ぼくは行かない どこへも
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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

製薬会社が新薬開発をやめることについて

2019-09-29 14:01:43 | エッセイ

 ちょっと考えてみる。思考実験と言ってもいい。まずは、まともな提案と思ってもらわなくていい。

 製薬会社が、新薬開発を一切やめる。そうしたら、いったいどんなことになるか?

 薬を一切使わないということではない。

 これまで、使用されてきた、開発済みの医薬品は使ってよい。これから開発される新薬は、一切使わないことにするということである。

 言ってみれば、すべての製薬会社がジェネリック医薬品のメーカーになるということになる。

 全ての疾患に対して、医薬品が必要な場合は、これまで開発され、使用されてきた実績のある薬のみ処方される、ということになる。経験に裏付けられた、歴史のなかで実証された効能が考慮され選択されることになる。

 

人体実験のこと

 新薬開発しないということは、エヴィデンスを求めて新たな実験を行う必要がなくなるということである。人体実験を行う必要がなくなる。プラセボを使った治験群と、新たな薬品候補を使った治験群との対比実験など行う必要がなくなる。本当に効果があるのか分からず、意図しない致命的な副作用があるのかもわからないような物質を服用するというような、非人道的な実証実験を行う必要がなくなる。

 実際に病気で困っている患者を、2グループに分けて、効果のある方と効果のない方に区分するなどという非人道的な実験を行う必要がなくなるということである。

 考えてみると、漢方薬は、基本的に新薬はないはずである。医学全体が大幅に東洋医学の方向にシフトすることになるのかもしれない。

 

膨大なコスト

 経済的な問題がある。

 現在、新薬開発には膨大なコストがかかっていると聞く。

 化学的、生物学的な新発見や発明のための開発費用、人体での治験のための費用、天文学的な数字に違いない。世界的な巨大企業が、開発費用を負担するために、企業の吸収だったり、対等だったり、さらに巨大化する合併劇を演じ続けている。

 結果、開発された新薬は、膨大な費用の回収のため目玉の飛び出るような値段となっており、一般人には負担しきれず、健康保険が適用になったらなったで、保険財政が破綻するような金額になってしまうケースもあるらしい。

 そんな新薬は、人類にとって必要なモノなのだろうか?不老長寿の理想を掲げて、新薬開発の使命を高らかに歌い上げる製薬会社は、人類社会において、必要なモノなのだろうか?

 先取りして言ってしまえば、新薬開発を進める製薬会社は、実際は不要なニーズをでっちあげて、成長を不可欠のものとして追い求め続ける現代の資本主義社会の典型、もっとも象徴的なプレイヤーなのではないか?

 道化役者である。悲劇でしかない。死に神に見えてくる、とすら言ってしまいたい。

 もちろん、現時点で不治の病と宣告された患者は、薬効ある新薬の開発を心待ちに待っている、そういうケースはあるに違いないのだが。そして、そういうひとたちを見捨てる、ということになるのであれば、相当に慎重な議論を行わなければならない、ということになるのではあるが。

 

不老不死は理想か?

 人間は、老いるし、いつか寿命を迎える。不死などありえないし、不死とは、極楽ではなくて、むしろ、地獄の謂いでしかないかもしれない。

 実験なので、極論を言ってみるが、ひとりの人間も死なない世界と言うのは、理想郷だろうか?そういう世界に新しい人間は生まれてくるのだろうか?赤ちゃんは生まれてくるのだろうか?そんな世界に子どもは存在するのだろうか?

 何年も何億年も、永久無限に同じ人間が生き続け、新たなメンバーが参加することはない。そんな世界は、まるごと死んだ世界も同様ではないか?

 もちろん、そんな不老不死の世界は、極論に過ぎない。地球だっていつかは滅ぶ。どんなに医療が発展しようとも、すべての人間が死なないなどということはあり得ない。はずである、たぶん。

 人間は必ずいつか死ぬ。けが、病気や老衰、どんな新薬が開発されても、人は死ぬのである。

 医療は、必ず人間の命を助けなければならない、現在では無理だがそれが理想なのだ、という人もいるだろうか?医師の中には、そんなふうに思い込んでいるひともいるような気がする。(新薬開発の製薬会社は、建前としてまさしくそんな理想に囚われているようにも見える。)

 人類は、不老不死の理想を追求し続けるべきなのだろうか?

 言うまでもなく、そんなことはありえない。

 むしろ、医療は、よく死ぬことの手助けこそ行うべきなのではないか?それが、よく生きることにつながるのではないか?

 

病名のつかない老衰はありうるか?

