この本は、タイトルにオープンダイアローグという言葉を含んでいるが、オープンダイアローグという画期的な方法の紹介を主眼に置いた書物ではない、ように思える。精神医療における方法であるが、もっとひろく福祉、教育の分野で大きなパラダイム転換をもたらすきっかけともなりうる対話を中核に据えた方法の、シンプルな紹介のための本ではないように見える。
端的に「オープンダイアローグ」を学びたいという読者には、すでに、著者の斎藤環氏自身が監訳を行った「開かれた対話と未来」ほか何冊かの書物が上梓されている。この本ではなく、それらの既刊の書物にあたっていただいたほうが良い、と思われる。
では、この書物は、どういうものなのか。何のために書かれたものか。
「さて、本書に収めた村上靖彦氏との対談で、私は一種の「転向」を表明している。すなわち、臨床家としてのラカン派精神分析の立場から対話主義の立場への転向である。」(237ページ)
ラカン派精神分析の理論に拠って立ち、数多くの著作をものしてきた評論家斎藤環が、臨床の精神科医としては、ラカン派ではないと宣言した、オープンダイアローグの方法に拠って立つと宣言した書物である。転向の告白の書である。
とは言っても、私がスキャンダラスにその転向を批判する、などということではない。現に「転向」とご自分で書いているわけである。
私など、哲学思想の方面から精神分析に興味を持ってきた人間は、現在の精神科医療にどこか疑問を持っている場合が多いだろう。精神分析は、現代の思想に非常に大きな影響を及ぼしてきた。フロイトや、日本では河合隼雄など、きたやまおさむ、また、斎藤環自身も含めて読んできて、なぜ精神分析が精神科医療の中核に据えられないのか、辺縁にあるというよりも、むしろ忌避されているのはなぜなのか、そんな疑問をいだいてきた。
その疑問について、思想家にして臨床家である斎藤環が、ここ数年来の自らの実践、思想的営為をまとめることで解き明かした、これは、そういう書物である、と私は考える。
斎藤氏によるオープンダイアローグの紹介に出会って以来、中井久夫の著作なども読み、改めて精神医療というものの全体像を学びなおした思いがあるが、その経過の中でこの書物を読むと、いちいち得心するところが多かった。
ひとつには、私などが、理想化しつつ精神分析と言って想定していたものを、狭い意味での「精神分析」から解き放ち、精神分析を中核的な源流としながらそれを超える「精神療法」というふうに言いかえたほうが良い、というようなこと。
この本は、オープンダイアローグが日本に定着するうえで、哲学思想的にも納得がいき、また、実際の臨床においても明確な成果をあげうるものであることを、思想家にして臨床家の立場から、斎藤氏が論証して見せた書物ということになるのだと思う。シンプルな紹介書としては文脈的に挾雑物が多すぎるのかもしれないが、大きな意味でオープンダイアローグの紹介、拡がりと定着に資するものであることは間違いない。
この書物の私なりの紹介としては、以上、ということで充分かもしれない。あとは直接、読んでいただければよい。
ただ、せっかく引き写した部分があるので、長くなるが気の向いた方はお付き合い願いたい。フィンランドにおける出会いの場面である。
「ひときわ印象的だったのは、現場でなされた治療ミーティングへの参加体験である。私が参加したミーティングのクライアントは、五〇歳台の足に障害をもつ移民男性。治療チームは精神科医と看護師、ソーシャルワーカー。対話はもちろんフィンランド語でなされるため内容はわからない。しかし、同席したフィンランド語通訳の方の話によれば、一時間あまりのミーティングで話された内容は、福祉サービスに関連することがほとんどだったようだ。つまりこのミーティングは治療というよりも、生活困窮者の相談としてなされていたのだ。
つくづく感じ入ったのは、その徹底した包摂性である。日本であれば、まず間違いなくこうした事例の相談に病院やクリニックは応じないだろう。かなり良心的な病院でさえも「そういうご相談は役場の福祉相談窓口に行かれてみては」というアドバイスがなされておしまいだ。」(13ページ)
この「徹底した包摂性」、確かに日本では想像しがたいシーンかもしれない。しかし、実は、お隣岩手県の山深い僻地、沢内村においては実現していた、ということは地方自治に関心を持つ者にとっては有名な話である。(高齢者の内科的な部分が中心ではあったはずだが。)
