2年ぶりの発行となる。回生は、いろは…で号を振っているが、み号というのは一体第何号になるのかやすやすとは分からない。
〈いろはにほへとちりぬるをわかよたれぞつねならむ××のおくやまけふこえてわかみよにふるなかめせしまに〉などと、記憶を辿って書いている途中から出鱈目になってしまう、というようなことで、み号が第何号目なのかは謎のままだ。ネットで調べれば一目瞭然であるが、あえてその手は抜いて、しかし、たぶん、上の××の前までは確かなので、少なくとも二十数号は刊行されていることになる。回生の、この号の紹介としては脇道の話でしかないだろうが、〈いろは〉を使うというのが、いかにも小熊さんらしい、というふうに私は思ってしまう。分かりやすく普通であることを好まない性質(たち)なのではないかと。
考えてみると、この2年ほどお会いしていないので、最近は変わっている可能性はあるが、風貌としてはごく常識人であり、ひとあたりの良い穏やかな人格者であるはずである。
しかし、それは表の顔でしかなくて、心の奥底には温度の高いマグマが潜んでいるひとなのである、というふうにも思う。
尾形亀之助という高名ではあるがマイナーな詩人に着目して「無意味な意味の尾形亀之助読書会」などというものを七年間にわたって主宰し、もちろん、亀之助は、小熊さんがお住いの大河原町の出であるというごく当然の連関というのはあるわけであるが、「無意味な意味」などという言葉の遊戯でしかないような言葉を掲げて地道ながら特異な活動を継続されているなどというのは、内に秘めた熱の顕現であり、まさに詩人であるとしか言いようがない。
などと書いてきて、よくよく見直すと奥付にあっさりと通巻四二号と明記してあった。きちんと分かりやすく注記を入れる親切さは、風貌の通り、併せてお持ちということになる。発行人に、もうひとり中村正秋さんもいらっしゃるが、実質的には、小熊さんが編集発行を兼ねた個人誌と言っていい。数十年にわたって継続なされているわけである。
小熊さんは、裏表紙の後記「ランダム・メモリー」にこんなことを書いている。
「二年ぶりの発行です。この間、自分のいい加減さに呆れ果てていました。生きる価値がない人間という意識のままただ生きていました。どういうわけか今年になって、そんなことどうでもよくなりました。ほんの少しですが、身を滅ぼしていく人の気持ちが分かったような気がしました。酒や煙草をがぶ飲みし、ぷかぷか煙を吐いて、酔いしれて野垂れ死になる人間は、普通の人から見れば自業自得と思われるでしょうが、私にはそう見えなくなってしまいました。」
〈生きる価値がない〉、〈ただ生きていた〉、ただならぬ書き出しである。
確かに、この二年間の空隙、このところしばらく、私たちの『霧笛』なり、あるいは、私の詩集『迷宮』への反応もお伺いすることができなかった。そもそもは、仕事を通した出会いではあったが、詩の世界では大切な友人と思ってきた。いささかさみしい思いはあったところであるが、そうか、『回生』の発行自体、二年間の空隙があったのか。
それにしても、である。
小熊氏は、私の2学年下で、今年62歳、4月時点でこの2年間というと、定年退職前後の1年づつである。一般論として、人生の大きな節目であることに間違いはない。ある期間、仕事で関わった時期があるが、私の知る限り、仕事のできる人であった。冷たい能吏という意味ではなく、人間味ある、かつ、的確な判断と事務処理のできる人である。そういう人が、定年退職をはさんだ時期に、こんな状態であった、というのはどういうことだろうか?
