村上龍、5年ぶりの長編小説らしい。
前作は『オールド・テロリスト』か、読んでなかったな。その前の『55歳からのハローライフ』は読んでいるが、こちらは連作短編というべきだろう。2013年2月に読んで感想をツイートし、その後、14年6月に、NHKでドラマ化され放映時に書いたものをつけ加えて、ブログにアップしている。読んだ時、私はちょうど56歳くらいで、人生の時期としてまさしくぴったり当てはまるところ、興味深く読んだ。2か所ほど泣いた、みたいに書いている。
さて、今回の小説は、なにか、これまでとずいぶん違っているように思う。突然私小説になってしまった、というべきだろうか。最初の『限りなく透明に近いブルー』は、自分の体験をもとに書いたのだろうなと思うし、あとは『69(シックスティ・ナイン)』は、かなり自伝的ではあるだろうが、それ以来、という感じだろうか。
村上龍と、村上春樹を並べると、どっちかというと、春樹のほうが真面目っぽくて、龍のほうが不真面目っぽいと思ってしまうが、実際のところは逆かもしれない。デビュー作以来、セックスだとか、ドラッグだとか、エログロ方面の感じは確かにあるのだが、結構真面目に資料を集めて、読み込んで、勉強して書くことが多い。経済学とか、IT関係とか、最新先端の科学とか。料理とか、ワインについても、そうだろうな。
村上春樹は、実はセックスのことばかり書いているという言い方もできるだろうけど、それと、案外、資料にあたって勉強するということはしていないような気がする。ノモンハン事件のことなどは調べたのだろうが、なんというんだろう、自分の想像力のフィルターを通して加工するための素材として使っている度合いが強いというか。つまり、必ずしも史実に正確であることを目指していないのではないかという気がする。
対して、村上龍は、勉強した中身をごく正確に使おうとする傾向がある。ま、これは、直感的な見通し、というか、仮説。ここでは論証はしない。
で、今回は、脳科学、だろうか。精神医学ももちろん、調べただろうが、どっちかというと脳科学、かな。
私小説的に自伝的な要素を描く、その際に、脳科学の最新の知見を調べて、作品に活かした。あるいは、ひょっとしたら、脳科学の最新の知見を小説にしたいと思ったのかもしれず、当初はそうとは意図せずに、幼いころの記憶にのめりこんでしまったのかもしれない。
第1章は「浮雲」。
冒頭は、こうである。
「『おれは、お前が、キーボードに打ち込むことは、何となくわかる。なぜかと言えば、おれは生まれてからずっと、お前のデスクの上にいたからだ。…(中略)…』
そんな声が聞こえてきた気がして、わたしはびっくりした。猫のタラが床に寝ていて、こちらを見ている。
『何をびっくりしているんだよ。お前には、昔から、おれの声が届いていたはずだけどな』
だいいちメス猫なのに、言葉は男だ。
『猫だから、関係ないんだよ』」(5ページ)
と、家の猫が話し始めるところから小説が始まる。村上春樹なら、驚きはしてもなぜ猫が話しているのかなど探求は始めず、想像力の赴くままにストーリーを展開していくだろう。(例えば、『一人称単数』所載の「品川猿」のように。)ところが、村上龍は、科学的な整合性みたいなものの追及にはまり込む。
「わたしは、非科学的な人間ではない。無神論者というわけではないが、あの世とか、幽霊とか、霊魂とか、前世とか、あとはスピリチュアル系とか、いっさい苦手だ。だが、こいつは、いや、この猫は、たとえば死者とかのことばを仲介しているわけではなさそうだ。」(6ページ)
科学的に筋の通ったことを探求する。筋道の通ったことを書こうとする。ここで、作家は、リフレクト(反射、反英)という言葉を見出す。
「猫は何も発信していないのかも知れない。おそらくリフレクトしているのだ。私が思っていること、考えたことが、猫に反射される形で、私に返ってきている。猫の言葉ではない、わたしの言葉なのだ。
『やっと気づいたか。よくあることだよ。別に、おかしくなったわけじゃない。無意識の領域から、他の人間や、動物が発する信号として、お前自身に届く。とくに思い出したくないこと、自身で認めたくないこと、意識としては拒んでいて、無意識の領域で受け入れていることなど、そんな場合に、お前は、誰か他の人間や動物や、あるいは樹木…、それらが発する信号として、受けとって、それを文章にしてきたんじゃないか。表現者の宿命だ。表現というのは、信号や情報を発信することじゃない、信号や情報を受け取り、編集して、提出することだ』」(6ページ)
オープンダイアローグでいう「リフレクト」は、当事者ではない他の人物(専門家)が当事者について語るのだが、ここでの「リフレクト」は、当の本人が行うリフレクトである。猫という他者をかりそめの発話者(専門家?)に仮託するリフレクション。意識的に託するということではなく、無意識的な過程として行われるものであって、ありていに言えば、幻聴のことにほかならないはずだが、ここでは、小説家の想像の秘儀、ということになるだろうか。
小説家が思い出したくないのに思い出したいこと、無意識の領域で受け入れていることとはなんだろうか?
