與那覇氏は。「まえがき」にこう書く。
「ぼくと齋藤環さんとが、この本で提案したい処方箋はただひとつ、「対話」である。
本論で詳しく見ていくけれど、「飲めば必ず治る」ような奇跡の精神病薬は発明されていないし、「毒親」や「モンスター上司」といった諸悪の根源的な存在を見出して、それを殴り倒すことで病気が治るわけではない。そうした幻想は、「心の時代」と呼ばれた平成——世界史的にいえばポスト冷戦期の三十年間に、当時は相応の背景があって流布したものだ。だけど決して特効薬じゃない」(7ページ)
全世界的に妥当する「ひとつの正解」を求める心性、全世界的に妥当する公正な競争の条件を求める傾向、正解者と非正解者を、白と黒に明確に区分する傾向、正常者と非正常者を明確に区分する傾向、それは、障壁なく全世界のなかで正解の数を競い、順番をつける傾向につながる。すべての人間が、全世界の全人類の能力順位のものさしのどこかに位置づけられることを求めるかのような傾向。端的にそれは地獄でしかない。
実際は、そんなものさしはどこにもないし、これからだって絶対に作り出せないのだが、実は、貨幣はそんなものでもありうるかのように機能してしまっている。そこで成り立つのが、新自由主義だとか、市場経済至上主義だとか、金融資本主義だとか、おおざっぱに言ってしまえばそんなものだ。
金になるものが正解、金を稼げるのが正常。使える金の多寡が人間の価値。
そんな勘違いが、世界を覆っている。日本の社会にもそんな価値観が覆いかぶさっている。くわばらくわばら。
しかし、そんなのは、勘違いでしかない。
とは言っても、私がここで勘違いだ、と看破した、宣言したからといって、すぐにどうなるというたぐいの勘違いでもない。相当に根深いものがある。
と、いささかタガが外れたようにおしゃべりが過ぎてしまった。
(ここらあたりは、このところの私自身の考えであるのではあるが、たまたま平川克己氏の「路地裏の資本主義」(角川SSC新書)のこのブログでの紹介を読み返してみたら、その行論の引き写しのようなものでもある。)
閑話休題。
「だから、ぼく自身がそうだったように、心の病気でクリニックに通い出すと、かならず途中で後悔するタイミングがある。言われたとおりにしているのに、全然治らないじゃないか。むしろ副作用でもっとひどくなっているんじゃないか。…そんな具合だ。」(8ページ)
お金を払って治療を受けて、薬も飲んでいるのに、さっぱり良くならない、かえって悪くなるということすら生じるわけである。
「そうなってしまったとき、どう乗り越えるのか。その手段が対話だと思う。疑問や違和感を言葉にし、ただしどちらも一方的に見解を押しつけることなく、コミュニケーションを続けること。問題は完全に解決はしないけど、でも少なくとも一人で思考の堂々めぐりをしているよりは「楽」だから、もうちょっとこの関係を続けてみようと思えること。
そうした条件が整うことで、はじめて治療は継続できるし、結果としていつか「治る」。」(8ページ)
対話を継続することで、結果としていつか「治る」。
ここらは、もちろん、オープンダイアローグに通じる機微である。
「本書で行われているのは対談であって、治療ではない。けれども齋藤環さんは上記した意味で、ほんとうに「よい医者」だった。とりあげる話題はうつ病や発達障害、ひきこもりといった疾患のみならず、ふつうの日本の家庭や学校、職場、インターネットで広く生じている問題や、それを考察するツール(精神分析や現代思想)の長短にまで及んでいる。」(8ページ)
与那覇氏は、まえがきをこう閉じる。最終章を読み終えて、もういちどこのまえがきに立ち返ったそのときに、
「そのときたぶん、あなたは「対話」というものに、きっといまよりももう少し、期待をかけてみたくなっているはずだ。」(9ページ)
ということで、この本を読むことに、いやがおうでも期待が高まることになる。
ところで、与那覇氏は、回復した元患者であり、斎藤氏は高名な精神科医であるから、何というんだろう、与那覇氏が問題を体現するケースとなって、斎藤氏が専門家として解説を加えていく構成なのかと先入観をもって読み始めるところだが、どうもそういうことではなかった。患者と治療者による、症例研究的なレポートではない。
与那覇氏が問題設定し、回答を考えていく部分も多い。考えてみれば、すでに何冊も著作をものしている歴史学者であるから当然ではある。斎藤氏と与那覇氏が、対等な立場で共同作業として対話を進めた記録である。
斎藤環氏は、あとがきでこう書く。
「対談の仕事は無数に引き受けてきたし、対談本も何冊か作ってきた。それでも本書ほど濃密なものは前例がない。…ひょっとしたら通常の単行本以上にさまざまなアイディアがつまっているかもしれない。
本書は、「対話」にはじまり「対話」に終わっている。ただし、ここでいう対話とは、合意や決定につながる対話ではない。自分と相手の違いをふまえて、それをさらに深堀するようなやりとりを「対話」と呼んでいるからだ。」(271ページ)
本書の章立てを紹介しておきたい。興味を惹かれる項目が並んでいる。
第1章友達っていないといけないの?——ヤンキー論争その後
第2章家族ってそんなに大事なの?——毒親ブームの副作用
第3章お金で買えないものってあるの?——SNSと承認ビジネス
第4章夢をあきらめたら負け組なの?——自己啓発本にだまされない
第5章話でスベるのはイタいことなの?——発達障害バブルの功罪
第6章人間はAIに追い抜かれるの?——ダメな未来像と教育の失敗
第7章不快にさせたらセクハラなの?――息苦しくない公平さを
第8章辞めたら人生終わりなの?——働きすぎの治し方
終章結局、他人は他人なの?——オープンダイアローグとコミュニズム
末尾に、斎藤氏、与那覇氏によるそれぞれ10冊づつの読書案内が掲載されている。斎藤氏は【「対話」によって人間関係と自分自身を変えるための10冊】、与那覇氏は【重い病気のあとで新しい人生を始めるのに役立った10冊】。まだ読んだことのない本が過半であるが、これから読んでみたいと思わされる。
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