「かつての岩手県沢内村における医療改革がそうであったように、ほんらい医療と保健、福祉は一体であるべきなのだ。専門ごとに細分化され、窓口が別になることでサイロ化(タテ割り)が進むと、その隙間で膨大な取りこぼしが生じる。」(13ページ)
この先進事例は、当時、美濃部都知事らの先進自治体の医療、福祉政策として取り入れられ、その後に国の制度となった。高齢者医療費の無償化である。ただ、国策化される過程で、その包摂性は薄まっていったのだろうが。おっと、この話はここではここまで。
精神分析と主流の生物学的精神医学に対する氏の関わり方は、次のようなところ。
「筆者は精神科臨床医として二五年間、私立精神科病院に勤務した後に、五一歳で大学教員に転じたというやや特殊なキャリアを持っている。特定の学派には属さないが、患者理解に際しては精神分析の恩恵に浴しつつ、治療ツールとしては認知行動療法からケースワーク的な介入まで、使えるものはできるだけ使うというブリコラージュ的な柔軟性を大切にしてきた。
それゆえ臨床医としてのスローガンは「理論は過激に、臨床は素朴に」である。これは言わば「高度の平凡性」を企図したものであり、昨今主流の生物学的精神医学には「単純さゆえの問題」があると感じている。とはいえこちらも一定の支持を集めている「反精神医学」や「反薬物療法」派でもない(こちらにも「単純さ」の問題がある)。それゆえ立ち位置としては、精神医学内部に留まりつつ批判的な視点、すなわち半身の構えを維持しようという「半―精神医学」(井原裕)というあたりに落ち着くだろうか。」(25ページ)
井原裕という方は、独協医科大の教授、「薬に頼らない精神医療」を唱える方らしい。
上のブリコラージュという言葉だが、ベイトソン、レヴィ=ストロースなどによる重要な概念で、現代の社会に対する批評として重要な意味合いを持っている。意味は「そこらにあるもので間に合わせ修理をする」というようなことである。いま、自動車でも電化製品でも、修理と言えば、ワンパッケージ全取り換えだし、修理などせずに新品を買った方が安いとかいうことになっている。そんなことでいいのか、ということである。はんだごてで電線をつなぎ直したり、そういう手間暇かかる修理こそ、今の世の中のありように対する批判たりえるのではないかというようなことで、実は、これがオープンダイアローグの対話重視につながることになる。〈先日、NHKのテレビで、三重県の山奥の電器修理業者を紹介していて、いたく感銘を受けたところであるが、ここらの論点はまた別の機会に。〉
閑話休題。
さて、精神分析については、その意義を、さらにこう評価する。
「…治療手段としての精神分析がすでに衰退傾向にあることは衆目の一致するところである。ただし、単純に消滅してしまうわけではない。
転移、解釈、無意識、外傷といった精神分析由来の概念はもとより、診断よりも個人、治療プロトコルよりも体験の固有性を重視する基本姿勢は、形を変えて継承されていくだろう。何よりも「治療手段としての言葉」の地位を確たるものにしたのが精神分析であることを考慮するなら、精神医学からその痕跡をぬぐい去ることは到底不可能である。」(40ページ)
精神分析が見出した「言葉の力」が、精神療法の根幹をなし、オープンダイアローグにつながる。
「抑圧された体験の言語化が除反応(症状の消失)をもたらすことを見出して精神分析を発明したのはフロイトだが、この言語化による治療機序は、今もなお精神療法の根幹をなしている。OD(=オープンダイアローグ)は分析的な手続きによることなしに、身体言語を巻き込んだ対話の過程のなかでそれが可能になることを見出した。」(131ページ)
精神分析は、治療者と患者を、支配―被支配の垂直的な力関係に巻き込んでしまい、また、魂にメスを入れて傷つけるような危険性を伴うが、オープンダイアローグはそんな心配はないのだという。
「対話主義は水平的、すなわちフラットな関係性を尊重する。これは「変化の双方向性」や「対話による共進化」を志向するためでもある。いずれもラカン派からみれば自己愛的な「治癒の幻想」とみなされるであろうことは、かつて「そちら側」の近傍にいた経験からも理解できる。しかし、私は臨床家として、治療における「自己愛の補強」とそれをもたらす「幻想(ナラティブ)の力」を強く信任することにしたのだ。