「…それではわたしの無意識の領域で何が起こっているのだろうか。
『ミッシング。まさにそれだ。お前が、探そうとしているのは、ミッシングそのものなんだ。』」(6ページ)
失うこと、失ってしまったもの、失われているもの。
それこそが、この小説のテーマである、と作家は言う。
失われてしまったものについての小説。
具体的に、これだ、ということは示されない。具体的に、これを失ったというところから始まるのが、ふつうの小説だろう。女だったり、宝石だったり、王位であったり、青春であったり。(つまり、通俗的な小説、というべきか。)
すべての創作は、失われてしまったものについての創作である。すべての小説は、失われてしまったものについての小説である。すべての芸術は失われてしまったものについての芸術である。現に眼の前にあるものをそのまま描く芸術というのはあり得ない。描く、再現するということ自体が、失われているからこそ可能になる行為である。すべての表現は、失われてしまったものについての表現である。
抽象的に「失われてしまったもの」という言葉、概念がテーマである小説というのが、実は、純文学である。小説についての小説、という言い方もできるだろう。小説とは何か、芸術とは何か、表現とは何か、を追求するのが純文学である。
再掲するが、作家は、表現について、こんなことを書いている。
「表現というのは、信号や情報を発信することじゃない、信号や情報を受け取り、編集して、提出することだ」
この信号は、ここでは自分自身から発して自分自身に届く信号である。無意識から、例えば猫に仮託して、別の人格を通り抜けたようにして、自分の意識に届く。そんな回りくどいこと。
ちょっと、『中動態の世界』のような世界とも思える。気鋭の哲学者・國分功一郎氏が語る中動態の世界。いや、違うか。ある意味で似ているけれども、ある意味では、まったく逆転した世界ということになるか。ここでは、この点は深追いしない。ただ、自己とか、主体とかが、そんなに自明のものではないところはまさにそのとおりのところだろう。
さて、村上龍は、こういう小説は避けて通ってきたのではなかったか?その都度その都度、明確にこのテーマを書くということが明示されている小説を書いてきたのではなかったか?純文学などは、捨て去っていたはずではなかったか?しかし、今回、作家は、失われてしまったものそのものを書くのだという。
だから、村上龍のこの小説は、旧来の言い方で言う純文学、小説についての小説に他ならない。
ただし、この小説の「失われているもの」とは、進行するにつれ、実は「母」であったことが明らかになる。「母」であるというだけでなく、「母」にまとわりつく何ものかでもあるのだろうし、「母」に象徴される何ものかであるのかもしれないが、そういうのは、端的に母である、と言っていい。なんといえばいいだろう。作家は、事の始めから、母を失っていることに気づいていたわけではない。始めから失った母を主題として書こうと思った、書き始めたというわけではないに違いない。書いているうちに、母を発見したのだ。猫に誘なわれ、若く美しい女優に誘なわれて、ようやく、母をこそ書きたかったのだと発見したのである。
猫が入り口を示し、女優は、道案内する。
若く美しい女優は、彼女もまた失われているものではありつつ、しかし、それは恐らく、母を導入するための緩衝材でしかない。意図した緩衝材であれ、意図しなかったものであれ。女優を、機会があれば抱きたいと思っているに関わらず、抱くことはない。そういう機会が訪れないのでもあり、実は抱こうとは思っていないのでもある。深い愛着があるにも関わらず、抱こうと思わない存在。これは、「母」の代わりに他ならない。
「失われているもの」とは、実は母であった。話が飛躍するが、これは、この小説においてはそうだった、ということではなく、世の人間にとって、誰かの子である経験を持ったことのある人間、つまりすべての人間(男性に限らない)にとって、「失われているもの」とは、すべからく母のことであるということなのかもしれない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。この点も、ここではこれ以上追求はしない。
はじめて「母」が登場するのは、第3章「しとやかな獣」に入ってから、70ページとなってようやくである。
そのあとは、母のこと、付随するように父のこと、佐世保と思われる港町のこと、坂道のことが、繰り返し描かれる。ページをめくり違えて、同じページを読んだか、と勘違いさせられるときがある。記憶のなか、なのか、現実なのか不分明なまま、どこかに沈潜していく。
小説の末尾、最終章の「復活」は、下記のように、閉じられる。
「いずれにしろ、現実に戻れるかどうか、考える必要はない。現実とは何か、はっきりしない。はっきりしないものには意味がない。現実には、意味がないのだ。」(259ページ)