 ところで、人間は、どんな形で死ぬのが理想なのだろう。不慮の事故ではなく、若すぎる難病でもなく、一定の年齢に達して自然に老衰で死ぬのがいい。それはそうである。

 死因としては一切の病名がつかないまま、老衰で死ぬ。

 それは、たぶん、理想と言っていいのだろうな。

 そのために、あらゆる病気は治療されなければならず、有効な薬の見つかっていない、致命的な病気に対しては、新たな薬が開発されなければならない。そしてあらゆる病気が治療された後に、何ら病名のつかない老衰として死んでいく。

 これはこれで、一つの理屈は通った話である。

 そりゃそうだろうな。

 しかし、そうなのだろうか?

 もちろん、現在の医療の水準に預かることなく、治療可能な病気で死んでしまうなどということはあってはならない。その水準の病は治療されるべきである。これも言うまでもない。

 以下の議論も、まあ、どうでもいいというか、めんどくさいというか、哲学好きでなければ、あえて問うことなどないものかもしれない。不毛の議論とすら言ってしまいたくなるが、まあ、少々お付き合い願いたい。

 人体というシステムは、すべての働き、すべての臓器が、年を取るごとに均一に老化して、機能低下していくわけではない。たとえば、心臓は丈夫でも、脳内血管の老化が先に進んでいるかもしれない。先に老化が進んで、機能障害を起こしていく場所が生じる。

 ある臓器の機能障害とは、それこそ、病気ということではないか。そこには、必ず病名が与えられるのではないか。症状として記述され、何とか病とか、何とか症候群とか、なんらかの病名が与えられるのではないか?

 一般的に言って、ピンポイントにそこに適切な治療を行えば、全体としての人体は生き延びることができる。自然な推移としての老化ではあっても、治療すれば持ちこたえる場合が多々ある。

 自然な推移ではあるとしても、何の病名もつかない老衰などということは、まあ、ほとんどない、というべきなのだろうな。

 臨床医学の哲学として、こういう点は、現在すでに大いに議論が進められているはずである。尊厳死とか、遺伝子操作とか、科学の最先端のところで、哲学的な議論は行われている。

 

医療の使命

 製薬会社が、新薬開発を一切やめても、地域の医療機関や薬局は、これまでどおりの仕事を続けていくことになるだろう。

 これまで通りというなかで、よりよい仕事。患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフー生活の質)を高める、ひとりひとりの抱える問題に正対して、カウンセリングをしながら、治療にあたる。これまで世に存在する薬のなかで、患者に最も合いそうな薬を見つけて処方する。必ずしも薬に頼る必要のないとき、適した薬が見当たらない時は、薬を使わない選択もする。(哲学的な、というか、文化人類学的な用語を使えば、レヴィ=ストロースの言うブリコラージュ(器用仕事)のたぐいである。)

 新薬開発を止めたからと言って、医学の役割が終わるわけではない。新しい技術、新しい知識を追い求める、際限のない成長神話としての科学、一個の幻想が終わるということに過ぎない、のではないか。

 少々議論の筋から外れるが、上でも触れた尊厳死の論点に関わることで言えば、ひとがまさに死ぬ時点にいたって、病院に入院している限りは治療が続けられなくてはならない、などということはないはずである。

 病院とは治療の行われる場所であって、老人ホームではないのだから、治療の施しようがない時点にいたれば、すぐ退院してもらわないと困る、などという病院関係者はいるかもしれない。

 それは確かにひとつの理屈の辿りつく先である。

 しかし、一方、病院とは死ぬ場所である。いま、大多数の日本人の命を終える場所は、病院である。

 患者を苦しめるだけの最期の延命治療、などということがあるとすれば、そんなものは一切やめるべきである。

 病院は、ひとがよく死ぬための場所でもあるべきである。医療保険制度も含めて、一見相反するような事態にも対応するかたちであるべきである。

 尊厳死とか、このあたりについては、医師を含め貴重な論考が多数世に出ているはずである。

 

 そんなこんなで、新薬開発は、少なくとも現時点に至っては、人間がよく生きるための糧にはなりえていないのではないか、と思ってしまうのである。近代西洋医学の発達の、歴史的な使命はあった。ここまでは確かにそうだったはずであるが、もはや、使命を終えた、と言うべきなのではないか?

 新薬開発こそ、現在の行き過ぎた資本主義社会の象徴的な出来事であり、そこから脱却して、人間が人間らしく生きていくための社会変革のスタートラインとなりうるのではないか?

 世界全体が、成長神話を脱却する必要がある、ということである。それこそグローバルに、行きすぎたグローバル経済を脱却する必要がある。

 デカルト以降、明晰判明なエヴィデンスが追い求められてきたが、実は、最先端の科学は、必ずしもエヴィデンスばかり要求しているわけではない、のではないか?今はエヴィデンス主義の限界が、見えてきたとき、なのではないか。

 と、ここまでが、一個の仮説であって、この先、最先端の医療現場で難病に立ち向かう医師や患者自身、製薬会社を取材して、一つの類型で最低2ケース、それを3類型ほど集めてルポルタージュをものすれば、そこで、ジャーナリストとして世に認められるということになるのだろうな。小説というものも、その時点から書きはじめるべきものなのかもしれないな。


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