……そうは言ったものの、それは臨床上の話である。ラカン派哲学者のジジェクが広く支持されていることからも明らかなように、今後も「ラカン」は強力な批評理論としては延命するだろう。…(中略)…早急に精神分析を否認し忘却することは、将来において「車輪の再発明」に似た愚かしさを反復する可能性がある。」(238ページ)
精神分析への批判と評価である。
現在主流の生物学的精神医学の方向への批判としては、以下のようなところだろうか。精神医学のみならず、医学全般についての批判でもある。キュアとは何か、ケアとは何かなどということも説明すべきではあろうが、ここでは省略する。読みとって欲しい。
「しかし、ここで現代医学の潮流を見渡してみよう。すでに「キュアからケアへ」「患者から病む個人へ」「病院からコミュニティへ」「医師の指導から患者の自己決定へ」「教育から自立支援へ」「客観的健康から主観的健康へ」「疾病生成論から健康生成論へ」といった動向は、医学の全領域においてはじまっている。そのことごとくが、「個の多様な健康」へと動きはじめている。
精神医療における「開かれた対話」こそは、キュアとケアを架橋し、自己決定と自立を促し、健康を生成するための最大の契機となるであろう。」(52ページ)
どうも病気というのは、特に精神的な病気は、これまでのような科学的な原因追究だけでは治らないというような潮流となっているらしい。というと言い過ぎかもしれないが、原因追究で治るような病気は、もうすでに相当治せるようになってしまっていると言えば良いか。原因追究で治る病気の原因は、もうすでにかなり解明されてしまって対応済みだと言えば良いか。逆に言えば、原因追求では治らない病気がいっぱい残っている、ということになる。
「ODは原因をネットワークに求めているのではなく、原因いかんにかかわらず、ネットワークの修復は治療的意義を持つとみなしているのだ、と。ネットワークの修復が患者の治癒力を引き出す、…筆者は精神疾患については、身体疾患と同水準の原因療法はほぼ不可能であり必須でもないと考えている。少なくとも現時点で、厳密な意味での原因療法は存在しない。むしろ原因の解決とは異なるアプローチであっても治癒が起こりうるのが、「心的装置」におけるレジリエンスの特性はないだろうか。」(224ページ)
ここで、ネットワークというのは、ひととひとの関係である。親子、友人、職場、地域、社会の人間関係である。
生物学的な原因追究ということは、下記のような誰がやっても同じサービスを受けられる「互換性」と結びつく。マニュアルがしっかりとして、だれがボタンを押しても同じ結果が得られるブラックボックスというか、問題があれば、ワンパッケージまるごと取り換えて修繕完了みたいなというか、この薬さえ飲ませれば安心というか、今の世の中、そういうふうになることが理想だということになってしまっているのかもしれない。上の方に出て来たブリコラージュとは正反対の事態である。
「日本において重視されるのは「治療者の互換性」のほうではないだろうか。担当医が交替しても同じ品質のサービスが受けられるようにできるだけ特別なことはしない、という発想である。ともすれば医療をファーストフード的な均質化に導きかねないこの考えは、特に若い世代の臨床家に広く共有されているように思われる。」(224ページ)
現在の社会全般が、「ファーストフード的な均質化」の危険に曝されている。全てのものごとや人間が、グローバルで均質なひとつの尺度のもとに位置付けられ、順位づけられてしまう。それは確かにそうに違いない。しかし、この均質化がさらに進むべきだ、それが理想だとは誰も言わないだろう。均質化の極限まで推し進められたモノローグ、独語の世界ではなくて、多様な主体によるダイアローグ、対話の世界へ開かれていくことが必要なはずである。
斎藤環氏は、最後に改めて決意を述べている。
「知れば知るほどこの手法に魅了された。有効性もさることながら、高度な倫理性と治療効果を両立し得た点も素晴らしい。たとえ何年かかろうとも、日本の精神医療の一角に、この「手法/思想」を導入しなければならない。このときの決意は、あれから六年を経た現在でも、いささかも揺らいでいない。」(282ページ あとがきに代えて)
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