フィクションである小説を書くことをこそ生きてきた小説家である。女を抱き、美味いものを食べ、ワインを飲み、音楽を聴き、サッカーを堪能し、テレビの司会も務めながら生きてきたこの小説家の生きてきた現実の中核は、架空の小説を書くことであった。空想の小説は、しかし、同時に文字の印刷された紙の製本された物体そのものであり、まさしくその物体を、作家は生産してきた。それなしには、小説家とはなりえなかった。作家がその全身全霊をかけて生み出してきたのが、物体としての小説の本であることは事実である。もちろん、架空の小説が、鋭く現実を抉るという意味でも、現実の読者の行動に決定的な影響を与えるという意味でもそうなのであるが、創作は現実であり、空想が現実である。空想と現実は、作家にとって別物ではない。截然と区分できるものではない。
だから、現実に戻れるかどうか、考える必要はない、のである。現実とは何か、はっきりしない、ということになるわけである。村上龍は、小説家であるから、この理路は分かりやすい、ということになってしまうが、実は、私も、あなたも、誰であっても同じことである。空想と現実は、実際のところ、そんなに分かりやすく区別できるものではない、のである。
さて、全部で十章からなるこの小説の章名は順に、「浮雲」、「東京物語」、「しとやかな獣」、「乱れる」、「娘・妻・母」、「女の中にいる他人」、「放浪記」、「浮雲」Ⅱと8章まできて、これはすべて1950年代から60年代の日本の映画のタイトルから採っているようである。9章の「ブルー」は、恐らく、自ら監督もしたデビュー作「限りなく透明に近いブルー」のブルーだろうか。終章の「復活」は、恐らくそんな題名の映画もあるはずだろうし、トルストイの小説もあるが、ここでは、特定の題名の引用ではなく、その言葉通りのことと取ってよいような気がする。(もっとも、トルストイは読んでいないのでよくわからない。何か、関連付けはあるのかもしれない。)
各章のタイトルの言葉自体、この小説の内容の暗示ともなっているとともに、戦後間もない、小説家が生まれたころの日本を象徴しているのでもあるだろう。
ところで、第1章において、ひとりの女性が登場する。ここでしか登場せず、話の本筋にはほとんど影響しないような端役の人物である。
「その女は、ぶしつけに話しかけてきた。わたしは、誰もが知っている著名人というわけではないが、よく雑誌などの取材を受けるので、多少は顔を知られている。女は、四〇代前半といったところで、眼鏡をかけ、髪がぼさぼさで、よく目立つ赤いコートを着ていたが、見るからに質が悪く、履いているブーツもひどくくたびれていた。顔は全く覚えていない。印象に残るような顔ではなかった。」(18ページ)
主人公が、若く美しい女優と、ローマの遺跡を歩いているときに、急に声をかけられた日本人女性である。たぶん、ここには、女優や、美しい母と対比された何らかの意味はあるのだろう。
村上春樹の『一人称単数』に登場した醜いが独特の魅力があるとされた女性とか、60歳代の同級生の現在の姿、あともちろん地下のバーのカウンターの隣に座って話しかけてくる50歳代の女性の描き方と対比するために、ここに引いてみたのだが、実は何というか、『一人称単数』を読んで、引き続きこの本を読み始めて、どうもどこか似ている、というふうに思ってしまうところがある。共通した世界がある、全然違うのだけれども、奇妙に交差する、みたいに思える。すでに若いとは言えない世代の女性の登場もそうだが、分かりやすいところで言えば、言葉を話す「品川猿」と、冒頭の猫タラ。
東京の都心の地下のバーと、地下のレストラン。服装のこと。
記憶、幻。実在か否か。幻覚、幻想。
奇妙な出来事が起こる、というのは、小説として当然のことであって、あえて言い立てることではないかもしれないが。
ホテルの廊下を進んでいくというところは、「羊をめぐる冒険」と一緒だし、下降していく(上昇しているのかどうかよくわからないにしても)エスカレーターは春樹作品に繰り返し現れる地下の穴、とか、地下道とかと同じようなものだろう。
村上春樹と村上龍という同時代の作家は、文体とか、雰囲気とかは全く違うにもかかわらず、描かれている世界は、思いのほか近いところがあるのではないだろうか?音楽だとか、ファッションだとか、食べ物だとか、女の好みとか、案外、相当近いところがあるのではないだろうか?時代の風俗が共通している、といえば、これも言わずもがな、にはなる。
あ、そうそう、繰り返し登場する、主人公のかかりつけ医が、心療内科医である、というのが、おや、と関心を引く。これは、新しい傾向といえるのではないか。精神科医ではないし、もちろん、アメリカ小説っぽく精神分析医であるわけでもない。過覚醒した意識だか、働きすぎる想像力だとか言って、主人公は、決して病気ではないと診断し、薬の投与に頼るよりは、話を聴くことに時間をかけているようで、昔のアメリカのドラマであれば、精神分析医の出番というところである。考えてみると、私の十代のころは、テレビドラマと言えば、アメリカものがむしろ人気で、そういうドラマには、よく精神分析医が登場していたものだった。
閑話休題。
と言って、戻る本筋があるわけでもなく、ここでお終い。
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