私自身も、退職後4年目を経過しつつある今に至って、生きるということについていろいろと思うところはある。成長したいとか、何ごとか成し遂げたいとか、あまり思わなくなった。〈生きる価値〉など、何ごとでもないと。いつかは必ず死ぬわけである。かといってまだ死にたいわけでもない。一種の諦観であり、ひょっとすると達観でもあるかもしれない。ほとんど体感のように、悩むでもなく、苦しむでもなく。これで、浮かれはしゃいでいるわけではないが、少なくともうつ状態にはなっていない。仏教的な悟りなどという代物は、たかがこんなものなのかもしれない。(大乗仏教がけなす意味での小乗の悟り、というか。)
小熊氏は、今号、「ロボット」という詩を掲載されている。
ロボットと、人間の私とが言い争うという詩だ。
「とにかく
細胞というものはないだろう
絶えず新陳代謝を起こしている
そういう生きた物だ
わたしだって
原子でできているのですよ
核融合だってできますよ
始まったら止まりませんよ」( 45ページ、7~8連)
このロボットは、部品を組み合わせただけの機械で、意志など持っているはずがないのに、何か自由意志を持ってしまったかのようである。原子力すら自ら操って、永遠に活動し続ける神のようなものに成り果ててしまった。
「おおきなおっぱいだって
直ぐに作れます
おおきなお尻だって
直ぐにお見せしますよ
なんならあなたの欲望を
私が叶えてあげますよ
どうぞ命令してください
反抗なんてしませんよ
忠実にあなたが考えていることを実行しますよ
彼は
いや、彼女は
短いスカートをはいて
やって来た
歩く度に
裾が捲れて
足の付け根が見えそうだ
いや、ただの部品だ」(48ページ、11~13連)
なんだってできるこの全能の神は、人間の卑小な罪深い(奥深い)欲望にも大真面目に応えてくれる。かと思うと、
「イヤッ!
エッチ、痴漢だよ~
誰か捕まえて
この人」(48ページ、15連)
と、一転、罠にかけて突き落とす。裏切る。しかし、そもそも信頼関係があったわけではない。ひょっとすると〈私〉は、突き落とされることをこそ望んでいたのかもしれない。〈生きる価値のない人間〉であったのかもしれない。
「ロボット」は、掲載作品の最後、8ページにわたって淡々と淡々と記述が続く。引用した部分は、何ごとか事態が進展した部分である。
今号には、中村正秋氏、やまうちあつし氏、秋網まさお氏、金子忠政氏の詩と、真野絵里加氏の随筆、小松千秋氏の随想が掲載されている(随筆と随想は、それぞれの筆者がそう書いた、ということだと思う)。
それぞれに興味深く、考えさせられる作品である。それぞれの表現にそれぞれの人間が表れている。
小熊氏は、他に2段組み6ページにわたる評論「余念「尾形亀之助」」(1)、折に触れての「情報短信」を細かい活字で2段組み12ページを綴られている。「余念」は、中断したままの尾形亀之助の読書会についての経緯の報告で、次号に続くとのことだが、これもまた淡々と淡々と続いている風情である。一度、私も話せよとお声がけいただいたことがあり、末尾に列記される中に「千田基嗣(詩人)『気仙沼で詩を書き続けること、そして詩誌『霧笛』のこと』2015.1.24」と記載がある。小熊氏が、必ずしも亀之助に直接かかわることのみではないと書かれている通りの内容である。
「情報短信」には、常には『霧笛』のこと、及川良子さんはじめ、『霧笛』のメンバーのことも触れられていることが多いのであるが、今号は、登場しないのがいささかさみしいところではあった。
しかし、今号掲載の評論、後記と読むと、なるほど、この2年間、そういう時を過ごされていたのかと気づかされる。
ところで、この紹介を書いている最中に気づいたのだが、氏のブログの情報短信に、5月16日付で、『霧笛』133号のことが紹介されていた。ずいぶんと久しぶりのことになる。西城健一氏が、詩のほかに短歌を載せ始めたことに触れて書かれている。なかで、『霧笛』には、「いつものとおりに「生」に対して肯定的な作品が並んでい」ると記されている。
ふむ、なるほど。確かに、霧笛同人の仲間たちは、それぞれに生にポジティブに向かい合っているということなのかもしれない。
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