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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

森岡正芳・東畑開人編 臨床心理学増刊第14号 心の治療を再考する 金剛出版

2023-05-10 17:26:20 | エッセイ
 臨床心理学の増刊を読むのは、第10号熊谷晋一郎氏責任編集の『当事者研究と専門知』以来のようだ。
 本号のサブタイトルは、「臨床知と人文知の接続」である。

【森岡正芳「臨床心理学が切り開いてきた領野」】
 冒頭「総論」はまず、森岡正芳氏の、「臨床心理学が切り開いてきた領野」。森岡氏は、立命館大学総合心理学部の臨床心理学の教授とのことである。
 
「臨床心理学が切り開いてきた領野、それは他者に出向くことによって開かれる空間である。クライエントの自己理解の筋道に沿っていくと、本人も気づいていない予感のようなものが働く。…他者の経験とは、未知・未開のものである。それを既知の知識、専門知識に置き換えてしまうのではなく、そのことへの気がかり、疑問、関心を維持しながら、生じてくる意味の動きについていく。」(8ページ)

 他者とは、臨床心理家自身にとっての他者であり、ここでは、目の前にいるクライアントも他者と読むことになる。

「逆に持ち前の理論や概念に基づいて、個人の行動を跡付けしようとすると必ずや壁にぶつかる。理論や知識、経験による先取り的理解、そこに安住すると、人が話そうとしていることが聴けなくなる。一方で理論との照合を気に留めつつ、他方で相手が語っていることの意味を既存の知識に置き換えないこと――このような態度は、臨床現場における工夫から身についてくることであり、臨床心理学の根源的な二重性を乗り越えるきっかけとなろう。」(8ページ)

 この「臨床心理学の根源的な二重性」とは、冷たい科学的論理への指向と、現場において論理をはみ出していく温かい生への指向の間に引き裂かれていることと言えば良いだろうか。引き裂かれていることに安易な決着を付けずに、当面、耐え続けること。クライアントという他者と、それとはまた別に、臨床心理学以外の人文知という他者。
 ふむ。ひょっとすると、根源的な二重性こそが、臨床心理学の豊かな源泉なのではないか?ただし、二重性のまま放置しておけば良いのではなく、つねに乗り越えようとする志とともにありつつ、乗り越ええないものとして残る二重性、とか。弁証法的である。

【東畑開人「反臨床心理学はどこへ消えた?」】
 総論の2本目は、東畑開人氏の「反臨床心理学はどこへ消えた?―社会論的展開序説2」。東畑氏は、このブログで何度も紹介済みであるので肩書き等は省略。ちなみに「序説2」ということは、当然「1」もあるはずで、おそらくこの増刊の前号に掲載されているものかと思われるが、その確認も省略。

 東畑氏は、まず「二つの心理療法論」という小見出しにおいて、

「小さな部屋に二人の人間がいて、自己について話し合っている。…
一方にインサイダーによる心理療法論の系譜がある。小さな部屋の中で仕事をしている臨床家たちが…考究してきた。それらは心をめぐる巨大な知の体系となって、「臨床心理学」と呼ばれる分野を形成した。
 もうひとつの系譜がある。自己について語り合う二人を見て、「ふしぎなことだ」と驚いた人たちがいたのだ。人類学者、社会学者、宗教学者、哲学者など、小さな部屋の外にいた学者たちだ。彼らは心理療法が近代社会にとって特異な何かであると直観したから、それが人間をいかように象り、社会の中でいかなる役割を果たすのかを考えるようになった。これらは人文知の領域に散らばりながら蓄積されてきた。」(9ページ)

 人文知の中にあって、臨床心理学は特異な役割を果たしてきた、と東畑氏は語る。精神分析を創始したフロイトの、哲学・思想への深い影響のことを思い起こせば納得できる話である。

【東畑開人 公認心理師の時代】
 続いて東畑氏は、「臨床心理学の4つの時代」と言う小見出しで、ロジャースの時代、河合隼雄の時代、多元性の時代について語り、現在は公認心理師の時代であるという。

「公認心理師以前の教科書では、臨床心理学についての総論を示した後に、それぞれの学派を並列して解説するのが標準的な構成になっていたが、現在では公認心理師の条文と養成カリキュラムに即した構成へと変容し、医療・教育・福祉・産業・司法のような領域ごとの記述がメインになっている。」(11ページ)

 氏は、「この…移行を…自身の学術的知性ではなく、国家の行政的知性への移行とみることもできる」と述べ、教科書が、国家資格の創設に伴いハウツー物でしかない正体を現わしたとか、あるいは学問の、国家行政への服従だとか揶揄するかのような言い振りも見せながら、一方で「臨床の学としての臨床心理学の成熟とみることもできる」と評価してもみせる。臨床心理学と、他の分野との関わりが焦点化されたということであろう。

【東畑開人 反臨床心理学】
 続いて「反臨床心理学とは何か」である。
 反臨床心理学とは、「1970年前後に開始した日本臨床心理学会の改革運動によって生まれた一連の思想のことであ」り、「同時期に展開されていた「反精神医学」の影響があ」る(12ページ)と述べ、日本におけるオープンダイアローグの旗手である精神科医・斎藤環氏の言葉を引く。

「斎藤環…は、反臨床心理学による自己批判に共感を示しながらも、臨床心理学や心の専門家を廃止すれば問題が解決するという結論は「幻想」であると批判する。つまり、臨床心理学的な知識や技術は、共同体が解体していく時代に必要になったものであり、臨床心理学を失くせば、社会や共同体を回復できるわけではないと指摘し、「もう僕たちは後戻りできないのだ」と表明する。」(17ページ)

 東畑氏は、斉藤氏同様、精神医学や臨床心理学の産み出した豊かな果実をこそ評価するわけで、その解体に与することはないけれども、反臨床心理学が提起した問題を取り上げ、評価しようとする。

「反臨床心理学…にあった思想的達成を評価し、現在においてもアクチュアルな部分を掬い上げる必要がある。その先駆性として、①当事者の視点、②社会モデルの視点、③臨書心理学のharmの視点、という3つを挙げることができよう。」(17ページ)

 ここで、「当事者の視点」、「社会モデル」は熊谷晋一郎氏の『当事者研究』(岩波書店2020)を参照している。

「すでに述べたように「される側」という当事者の視点に立つことによって…」、「その結果として、反臨床心理学が「社会モデル」(熊谷、2020)を臨床心理学の初期において導入していた…。つまり、問題を個人の内側に見出し、それらが変化することを求めるのでなく、環境や社会の側に問題を見出し、それらが変化することのほうに治療的価値を見出したということである。」(17ページ)

 そして、harm=加害の視点である。

「もう一つの功績は、臨床心理学が人間に特定の「主体化=生き方」を強いることを看破した点にある。…一見価値中立的に見える精神医学が実は固有の価値観を内包している…ように、反臨床心理学はカウンセリングや心理療法の目指す「健康」を社会の観点から相対化し、それが時にクライエントをharm(加害)することを認識しようとした」(17ページ)

 精神医学や臨床心理学が、得てして通俗的な社会通念としての「健康」を無批判に受け入れて、クライアントに押しつけて、通俗的な意味での社会復帰を強いている可能性がある、そういう意味で加害的でありうる。加害しないためには、先入観念的な「健康」の観念を相対化して、現在の社会の有り様を批判的に見るなかで、クライアントを加害しない本来的な「健康」をこそ目指す必要がある、ということだろうか。社会の観点から見るとは、哲学や社会学や人類学の視点で、通俗的な先入観念を批判的に観察し考察するということだろう。ただし、言うまでもないが、臨床心理学がつねに無批判に通俗的な健康観念に囚われていたというわけではないはずである。

【東畑開人 臨床心理学の社会論的転回】
 このあたり、熊谷氏の『当事者研究』の向こうに、べてるの家の向井谷地生良氏らの「当事者研究」も参照されているはずである。
 いずれ、臨床心理学が育んできたものと、哲学、社会学等の隣接諸学から得るものと、双方が大切であり、学ばなければならないのだ、ということである。
 「河合隼雄の時代」と反臨床心理学についての記述も興味深いところだが、ここでは触れないことにする。

「公認心理師の時代に、臨床心理学は…「心理学すること」を肯定するしかない学派的思考を逃れ出て、臨床現場において「心理学すること」の何が有益で、何が有害であるのかを思索する…。
 ただし、この「学派から現場へ」を、「学派的理想主義から現場的リアリズムへ」と素朴に受け取り、精緻な「心理学すること」を軽視して、現場の実用性のみを重視するならば「ロジャースの時代」への幼児帰りとなる。…「心理学すること」をピュアに語ろうとする臨床心理学からそれぞれの臨床現場の社会的力動において「心理学すること」がいかに機能しうるかを問う臨床心理学へ。…
 心と社会を分裂させず、心が社会の中で営まれ、社会が心によって構成されていることを見ねばならない。…反臨床心理学を臨床心理学にインストールすることなのであり、インサイダーの知とアウトサイダーの知を交わらせることである、これを私は「臨床心理学の社会論的転回」と呼んでいるのである。」(25ページ)

 東畑氏のいう「臨床心理学の社会論的転回」、たいへんに魅力的な言葉である。「我が意を得たり」とはこのことである。オープンダイアローグに出会い、ソーシャルワーカーたらんとし精神保健福祉士を目指して勉学中の私を大いに勇気づける言葉である。
 しかし、東畑氏の論は、妙に交錯している、というかレトリカルというか。臨床心理学というときの臨床とは、本来まさに現場であることだが、学派的な臨床心理学というとき純粋学問みたいなニュアンスになっている。言ってみれば、ちょうど心理学と臨床心理学の違いのような。学派的な臨床心理学とは純粋指向の臨床心理学であり、それと学際的な臨床心理学をさらに対置させる。語義の矛盾を恐れない弁証法的な豊かな議論ではある。

【臨床心理学のアウトサイドとインサイド】
 Ⅱの討議は、編者の二氏に、「まさに満を持して、『臨床心理学史』という大著・労作を発表された」(33ページ)サトウタツヤ氏を加えて、「心の学が立ち上がるとき」と題され、副題の「心理学と臨床心理学の「発生」と「歴史」」を語り、つまり、両者の違いを語り、「臨床」とは何なのか、その社会のなかでの有り様を解き明かすということになる。
 Ⅲは「臨床心理学を外(アウトサイド)から見る知」で、[1]社会学・人類学・歴史学、[2]哲学・宗教学・教育学・障害学。[1]ではジャネが取り上げられたり、[2]ではミシェル・フーコーが取り上げられたり。
Ⅳは「臨床心理学について内部(インサイド)から応答する」で、[1]社会の中の臨床心理学、[2]難問(アポリア)に取り組む、[3]臨床心理学と格闘する新世代。
 ここの[2]の1本目は、信田さよ子氏の「フェミニズムと臨床心理学」。
 Ⅴにエッセイ、占星術師の鏡リュウジ氏の「心理学と占いのビミョーな関係」など、興味深い論考が並んでいる。
 「臨床知と人文知の接続」とは、若い頃からの私の興味の中心を射貫いているテーマであるというべきである。



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